なぜ日本ではデジタルマーケティングが進まないのか?
川上慎市郎氏(以下、敬称略):今日は大きな視点で、「世界はこのように変わろうとしている」といったお話を聞くことができた。ちょっと会場の方々に質問してみたいけれども、たとえば今日のお話にあったPAID、EARNED、OWNEDという言葉を「聞いたことがない」という方はどれほどいらっしゃるだろう。…今日お集まりの方々の多くは、少なくともデジタルマーケティングになんらかの関心をお持ちなのだと思う。ただ、会場にいらっしゃる方々の問題意識とは裏腹に、日本企業はデジタルマーケティングに関し、お話にあったようなデルタ航空やBACの例になかなか近づいていない。先日福岡に出張した際は空港に近づいたときにANAから「そろそろ空港です」といったアラートが来て、「あ、すごい。頑張ってるじゃん」と思ったけれども。
佐分利:そういう案内があると嬉しいですよね。それはスパムじゃない。そういったアラートとスパムを区切るラインはすごく微妙だ。一歩間違うとスパムになるけれども、ちょっと工夫するだけで満足度はすごく上がる。
川上:ただ、たとえば空港で待ち時間が長ければレストランを紹介するといったようなところまでは、日本企業は進んでいないように思う。これ、なぜなのだろう。現場にはこれほど意識の高い方がいらっしゃるのに。
佐分利:理由はたくさんあるし、文化的な要因もあると思う。たとえばアメリカでは自社製品を他社製品と思い切り比較して、なぜ自分たちのモノが競合製品より良いのかというのを普通にアピールしている。でも、日本では法的にそれが許されないし、やっぱりカルチャーの差があると思う。日本は、どちらかというと外向けに大きくアピールするような社会ではないし、手法も姿勢も元々違うというのはあると思う。
それと企業文化としてもう一つ、事業単位の最適化という面も大きいと思う。これは昔の系列や財閥から出てきた発想だと思う。子会社が集まって大企業になったりしていて、今でもそれが続いているように思う。だから会社横断的なマーケティングという発想を、そもそも企業文化として持っていない。それが、莫大なエネルギーと投資を必要とするデジタルマーケティングにとって壁になっているとも思う。
それと3つ目はITテクノロジー。やっぱり日本企業ではITガバナンスがなかなか効いていなくて、CMOどころかCIOという役割も少ない。しかし、デジタルマーケティングを展開するのならITテクノロジーが不可欠だ。その設備が横断的に管理されていない企業はデジタルマーケティングの展開が難しいと思う。たくさんあると思うけれども、大きく言うとこの3つが理由になるかなと思っている。
川上:日本企業の感覚だと、BACの小切手のお話というのはマーケティングでなくオペレーションの改善という風に理解されると思う。デルタ航空のお話もプロセスの改善である、と。そういた思想の違いみたいなものも原因になるのだろうか。
佐分利:すごくいいポイントで、最近は製品とマーケティングの区別がだんだん難しくなってきたし、境目がぼやけてきた。たとえば、都内で働く方々の平均通勤時間は片道67分と言われていて、その時間にゲームをやる方は多いと思う。そこで最近はフリーゲームが増えてきたけれども、その場合は画面下に広告が出たりする。で、その精度もここ数年で少しずつ上がってきて、最近はちょっと響くようなものも表示されるようになってきた。ただ、そうした仕組みを企画して広告を展開するのなら、開発者だけでなくマーケッターも関わる必要がある。そこが収益源になるわけで、「ゲームを出すだけではできません」と。どんな宣伝が、どんな形で、どういったオーディエンスに届くかを考えて、一緒に企画しなければいけない。
いずれにせよ、今はビジネスモデルがそもそも変わってきているし、今後はマーケティングと製品の境目がどんどんぼやけていくと思う。それに伴って、エンジニアとマーケッターの距離感も…、昔からそれほど距離はないけれども、もっと密になっていくのではないかなと、個人的には思っている。
川上:今後はマーケティングとそれ以外のものの境界線が溶けているという感覚が必要なんだろうなと思った。ただ、多くの日本企業はマーケティングに関して、既存顧客の体験を改善してより高い満足感を持ってもらう仕事というより、「結局は新しいお客さんを引っ張ってくる仕事だろ?」と考えているように思う。そういう感覚で、恐らくは皆さんも行き詰ってしまっているというか。「まずは集客してからだ。話はそのあと」みたいな(笑)。実際のところ、集客と既存顧客の体験改善ではどちらの方が効果が高いのだろう。あるいはどちらに投資すべきだとお考えだろうか。
佐分利:最近は情報があまりにも増えていて、単なる集客だけでは足りなくなっていると思う。今、ホワイトカラーが触れている情報は、1980年代に触れていた情報量の400倍になった。だから、従来手法の効果がどんどん低下しているし、今のライフスタイルやワークスタイルに見合ったアプローチが必須になっているのだと思う。
川上:集客の効果よりも、既存顧客のライフタイムバリューを伸ばす効果の方が大きくなってきている、と。
佐分利:デジタルマーケティングがもたらす最大のインパクトは何か。これは私の個人的な意見だけれども、営業はこれまでずっと‘One to One’だった。で、マーケティングはどちらかというと世間に関してアウェアネスやパーセプションを得る仕事として、営業とは分けて考えられていたと思う。ただ、デジタルマーケティングでは‘One to Many’の関係維持が可能だ。お客さまのプロファイルだって大量に保存できて、動向もオートメーションで分かってくる。だから、デジタルマーケティングをうまく展開できているところは、ある意味、人がいなくても営業集団がいるというような感じだ。昔はリレーションシップマーケティングといった言い方をしていたが、とにかく‘One to Many’の関係が維持できる唯一の手段だ。だから効率が良いし、人々の媒体の触れ方にも最も適したアプローチじゃないかと思う。
川上:その意味では、日本企業にとって受け入れやすいデジタルマーケティングのメリットということで、「営業マンを貼り付けなくてもカスタマイズされた提案やサービスを提供できます」というのが、実は一つの突破口になるかもしれない。
佐分利:まあ、最終的には「投資してなんぼ」というのがあるし、おっしゃる通りだと思う。我々もいろいろなデータを調査していて、たとえばマーケティングを戦略的資産として考えている企業とそうでない企業のベンチマーク、あるいはデジタルを中核に考えている企業とそうでない企業の業績を比較したりしている。すると、そこに明確な差が出てくる。そうした情報も公開しつつ、先ほど「マーケティングだって売上のノルマを持ったほうが良いのでは?」というぐらいの勢いで取り組んでいく。そうすれば恐らく経営層の方々にもご納得いただけるのではないかなと思う。
マーケティングはディフェンスの視点も重要
川上:今日は「今後、マーケティングのカバレッジにはオフェンスだけでなくディフェンスも入ってくる」とのお話があった。これもすごく重要なポイントだと思う。たとえば、ハーバードのマーケティングコースのテキストにも、「最初にやらないといけないのはリスニングだ」とある。「アウトバウンドの話はそのあとだ」と。この点、日本企業はリスニングにどれほどのお金と時間をかけているのだろう。ざっくり言って、マーケティング予算のなかでリスニングはどれほどの割合になるべきだとお考えだろうか。
佐分利:過去の仕事ではざっくり言うと1割前後をかけていたし、それぐらいはかけるべきだと思っている。ちなみに、以前私が担当していた製品でも大きな価格改定があった。ただ、ネットフリックスやトヨタの件でソーシャルメディアがもたらすインパクトの大きさは痛感していたし、我々の改定は価格が平均で6倍になるというとんでもないものだった。だから、予算的には1割だったけれども、人材的には半分がディフェンスだった。そのうえで、今までとまったく違うアプローチだったけれども、「とにかく‘No News’で成功だ」と。それまでのマーケティングは「伝えて分かってもらってナンボ」という世界だったのに、「語ってくれないことが嬉しい」ということになった。
そのための下準備も大変だった。まずはベースラインをつくらないといけない。だから、皆さんがソーシャルメディアで我々の製品についてどのように語っているかという現状認識が必要だった。また、価格改定前は「どういったものにインフルエンスされるか」ということも探知した結果、だいたい分かってきたことがある。やはり有名なユーザーさんや開発者の方といった、業界でも有名な方の影響は大きい。だから、まずはその人たちに、しっかりきめ細かく、なぜ値上げをするのか、NDAを締結したうえで説明をさせていただいた。そうすることでインフルエンサーの方々も理解してくれたし、そこで感情論からロジック論に切り替わっていった。
それと、需要喚起のメッセージングと価格改定のメッセージングを一緒にしてはいけないということも重要だった。だから我々はその2つを完全に切り分け、製品アピールのメッセージングはまったく異なる媒体とタイミングで行った。そうしてネガティブなメッセージが一切混在しないようにして、あまり嬉しくない6倍の値上げというメッセージングはファクトベースのみで伝えていったわけだ。ものすごくつまらない方針で、真実をロボのように語ったようなリリースの仕方だった。
で、実際に悪いほうのニュースを先に出したとき、ソーシャルメディアではいろいろなことが語られた。ただ、インフルエンサーの方々に前もっていろいろお話ししていたから、その方々はかなり冷静に、「いや、こういう理由があって値上げをしているんだよ」といったコメントしてくださっていた。そういうとき、大企業対1ユーザーでコミュニケートするとさらに火が付いてしまうからそれは避けていた。でも、個人でちょっと火がついてしまった場合はインフルエンサーの方々が火を消してくださっていた、と。だから、大事件にはまったくならなかった。本当に、ニュートラルな状態だった。少々悪いニュースも見たけれども、ネットフリックスのようにはならなかった。で、その半年後、「この製品は素晴らしい」といったPR活動に移ったところ、前年対比27%増という大変な勢いで再び普及していった。だから、一応はディフェンス成功だと思う。マーケティング職で「ノイズが出ないのがいい」なんて言うのは初めてだったけれども、すごくいい体験だったし、勉強になったと思う。
川上:インフルエンサーの方々を最初に掴んでおくような、そうした地ならしのような作業はこれまで、広報やパブリックリレーションズだと言われていたように思う。「それもマーケティングの一つの仕事なんだ」という置づけが大事なのかな、と。
佐分利:広報の捉え方にもいろいろあると思うけれども、私はマーケティングの一環として考えている。日本企業の広報は面白くて、社長直轄というケースが多い。「なぜそうするのかな」と。広報もマーケティングコミュニケーションの1チャネルとして考えている僕としては悩ましいところだ。ただ、レポートラインが社長であっても、やっぱりチームの一員として考えるべきだと思う。
川上:ちなみに、今の「半年ほどかけてディフェンスをして平常ベースに戻す」といった作戦は、先ほどおっしゃっていた3か月単位というスプリントのPDCAサイクルとまた少し違うように感じる。それに、日本では一つのアクションを起こすときでさえ、社外でも社内でも半年ぐらいかけて調整や根回しを行わないと話が進まないというケースが多い。だから3ヶ月や1ヶ月といったスプリントサイクルは無理だと考える方が大半だと思うのだけれども、これ、どうすれば回せるのだろう。
佐分利:半年ずらした件について改めて説明したいのだけれども、新価格をオープンにしたときは、もう週7日24時間の体制だった。それで、インターネット上で何が語られているか関して、2つのオートメーションツールを使ってセンチメント分析を行っていった。ただ、それだけでは絶対に足りない。だから、本会場の半分ほどの広さの部屋に画面を無数に貼り付け、メンバーには、「とにかくツイッターなりフェイスブックなりインスタグラムなり、あらゆるところをパトロールしろ」と。そこで、オートメーションツールに引っかからないものが絶対出るし、競合のサイトで何を言われているかも見ないといけなかったので。だから、もう分刻み(笑)。現場はもう、テロ事件の映画に出てくるシチュエーションルームのようなイメージだった。僕も最初の3日ぐらいは徹夜だったし。だから半年刻みではなく、リリース直後は大変神経質に監視をしていた。そうした観察を通じて、「まあ、半年ぐらい後ならいいんじゃないか」と。
川上:プロジェクト全体の戦略は半年だったけれども、そのなかでは当然、週単位とか、それこそ分単位でPDCAを回していた、と。
佐分利:そう。そこで日本の企業文化の話になるけれども、もちろん一気に変えるのは難しい。だから、先ほどご案内したようにプロジェクトを数フェーズに分けてはどうかな、と。発想は少し違うけれども、たとえばフェーズ1は現状認識だけ。で、そのあと社内の資産を把握するというフェーズ2に移行する。そして戦略策定がフェーズ3で、フェーズ4では、たとえばウェブがどのように使われているかを解析したりする。そしてフェーズ5で解析に基づいてアクションを取る。そんな風に、今の日系企業のビジネスリズムに見合った形で展開することも可能だと思う。説明の仕方や企画の立て方次第で、日系企業のリズムにも十分適用できると思っている。
川上:先ほど「双方向のKPIを設定する」とのお話もあった。あれはつまり、「広告・宣伝キャンペーンに対して売上が出ます」というものでなく、たとえば「リスニングではマーケットの声をこれだけ拾う」とか、もっと細かいタームのお話だと思う。
佐分利:そう。もちろん投資してナンボというKPIも企業として大事だ。ただ、それにかかる費用にはIT部門も関わる。「それならIT部門と協業して、実装するためのKPIを設けましょう」と。あるいは、システム実装するために必要な人材確保のために人事・採用部門とのKPIを設けたり、営業の方々がもしマーケティング支援に頼っているのなら、彼らとの“握り”も必要だと思う。なので、双方向のKPIは複数の部門と設定する必要があるのだと思う。ただ、そもそもマーケティング内容が変わっているわけだから、KPIの内容も変えなければいけないと思っている。