リーダーに求められるのは、強い思いや大きな夢~渋澤健×出口治明×木暮太一

本記事は、2015年7月に開催された「あすか会議2015」のセッション「『論語と算盤』に学ぶ歴史とリーダーシップ」の内容を書き起こしたものです。(全2回 後編)前編はこちら

生涯続く、自分探しの旅

木暮太一氏(以下、敬称略)自分が学ぶだけでなく周囲の人々を導くような役割も求められるリーダーは、部下やメンバーとどのように接していけば良いのでしょうか。

 出口治明氏(以下、敬称略):私はいい加減なので、「君の人生やから一生迷ったらええ」と(会場笑)。実際、ほとんどの人は偶然で職業やパートナーを見つけている一方、「自分は何をしたいんだろう」といったことは分からないまま死んでいくのだと思うんですね。だから死ぬまで迷っていいと思います。死ぬまでに見つけられる人ですら圧倒的少数派のエリートですから。

年寄りの私は皆さんより知っていることもありますから「こうしたらええで?」というアドバイスはできます。で、それを聞いたほうも「なるほど」と思う。ただ、人間というのは本当に自分で考えて腑に落ちなければ行動できません。「いい話を聞いたな」で終わってしまう。

私の好きな言葉の1つに、山本義隆さんという方が、ある本を書いて賞をもらったときのスピーチがあります。「なぜ人間は勉強するのか。自分の頭で考え、自分の言葉で、自分の思ったことを言うためだけに人間は一生勉強し続ける。これは古今東西すべてそうです」と。だから勉強しても勉強しても難しい。自分の頭で考え、自分の言葉で、自分の思ったことを言うというのは、自分探しの旅ですよね。それは一生やっていくものなのだと思います。

たとえばスキー場で楽しむ方法は、スキーを滑るか、滑る人をボーッと見ているか、どちらかですよね。どちらがいいかと聞かれたら、皆さん前者を選ぶと思います。これが勉強の意味です。スキーだって学ばなければ滑れないでしょ? それで学べば、「今日は元気だからガンガン滑ろう」、「昨日滑り過ぎて足が痛いから今日は見ていよう」という風に、どちらも選べる。でも、滑れない人は見ていることしかできません。だから一生勉強することで選択肢を増やしていく。別にやらなくてもいいんです。とにかく勉強し続けることが大事なのだと思います。

自分にとっての価値は何か

木暮:今は利益につながる目先の勉強に目が行きがちなことも多いと感じます。

渋澤健氏(以下、敬称略)結局、「世の中に正しいことなんてひとつもない」ということではないでしょうか。まさに悩み続けるのが人生である、と。そのときの状況で「これが最も正しい」と思うことはあると思いますが、それも主観的なもの。他者にとってはまったく違うかもしれません。その辺は割り切ってしまったほうがいいように思います。

ただ、自分が大切にしている価値観は何か。たとえば、私がいる投資の世界では多くの方が「投資とは安いところで買って高いところで売ること」と考えています。でも、本来の考え方では、自分が思う価値より現在の価格が安ければ「買い」で、高ければ「売り」なんです。ですから本来は自分自身の価値基準がないと投資はできません。でも、ほとんどの人は価格が価値であると思っていて、それが上がれば価値も高まったと思って買ってしまう。で、逆に価格が下がれば価値が下がったと考えて売ってしまう。でも、本当は自分にとっての価値が何なのかを判断できることが重要ではないかと思っています。

木暮:そうした価値というのは客観的に判断し得るものなんでしょうか。

渋澤:客観的に判断できる価値もあれば、なかなか数値化できない価値も企業には数多くありますよね。たとえばROEは計算・数値化しやすい価値ですが、それをサポートした「R」はどうやって出したのか。そこには非財務的な価値もあるし、なかなか数値化できないケースもあります。

「これが正しい答えだ」と言ったほうが進みやすいことはありますし、それはそれで1つの考え方だと思います。ただ、本当に正しい答えが世の中にあるのかというと、そこは我々人間に見えない部分もあるのではないかな、と。たとえば、老子の教えには「道(タオ)」という大きな流れがあり、「そのなかにいる人間はちっぽけな存在である」といった話があります。小さな蟻はクジラの背中に乗っていても、その状況が分からないじゃないですか。同じように、1人の人間から見える角度には限界があると僕は思っています。だからこそ勉強して自分の視点を増やすわけですが、それにも限界はありますから。自分たちが正しいと思っていた答えがまったく違っていて、「実は地球は丸かった」という風になることは日々あると思っています。だからこそ常に問い続ける。答えがあると、そこで終わり。そうなって思考停止とならないよう問い続けることが重要なのだと思います。

出口:価値について2つ申し上げますと、まず、自分で腹落ちして「これがいい」と思っているというのは主観ですよね。本当に信じているなら、それでいいと思います。ただ、その価値は他者との議論によって鍛えられるし、その議論は主観だけではダメ。「なぜこう考えたのか」と、相互に検証できる数字、ファクト、ロジックでつながない限り議論はできません。そうでないと「自分はこれが好きなんだ」「ああそうか」で終わり。そこは数字、ファクト、ロジックをベースにした他者との議論でしか鍛えられないと思っています。

それともう1つ。これは合成の誤謬とも言えるのではないかと思いますが、とある中国史の大家が「商」の時代の人身御供をけしからんと考えていました。王様が死んだとき、家来の首をたくさん切って一緒に埋めてしまうというものですね。「すごく進んでいた当時の世の中で、なぜこんな理不尽を正せなかったのか」と。でも、勉強して分かったことがあった、と。人間は賢くないので、世の中の部分部分を見ると滅茶苦茶なことが結構あります。でも、大事なのはそうした“かけら”でなく、社会全体でそれなりにうまく回っているかどうか。皆、1人で生きているのではないからです。その意味では商の時代も、人身御供自体はおぞましいものでしたが、社会全体ではそれなりに合理的に回っていた。「だから500年も続いたというのがようやく分かった」と言うのです。

運命は変えられる。大切なのは掴み取ること

木暮:ありがとうございます。では、質疑応答に入りたいと思います。

会場質問者A:出口さんが歴史上で好きな人物と嫌いな人物を、その理由と合わせて伺いたいと思っています。

出口:好きな人間はモンゴルのクビライです。クビライが生きたのは十字軍の時代で、イスラム教徒とキリスト教徒が殺し合っていました。でも、そんな時代にクビライは「思想や宗教は脳みそのなかにあるものだから見えない。見えないもののために人の首を切っていたら勿体ない。人間はそれぞれいろいろなことができるんだから、『お前は何ができるのか』と聞いたうえで使ったほうが得だ」と。この、社会常識からかけ離れた、自分の頭で考える能力は最高に素晴らしいと思います。

で、嫌いな人物というと語弊がありますので(会場笑)、一番嫌いな時代を挙げますが、これは江戸時代です。日本人の身長と体重は江戸時代が最も小さかったんです。鎖国をしていたため飢餓となっても食糧を輸入できなかったことに加え、江戸幕府は人々の移動を厳しく禁じており通行の範囲が限られていたからです。隣村の人ぐらいとしか結婚できず、結果、男性も女性も日本の歴史上で最も小さくなった。当時の女性の身長・体重は今の小学校4年ぐらい。男性も154~155cmぐらいでした。政治とは人々にご飯を食べさせることだと考えていますし、腹一杯食べたい私としては誰がなんと言おうと江戸時代に生まれ変わりたくないですね。

会場質問者B:運気というものについて渋澤さんはどのようにお考えでしょうか。

渋澤:「宿命」と「運命」の違いは何かというと、「宿る命」である前者は誕生日等。これは変えられませんが、「運ぶ命」である後者は変えられると私は思っています。渋沢栄一の人生を振り返ってみても、運気がすごく強いと感じます。あの時代に91歳まで生きましたし。記録を見てみると、朝起きて朝食をとって風呂に入って出勤する前、陳情に来ていた人々とできるだけ会っていたそうです。10分でも15分でも。人と会って話をするのがすごく好きだったと思うんです。

運というのは我々のなかでぐるぐる回っているもの。それを掴み取るか否かは、我々が手を出すかどうかだと思っています。また、良い運も悪い運も人が持ってくることが多いと思うんですね。ですから、そこは人を見る目というか、野性的なものも必要なのかもしれません。いずれにしても運というのは基本的に変えられるもの。ネガティブなものもポジティブに受け止めていれば、いずれは時の流れのなかで運が回ってくるのではないかなと思います。

出口:ダーウィン流に言えば「アットランダム」ですね。皆に回ってくると思います。

「直感」という脳の総合判断を信じる

会場質問者C:直感、そしてリーダーの朝令暮改についてはどのように考えていらっしゃいますか?

出口:直感について申し上げますと、脳の構造として意識できる部分は2~3割。無意識のほうが圧倒的に多いんですね。直感というのは、さまざまな人や本や旅や現場から学んだことを総合し、無意識に意思決定したもの。つまりは脳の総合判断なんです。ですから直感を信じないというのは自分を信じないことになるので、私はいつも直感を信じています。ただ、人と話をするときは「直感だからこう」ではダメ。コミュニケーションでは数字、ファクト、ロジックしか方法がありません。両者は矛盾しないと思うし、決めるところは直感でいいと考えていますが。

あと、朝令暮改についてですが、統計的に見てみれば変えないほうが組織は圧倒的にうまくいくという結果が出ていると思います。大将が「あっちへ行く」と1度言えば皆がそのつもりになるわけで、それをコロコロ変えたら人はついてきません。時と場合によりますが、よく考えて決めたことは変えない組織のほうがうまくいくと思います。

対話力から生まれるサステナビリティ

会場質問者D:長期投資の対象を探すうえで、「論語と算盤」の教えになぞった何か具体的な判断基準、あるいは事例があれば伺いたいと思っています。

 渋澤:私も20~30代の頃は「売った」「買った」の算盤しか見ていませんでした。ただ、2000年に自分の子どもが生まれたとき、「親が築いた枠を越えて新しいことにチャレンジする人間になって欲しい」と考え、その応援資金をつくるために毎月の積立投資をはじめたというのが長期投資との出会いになります。その延長で2008年に立ち上げたのがコモンズ投信でした。

我々がコモンズ投信でやろうとしているのは世代を越える投資です。ですから、たとえば30年先を考えたうえで「投資先企業にサステナビリティがあるか否か」といったことを判断基準にしています。30年先で1つだけ明らかなのは事業環境が変わっていること。従って我々は投資先企業に対し、変化していく環境に対応し、進化していける会社であることを期待しています。今No.1の会社でなく、未来に向かって進化できることが我々の投資基準ですね。

そのうえで、我々は「見える価値」と「見えない価値」を分けています。前者は財務的・数値的な価値。これは投資である以上絶対に見なければいけません。ただ、それは多くの場合、過去の企業価値を数値化したものであり、おそらく未来の進化は数値化できないところにある、と。そこで我々はいくつかのポイントを設けています。まずは企業の文化やDNA。また、経営力を次世代の経営者にバトンタッチできるかどうかも見ています。ブランド力や国際競争力も重要ですね。その結果は数値化されるものですが、「そもそも競争力やブランド力があるのはなぜか」と。そして最後は我々が「対話力」と呼んでいるもので、ある意味、これはガバナンスだと思っています。特に経営者は、株主はもちろん従業員とも対話をしなければいけません。経営者の言うことと現場の人々の言うことが違うということは社内で対話できていないということ。実はそこが一番重要なポイントだと考えています。

「論語と算盤」に書いてあることと直接照らし合わせているわけではありません。ただ、特に「対話力」というのは多様なステークホルダーと信頼関係を築ける力。その意味では、対話力のある会社のほうがサステナビリティを持った投資先として長期投資を続けられるということは言えると思います。実際、我々のポートフォリオを見てみると、今の事業環境が必ずしも芳しくない会社は何社かあります。でも、そこはきちんと対話ができる企業ということで、「長期的には進化できるのでは?」と考えて保有し続けるわけです。「論語と算盤」のエッセンスの1つは信頼関係。そこは投資家にとっても投資先企業にとっても大変重要だと思いますし、そういう意味では少なからず「論語と算盤」が反映しているのではないかなと思っています。

普遍的なもの、歴史的なものから学ぼう

会場質問者E:歴史を学ぶことによって、伝えたいことや伝えるべきことの精度は磨かれていくものなのでしょうか。

出口:リーダーの条件を1つだけ言うと、「めちゃくちゃやりたいことがある」「世の中を変えたい」といった、強い思いや大きな夢があること。そういう人がいたら皆ついていきます。本当にやりたいことがある。その思いがものすごく強い。これに尽きると思いますね。 

ただ、どんな仕事でも右肩上がりで進むことはありません。山あり谷あり。どんな英雄でもリーダーでも辛いときはあります。そのとき、「どういう風に部下を指導していったのか」「どんなことを言ったのか」という部分で、歴史のケーススタディは参考にできます。あくまで参考にしか過ぎませんが、それでも過去に事例があるのなら平静でいられますよね。「自分だけがこんなに苦しいのか」でなく、「みんな一緒だ」と思えますし。

いずれにせよ、「論語と算盤」でも他の歴史でも同じですが、「これを勉強したら明日から仕事に役立つ」なんていうものはないと思うんです。もしそんなものがあったとしても、状況が変われば即座に役立たなくなる。ですから、渋澤さんの言われた普遍的なものとか、歴史的なものとか、そういう大きなものから学ぶという風に考えたほうがいいような気がします。

木暮:ありがとうございます。時間になりましたので本セッションを終わりにしたいと思います。お2人に大きな拍手をお願い致します(会場拍手)。

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