アル・ケッチァーノ式経営術~なぜ150万円でできたレストランに予約が殺到するのか~[1]
奥田政行氏
奥田政行氏(以下、敬称略):アル・ケッチァーノにいらしたことのある方は分かると思う。実はこの店、家賃10万円だ。過去には4人の経営者がここで店を開き、すべて失敗している。なぜ、そんな物件を選んだのか。21歳のとき、父が当時経営していたドライブインをホテルにしようと考え、金額の書いていない小切手を経営コンサルタントの方に渡した。で、それをすべて借金返済のあてにされた。それで父は1億3000万の借金を負ったのだけれども、なぜか破産宣告をしなかった。そして最後に自身のお店を競売に出した。それで以降は借金を引きずっていた。すべての事が終わったのは去年だ。ただ、そこにお店の売上は1銭も回さず、講演や料理講習会といったものの収入から返していた。
とにかく、そんな事情があって家賃10万円の物件を選んだ。お皿はすべて100円ショップのものだし、飾ってある絵は額だけが高価で中身はスケッチ画集。どなたかの画集から絵を切り抜いて良い額に入れると、皆さん騙される(会場笑)。お皿もウェルカムプレートだけ6000円の高価なものにすると、そのあとは100円ショップのお皿が出てきても高いお皿だと錯覚する。七味唐辛子用のスプーンなんて34円だ。洋食器をつくる人が和食皿をデザインすると高くなるけれども、和食メーカーの洋皿は安い。人が勝手に価値をつけているから。実はそういう隙間がいっぱいあって、それらを駆使してお店をつくった。
一方、私自身はアル・ケッチァーノをはじめる前は鶴岡ワシントンホテルと「穂波街道」という農家レストランでシェフをしていて、それらをすべて繁盛店にしている。なかったのはお金と信用だけ。だから10万円の物件ではじめた。ただ、飲食店を繁盛させるのは、実は難しいようで簡単。その時代に求められていることと、その地域にないものを出すとお客さまがやってくる。アル・ケッチァーノをはじめた2000年当時、料理の専門書には「フランスやイタリアの野菜はおいしく、日本の野菜には力がない」と書かれていた。また、レストランは異国文化を感じる場所で、「フランスの三ツ星レストランで修行したシェフが開いた」なんていうお店が流行っていた。そんな時代に海外経験もない私がアル・ケッチァーノを開き、地場イタリアンという看板を掲げた。庄内の食材はフランスやイタリアの食材に負けていない自信があったからだ。
それまで都会にいた私が25歳で鶴岡に戻ってきたのは、奥田家の再興とともに、「一生かけてこの街を食で元気にする」という目的があった。それなら25歳までに帰らないと間に合わないと思っていた。また、これは地場イタリアンにした理由とも重なるが、父を助けてくれたのは鶴岡のパチンコ屋さん。父の負債をすべてチャラにしてくださったうえで、顔が見えないよう両替所で働かせてくれた。だからご恩のある鶴岡を食で元気にしたかった。だからホテルと農家レストランで料理長を務めたという流れになる。
料理長になったのは何かのツテがあったからじゃない。人に良いことをして、お料理づくりで頑張っていただけ。で、あるとき休憩中にホテルで出された牛乳のパックをハサミで切って、「環境のために」ということでスーパーのリサイクルボックス持っていっていたら、それを見ていた洗い場のおばちゃんが味方になってくれた。そのあと若い子たちも「手伝うよ」と、休憩中に牛乳パックを一緒に切ったりしていた。そしてその1年後、当時は私の上に5人いたけれども、私に料理長の辞令が来た。人を大事にしていたら料理長になって、今のお店も信用だけでつくったという感じだ。
100のやりたいことを実現するために300のやりたくないことをする
ただ、現実では問題が出てくる。地場イタリアンとして地元食材を揃えようと思ったけれども、これは大変だった。当時は農協主体だったからだ。昭和37年にはじまった池田内閣の所得倍増計画で、たとえば宮城で収穫したものを東京へ持っていって、そこで長野県産の作物を積んで仙台へ帰るといったことを皆がしていた。そうすると道中にガソリン代をはじめいろいろとお金が落ちる。だから鶴岡でも、目の前にレタス畑があるのにスーパーで売っているのは長野県産という状態だった。
そこでどうしたか。地元の食材を揃えたいという気持ちが100だとしたら、それに関わる「やりたくないこと」を300やると、舞台は整って夢が形になる。例えばフェラーリが欲しい人がいたら毎日カップラーメンで過ごしたり寝ないで仕事をしたりしているとフェラーリという形になる。私はそうやって、たとえば会いたい人にもすべて会ってきた。お会いしていないのは天皇陛下と小泉今日子さんだけ(会場笑)。いつか会いたい。会いたい人と会うために自分がやるべきことをやっていくうち、自然と会えるようになる。
だから地元のものを揃えるため、まずは自分で無農薬の畑をつくった。でも、これをやると草むしりで半日が過ぎて料理ができなくなる。途中からは料理人なのか農家なのか分からなくなった。それに、素人では生産者の方に勝てないことも分かった。やっぱり餅は餅屋だ。私が種を蒔くと芽が出てこない。「ああ、人間には特性があるんだな」と。私は収穫する側の人なんだなということも分かった。
だから次は生産者のところへ行って、お金で買うと農協に目を付けられるから物々交換をした。すると経済の仕組みも分かってくる。たとえば自動販売機で120円のミネラルウォーターを、アル・ケッチァーノは80円で仕入れることができるとする。それを80円の野菜と交換すると、生産者の方は40円儲かる。百貨店だとロス分も乗せるから1kg1万5000円の米沢牛も、アル・ケッチァーノなら同8000円。
だからアル・ケッチァーノは物々交換に最適だった。ワインも日本酒もお魚も和牛もあれば、調味料も揃っている。で、日本酒が好きそうな生産者の方とは日本酒で交換。家族が大勢いる方にはカットしたとんかつ用のお肉を持って行った。それで「奥田さんは宝物を持ってくる」という風になって(会場笑)、おまけを付けてくれるようになった。で、それを店で使い切れなければ次は港に持っていくと、お魚と交換できる。そんな風に食材を集めると、半日後にはわらしべ長者のように食材が増えている。
それで、いろいろと分かるようになった。物々交換が一番いい。たとえば、あるとき20年ほど前に会った人が「20年前と同じ報酬額で講演して欲しい」と言ってきたことがある。それで断ろうと思い、「講演料も高くなっていて」と言うのだけれど、「なんとかお願いします」と言う。なので、その方は酒屋さんだったから、「では、20年前に買ったワインの値段と昔の僕を交換しましょう」と。それで「ロマネサンヴィヴァン」のような高価なワインを当時の仕入れ価格で、当時の僕の報酬額と交換した。あとで値段を調べてみたら報酬よりも高い70数万円だった。物々交換をしていると、そういう奇跡的なことが起きる。
とにかく、そんな風にして野菜を集めたのち、お店で「100種類のアラカルト」というものに挑戦した。誰もやっていないことをやれば遠方からでも人を呼ぶことができるからだ。すると、今度は地元の人に「お前は庄内産の野菜を使っているけれども、庄内産ってそんなにおいしいのか?」と言われた。僕はそこで「美味しくすればいい」という単純な考え方をして、たとえば赤ネギを生産している方を訪れた。この在来作物は細いネギだったけれども、当時世界で流行っていたポワローネギを持っていって、「こういう味にしてください」と。すると、広大な畑から太いネギを1本探し出し、3年かけて自家採種してくださった。それで今は「平田赤ネギ」がブランドになり、1本25円だったものが280円になった。生産者はおよそ8倍、面積もおよそ7倍になっている。
要は「どっちを向いて誰のために赤ネギをつくるのか」と。それまでは流通に入れても売れず、産直に卸すだけ。でも、レストランを向いて「おいしい野菜」をつくるという明確な出口が見えたら味が変わった。料理も同じだ。どちらを向いて誰のためにつくるか次第で、同じ素材でも料理は変わる。
ところが、今度は「地元のものすべてが安全・安心なわけがない。お前は農薬を使っている。なぜそんなものをお客さまに平気な顔で出せるんだ?」と言われるようになった。そんな風にいじめてくるのは皆、同業者。「奥田がお金を持っていないうちに潰しちゃえ」と。だから、「じゃあ、安全なものをつくればいい」と考えた。そこで気付いたのが在来作物。たとえば、ダダチャ豆、民田なす、温海かぶ。
庄内には、太平洋戦争の前に蒔かれ、庄内の気候風土に順応していった野菜たちがある。当時有名だったのは今言った3種だけれども、これを大学の先生と探してみたら次々出てきた。庄内は戊辰戦争で幕府側についたため、新政府にふたされて東京向けに商売をしてこなかったという歴史がある。そのため、地元で食べる在来作物が小さな畑にいろいろと残っていて、それを山形大学の先生たちと探してきた。で、3年前はそうした在外作物を扱った「よみがえりのレシピ」という映画もつくられている。
それで、今は在来作物のフェアを催すと全国から人々が集まる。当初は加賀野菜と京野菜、そして信州の野菜ぐらいしか知られていなかったけれども、今、庄内は在来作物の聖地だ。これも「安全・安心なものを使う」という100に対して、やりたくないことを300やった結果。それで、「世界で1つだけの材料を使って世界で1つだけの料理をつくろう」と考えた。ただ、それはイタリア料理の本にもフランス料理にも載っていないから、自分の舌だけを頼りに新しく考えていった。それでオリジナルのお料理が数多くできた。今はそれを食べに多くの方がアル・ケッチァーノを訪れるようになっている。これも、やりたくないことを300やったことで付いてきたオマケだ。
「食の都庄内」がユネスコの創造都市ネットワークに認定されるまで
また、自分のなかで料理の出発点が変わっていったのも大きい。それまではフランス料理とイタリア料理から考えていたけれども、在来作物という素材を出発点にして考えるようになった。また、そのなかで、「ひょっとしたら庄内の食材はすごいんじゃないか?」と。それで魂が入れ替わって、地元で無料配布される媒体に「食の都庄内」という文章を書いた。実は私、中学時代の成績は県で下から18番目。国語が3点で英語2点なんていう子どもだった。でも、魂が入れ替わると文章まで書けるようになりました(会場笑)。起承転結をつけた文章が書けるようになっちゃった。
それで、「“食の都庄内”をつくろう。食べ物でこの街は元気になる」と。また、そのために昔の在来作物でイタリアンをつくろうと考えた。それを地元のお母さんたちに教えたら、そうした野菜が残るようにもなる。ただ、この運動をはじめた頃、実家はいまだサラ金地獄。親と兄貴がサラ金の限度額まで借りて、僕がお金を回す状態だった。つまり私は社会ではブラックリスト。本来なら表に出てはいけない人だった。だから「食の都庄内」にするなら、次世代にスーパースターまたはスーパーシェフが現れないといけない。それを実現させるため、地元の食材を残さないといけない。だから地元のおばあちゃんたちに「庄内の食の秘密」ということを話していった。今の時代は両親が共働きで昼間は家にいないことが多いから、おばあちゃんから孫に庄内の食材や在来作物の話をしてもらおうと考えた。そしてその子供達の中からスーパーシェフが将来現れる。
ただ、当時は山形で無登録農薬問題が起きていた時期だ。登録していない農薬を使ったため、生産物をすべて捨てられて自殺する生産者も出てしまっていた。これは山形の大ピンチだと思った。全国ニュースのトップで「今日も山形県で無登録農薬が出ました」と報じられる。これはなんとかしないと山形がダメになると思ったとき、「山形の悪いイメージを食の都庄内で良くする」という図が“降りて”きた。そこで、地元の観光地とか、どんな文化人がこの地で生まれていたかといったことを文章にして体系化していった。で、それを行政に持って行ったら親善大使の肩書をもらった。これは庄内総合支庁長からもらったものだけれども、当時は実家に同じ支庁長名で自動車税の督促状が来ていた(会場笑)。上と下の両方を味わっていた感じだ。
ともかく、それで行政も「食の都庄内」をつくろうとなった。だから「若い世代にも伝えなければ」と思って大学の先生と一緒に連載を書いていった。レベルの高い方と一緒に書くことで自分の文章力も向上していった。で、その連載がウケて、「四季の味」という全国誌が庄内をとりあげてくれた。ちなみに、同誌の撮影で使ったお皿は4万5000円。アル・ケチァーノは当時100円ショップのお皿だったから、実に450倍だ。そういうお皿に見合うような庄内の食材を載せて、自分たちがつくってきた食材と料理に物語を添えた。その料理で人目を引けば“食の都庄内”として山形のイメージが変わると思ったから、同誌でも懸命に連載を続けた。また、それに合わせて自分の料理も進化させていったら、今度は「クロワッサン」から連載の話が来た。こちらは30~40代の女性の方が手に取る雑誌だから、次はそれに合わせて地元野菜を使った健康的なメニューを考えていった。
そんな風に、「俺たちが“食の都庄内”をつくるぞ」と弟子に言って武士のような顔して仕事していたら、皆、「シェフにはついていけません」と言って辞めていってしまった。それで、「これからはプレッシャーを受けたら笑うようにしよう」と考えるようにした。そうしていたら他の業種の方と仲間が増えていき、百貨店さんから「庄内産の物産展をやって欲しい」なんていう話が来たり、講演の話が来たり新聞でも数多く取りあげられるようになった。ただ、名前が父と一文字違いだからすぐに分かってしまう。アル・ケッチァーノが有名になって、新聞や雑誌といったメディアに露出すればするほど、お店には知らない借金取りがやってくるようにもなった(会場笑)。
だから「情熱大陸」のときも悩んだけれど、「庄内をきれいに映してくれるなら」ということで出演した。すると放送翌日、お魚を買いに行った先で知らないおばあちゃん3人ぐらいに抱きつかれた(会場笑)。「やっと庄内が全国に出た」って。庄内は明治維新の時代から押さえつけられていたから、そういう反応になる。そうして有名になり、あるとき「ズームイン!!朝!」で中継された。すると、その視聴率が良かったそうで、次は日本テレビの「秋のうまいもの祭り」で「ズームイン!!朝!」の歴代司会者にお料理を出すという話になった。「これは大チャンスだ」と。徳光和夫さんに「山形の食材はおいしいね」と全国に向けて言ってもらえたら、山形県の無登録農薬問題は終わりを告げると思ったからだ。それで徳光さんに狙いを絞ってつくったら、1文字1句間違いなく、「山形の食材、おいしいね」と言ってくださって、番組はそのままエンディングに入った。
そうして駅や空港にも「食の都庄内」という看板が出るようになり、ついには公募で決まった庄内空港の愛称も「おいしい庄内空港」なんていうことになった。鶴岡市は、「ユネスコの創造都市ネットワーク(食文化分野)」に認定してもらおうと、食で地域が盛り上がっていった。その申請時に参考にしてもらったプレゼン資料があるので紹介します。
まず、庄内には5種類の海があり、そこに138種類の魚介類がいる。また、淡水にも上流・中流・下流・湖があり、40種類の生き物がいる。そして土にもさまざまなタイプがあって、庄内は日本で最も四季がはっきりしている。気候帯が豊富なため、雪に弱い作物以外のものをつくることができる。海洋性の気候、盆地性の気候、山岳性の気候が存在し、年間を通じた寒暖差も大きい。作物は温度に合わせて花を咲かせたりするから多様な品種が入り混じっている。さらに、標高も海抜ゼロメートルから万年雪のある2000メートル級の山まであって、1日の気温差も激しい。それでさまざまな動植物が生きている。しかも出羽三山や北前船があったため、古くからいろいろな職業の方いるし、郷土料理も数多く存在している、と。「だから、これほど素材が豊富で、いろいろな職種の方がいて、このほどの郷土料理が存在しています」というプレゼンをしたら、ユネスコの創造都市ネットワークに世界で6番目、日本初で認定されたという流れだ。
→アル・ケッチァーノ式経営術~なぜ150万円でできたレストランに予約が殺到するのか~[2]は10/28公開予定
※開催日:2015年9月3日