プロ野球のトレードは選手やファンに対する裏切りなのか?組織論から考える 

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日米プロ野球の世界では、7月末が選手をトレードできる期限とされている。今年は米国メジャーリーグと日本プロ野球の両方で、期限直前に行われた主力選手のトレードが話題になった。こうしたトレードは、次のような構図で起こる。

優勝を争っているチームにとっては、優勝決定戦を勝ち抜くために弱点を補強でき、優勝をあきらめたチームにとっては、来シーズン以降に雪辱を果たすための戦力強化ができる。このトレードには選手にもメリットがある。放出された主力選手にとっては、下位チームにいるよりも、優勝を争っているチームに移籍して目立った活躍をした方が、シーズンオフの契約交渉で好条件が期待できる。若手有望株にとっては、下位チームに移ることで出場機会が増える。両球団と選手にとって「三方良し」の、合理的な取引のように見える。

しかし、ファンとしては割り切れない面がある。7月末にトレード移籍したダルビッシュ有投手(米国)と、谷元圭介投手(日本)は主力選手であったため、所属チームのファンから様々な反応があった。

選手に対して「さみしい」「これまでありがとう」「早く帰ってきて」などの惜別コメントを出す点は日米で変わらないが、日本のファンは球団に対する批判や不信感を表明するコメントが目立つ。一方、レンジャーズのファンは「レンジャーズファンの心情も考えてください」「今日でレンジャーズのファンをやめます」などとはコメントしない。日本とアメリカで、こうした違いが生じる理由は何なのか。

選手の経歴やトレードに至る状況の違いもあるのだが(ダルビッシュは首位のチームに、谷元は5位のチームに移籍した)、それ以上に、私は日米の「組織の論理」の違いが大きく影響していると考えている。

日米の「組織の論理」の違い

日米球団の「組織の論理」の違いを整理する上で、社会学と社会人類学から2つの理論を用いる(下表)。

1.「共同体or機能集団」による整理 

企業組織やプロ野球球団は、勝利や利潤を追求するために存在している組織なので、「機能集団」である。しかし、日本ではこうした機能集団がなぜか共同体化してしまい、共同体的機能集団のようになることが多い。

村落共同体に例えてみよう。A村のリーダー格の青年aが、A村とB村の長老らの決定によって、B村の青年bと交換で、A村からB村に移住させられた。A村のaは有能な猟師だが、A村では猟師が過剰気味であった。一方のB村は猟師が不足しており、aのような存在を求めていた。B村のbは優秀な大工だが、B村は大工が過剰気味であった。一方の、A村には腕のいい大工が少なかった・・・。

村落共同体であれば、トレードがいかに合理的な意思決定であったとしても、村民は「なんであの人が」「村の長老はひどい」などのネガティブな反応を示すだろう。地縁・血縁で結ばれた絆は、村益よりも重い。日本球団におけるトレード時の選手、ファンの反応はこれに似ている。つまり、谷元選手のトレードに対するファイターズファンによる球団批判は、ファンの意識が共同体的であることを示している。

これまでの日本球団は、フロント、監督・コーチ、選手、ファンが共同体的であった。その典型が広島東洋カープである(参照:広島東洋カープに見る日本的な人事施)。しかし、最近のファイターズは機能集団に徹した経営をしているため、選手やファンの意識と球団経営との間にギャップが生じているのだ。

一方のアメリカ球団では、ファンと選手仲間は去っていく選手に寂しさを感じつつも、勝利のための決断ならば仕方ないと思っている。惜別の念に縛られて適切な戦力補強を怠れば、機能体の目的である「優勝(による経済効果の享受)」が遠のくからだ。

ポイント:アメリカ球団=機能集団/日本球団=共同体的機能集団

2.「資格(横でつながる)」or「場(場でつながる)」による整理 

資格と場とは、「組織の編成原理」の違いである。日本では人々の社会的位置づけが「場」によって行われる傾向があり、場で作られた枠が集団の認識に大きく関っている。例えば会社や出身校である。アメリカ・西欧やインドでは、「資格」によって社会集団が構成される傾向にある。例えば、欧州の王室は欠員が生じた場合に民族や国家という場を超えてヨコ(他国の王室)とつながろうとする。

日本では、選手とフロント、ファンと選手はチームという「場」によってつながっている。それは米国も同じだが、米国は「資格」でつながったヨコの組織も強く、その最たるものが選手会である。米国の選手会は1995年にストライキを起こしたことがある。また、各選手は年棒交渉の際に代理人を立てて球団と交渉する。日本では代理人を立てて交渉する選手は少なく、米国に比べるとはるかに「労使協調路線」である。また、日本における選手同士のつながりは、所属チーム以上に「出身校」というタテのつながりが最も強い。アメリカでは出身校の影響はそこまで強くない。

ポイント:アメリカ=資格でつながる/日本=場でつながる

3. まとめ:日米球団および日本球団間の「組織の論理」比較

1と2で整理した内容を下図にまとめた。左図は日米のプロ野球球団を比較しており、日本のプロ野球球団が徐々に米国型のシステムに移行しつつあることを示している。具体的には、92年のFA制、2000年の代理人交渉制度、近年各球団で導入が進んでいるジェネラルマネジャー(GM)職の設置などである。

ただし、これらの制度はアメリカとはかなり異なる。FA制については、アメリカでは一定の条件を満たした選手は自動的にFAになるのに対し、日本の場合は「宣言」する必要がある。FA宣言した上での残留を認めない球団も多く、FA宣言した選手はファンから「裏切り者」として扱われることもある。代理人交渉制度については、アメリカではプロの代理人が多くの選手を抱えているが、日本では代理人は弁護士(日本の弁護士資格保有者)に限られており、かつ1人の代理人が複数の選手を担当することができない。プロの代理人が育ちにくいため、代理人制度を活用している選手は少ない。GM職については、アメリカでは球団マネジメントの専門家(元選手ではない)が担うが、日本では選手出身の元監督が就任することが多い。日本は「資格」よりも「場」によって組織が構成されるので、外部からプロのGMを呼ぶのではなく、内部の球団OBを据えることが多いのだろう。

右図は日本球団内の比較であり、典型例として3チームを示した。ちなみに、対照的な位置にある2チームは2016年のリーグ優勝チームである。この図を補足すると、広島東洋カープは地元出身選手を積極採用(場を重視)、生え抜き重視でFA選手は基本的に採らない、監督・コーチはすべてOB(共同体的)という特徴を持つ。ソフトバンクホークスは、外部からも積極的に選手を引き抜く一方で、九州出身の選手を多く採用している。なお、地方都市が本拠地の球団の多くはこの傾向がある。ちなみに、アメリカではこうした傾向はない。

企業経営への示唆

ここまでは、日米プロ野球のトレードを題材に、日米の「組織の論理」の違いについて述べてきた。そして、この話はプロ野球球団だけでなく、企業組織にも当てはめることができる。

プロ野球球団と企業組織は、勝利や利潤という目的のために構成された「機能集団」である。しかし、日本では球団も企業も、なぜか共同体的になってしまうことが多いと言われている。

M・ウェーバーによると、共同体の特徴には3つある。
(1) 二重規範: 共同体の内と外とは峻別されており、ウチとソトで別の規範が適用される。その際、ウチの規範が優先される。共同体にはヨコから入ることが難しく、下から入るしかない(小室直樹)
(2) 富の二重配分: 金銭、名誉、権力などの富(社会的財)は、いったん共同体のものになった後で、個人に再配分される
(3) 敬虔さに基づく人間関係: 共同体内の人間関係は、トップに対する敬虔の念が感情の中心にある。共同体内の偉い人に対しては、対等に口を聞きづらい

日本の大企業は、プロ野球球団以上に共同体的な色が強い。大手企業に入った若手社員(入社1年目)によると、その会社の離職率は5%以下で、入社前の研修で「この会社における40年後の自分」を皆で考えさせられたという。この話は、社員が40年間在籍することが前提であり、会社も40年間存続する前提に立っている。これは極端な例かもしれないが、まるで村落共同体のようだ。

こうした日本企業の特徴は、強みにもなるが弱みにもなる。例として、不祥事への対応を挙げる。

<強み>
製品の不良やリコール隠しなどが起きた場合、会社共同体の名誉が傷つくことになる。そのため、そうした不祥事に全く関連のない社員までもが、周囲に対して「このたびは、ご迷惑をおかけした」などと詫びることが多い。こうして、社員が一致団結して問題の解決にあたるようになる。アメリカであれば、そうはならない。合理的に考えれば、そうした問題に責任を負っている立場の人(経営陣)や、関与している人以外は詫びる理由がない。なぜなら、会社は機能集団であり、会社組織と社員は契約で結ばれた関係だからである。

<弱み>
内部の規範を優先することが、外部の規範に抵触することがある。内部の規範を優先した結果としてのリコール隠し、不正会計などである。なお、日本企業では不祥事の主犯格が特定できないことが多い。典型例が、東芝の不正会計である。経営者は各事業部に「チャレンジ」を要求したが、不正は指示していない。社員たちが経営陣の要求を忖度し、微妙な化粧を施した結果、全体として大きな問題になってしまった。皆がトップの意をくんで、会社共同体の維持に協力したのだ。

日本企業にとって、共同体的な強みを生かしつつ、弱みを克服できる道はあるのだろうか。

先に例として挙げた二重規範による不正を起こさせないためには、社内で倫理教育を徹底することが有効だ(内と外の倫理が乖離しないように)。稲盛和夫や松下幸之助などの経営リーダーが倫理を語るのは、そのためである。ジョブズやゲイツ、ヘンリー・フォードは、法について語っても倫理は語らない。それは経営者の役割ではなく牧師や親・教師の役割だからである。

しかし、会社共同体の弱みはそれだけではない。「外から優秀な中途人材を採用しにくい(下からしか入れない、新卒一括採用)」「早期選抜を行いにくい(年功序列的、部下無し管理職の多さ)」「雇用の維持が最優先になりがち」などの点は、依然として残ってしまう。

プロ野球の例を参考にするならば、両方を同時に追うのは極めて難しいかもしれない。成功しているのは、広島東洋カープのような「共同体的な経営」か、日本ハムファイターズのような「機能集団に徹した経営」のどちらかのタイプである。前者は純日本的な経営、後者は米国的な経営といってもいい。

その逆に、米国型のルールや組織体系を導入したものの、中身は会社共同体のままという球団や企業は成功しにくい。

野球でいえば、豊富な資金力をバックにFA選手を大量に獲得している某球団は、ここ数年その戦力に見合うような成績を残せていない。なお、その球団は生え抜きスター選手を優先するチームであり、監督も生え抜きスターしか就任できないという、共同体的な閉鎖性がある。

企業でいえば、先に挙げた東芝は、「ガバナンスの優れた会社」という評価を受けていた。2003年に「委員会設置会社(取締役会の中に指名委員会、監査委員会、報酬委員会を置く)」を採用できるようになった際、他社に先駆けて委員会設置会社に移行し。これは、コーポレートガバナンスが機能する先進的な仕組みのはずだった。しかし、その実体は会社共同体のままだったのだ。

どちらの道に行くのか、中途半端だと成功しないのだ。皆さんの会社が、外は機能集団として装っているが、中身は会社共同体のままだとしたら、要注意である。
 

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