日本を演出する ~おもてなしで“和”をデザインする~[1]
為末大氏
為末大氏(以下、敬称略):お坊さんの前で「和」の話をしなければいけないのはプレッシャーだ(笑)。最近、G1の無茶ぶりがひどい(会場笑)。1年ほど前は松山大耕(妙心寺退蔵院副住職)さんと仏教について対談をした。それで、「苦しさ」の話に無理矢理つなげで、「練習って苦しいですけど、仏教も苦しい人の話をたくさん聞きますね」みたいな話をしたり、先日は広島県知事の湯崎英彦さんとスピードについて話をしたり。で、今回は、「おもてなしで“和”をデザインする」というテーマだ。前段はなんとなく、おもてなしや「和」やデザインについて伺い、あとはフロアの皆さまとたくさんお話をしていこう。まずはG1初参加の小山さんから、少し自己紹介をいただきたいと思う。
小山薫堂氏
小山薫堂氏(以下、敬称略):まず、なぜ今スーツ姿かというお話から(会場笑)。僕は普段、あまりスーツを着ない。ただ、「今日はジーンズでいいですか?」と聞いてみたら、「いや、ジーンズは困ります」と言われて。でも、ジーンズ以外だと明日出席する大学の卒業式向けにたまたま持ってきたスーツしかない。だから、こんな姿で浮いている。もっときっちりした会議だと思っていて、皆さんがこれほど緩い格好だとは思わなかった(会場笑)。で、錚々たる方々が日本中から集まり、日本の未来を語り合うというG1サミットには前から興味があったのだけれど、今回は「おもてなし」という無茶ぶりがあって…。
為末:ですよね。このセッションだけ妙にふわっとした感じで(笑)。
小山:実は先日、星野(佳路氏:星野リゾート代表)さんや猪子寿之(チームラボ株式会社代表取締役)君というクリエイターの方や松任谷正隆(音楽プロデューサー)さんらと、テレビ番組で「2020年に向けて日本はどうすればいいか」みたいな話をした。そこで全員が一致した意見は、「おもてなしは価値にはならない」だった。
為末:なるほど。もう、のっけからテーマ全否定という(会場笑)。
小山:今はなんとなく、「おもてなし」というキーワードに日本人が溺れている感じがする。でも、それとは違う部分を謳ったほうが、もっと大きなメリットがあるんじゃないかという話をしていた。というのも、まず日本はコストが高い。だからサービス業で何かやるにしても、どうしてもアジアの他の国に負けてしまう。たとえば、僕は今JALの仕事をしているけれど、タイ航空を利用すると…、「微笑みの国タイ」と言うけれど、あの、なんとも言えない笑顔を見ると、「あ、日本は負けてるな」と思ってしまう。
あるいは、たとえば猪子君が先日、クライアントとの打ち合わせで、とある東京のホテルにPCを持って行った。それでホテルの方に電源の場所を聞くと、「お泊りの方ですか?」と聞かれた。で、泊りではないと答えたら、「電源は基本的にお貸しできません」と言われたそうだ。「もう愕然とした」と言っていた。そこで貸すのが本当はおもてなしだと思うのだけれども。とにかく、今はおもてなしという言葉が一人歩きしている。(オリンピック招致)最終選考時の「お・も・て・な・し」というスピーチにインパクトがあったからだとも思う。それで、「日本人はおもてなしが上手だ」と。僕もそう思っていた。でも、日本以外でも、たとえばイギリスの本当の一流ホテルに行ったときのあの感じはすごいわけだ。
僕は、おもてなしに一番大切なのはユーモアじゃないかと思う。笑いのセンス。あるいは、相手をリラックスさせること。でも、日本はどうしても型から入るし、それがおもてなしだと思ってしまう。それは受けるほうからすると少し違うのかなという気がする。だから、日本はおもてなしというものを過信し過ぎないほうがいいと思う。
為末:最終選考のときは、「日本はおもてなしのレベルが高いから、それを前面に出していこう」みたいな感じだったんですよね?
小山:そうだと思う。もちろん、実際にレベルが高いところは高いし、平均的にも高いと思う。やっぱり日本人って優しい。「トイレを貸してください」と言われたとき、「すいません、トイレはないんです」と、外国では言われないと思う。‘No’と言われるだけで、‘I'm sorry.’とは言われない。そういう優しさみたいなものはあると思う。ただ、おもてなしのスキルがあるかというと、それが体質につながっていない面があると思う。
為末:基本的な姿勢として、なんとなく人を迎えるようなところはあるけれども、技術としては、実はそうでもないんじゃないか、と。
小山:そう。たとえば、「インバウンドを増やすためにWi-Fi環境整えよう」という話がある。でも、来た人がWi-Fiによって「便利だな」って思うことはあっても、「Wi-Fiがあるから日本に行こうぜ」という人はいない。だから、それは呼んだあとのサービスなのだと思う。そういうサービスをいくら売っていっても、体験してもらわないことには分からないわけだ。だとすると、それが人を呼ぶマグネットにはなりにくい。だから、おもてなしがダメだと言っているわけじゃないけれど、それは我々が思っているほどのマグネットにはならないんじゃないかなと、先日は思った。
為末:それともう一つ。僕は、おもてなしとサービスってどう違うのかなと思っていた。旅館なんかに行く人は「心づけ」というものを渡したりするときがある。一方で、チップという文化もある。事前に渡して「お願いします」というお金と、事後に「評価しました」というお金があって、この二つは西洋と東洋の違いを象徴しているような感じもしている。おもてなしとサービスの違いというと、なにかこう、見返りを求めるものと求めないものの違いでもあるのかなという気がするけれども。
小山:おもてなしというのは、その人を慮(おもんばか)ることだと思う。その人の心に寄り添うというか。で、サービスはそれを超えること。「こうして欲しいな」を超えること、という気がする。それがサービスなのかおもてなしなのかとか、どっちが偉いのかは分からないけれども。自分が想像している以上のものが来ると人は感動する。想像しないことが起こったときに心が揺れ動く、その振れ幅が感動だと思うので。
「ルレ・エ・シャトー」という、世界中のいい宿が入っている会員組織がある。日本で初めて「ルレ・エ・シャトー」に入ったのは、現在はもう抜けてしまったけれども清流荘という伊豆の旅館になる。それほど有名ではないけれども、温水プールのある素敵な宿だ。なぜそこが日本第一号になったのか。どこまで本当の話か分からないけれど、「ルレ・エ・シャトー」の会長が日本へ視察に来たとき、初めてその旅館に泊まったそうだ。で、帰ろうとしたとき、靴が自分のほうを向いているのに感動して、「なんと素晴らしい宿なんだ。ルレ・エ・シャトーに相応しい」と(会場笑)。それで日本第一号になったという噂だった。そういう、我々は当たり前だと思っていることは、文化が違えば「そこまで慮っている」ということで、いいと思う国もあるということだと思う。
為末:あと、「相手が望むものを提供することと、“これがいいんじゃないか?”というものを相手に提供することの二つがあるように思う」という話を聞いたことがある。たしか星野さんがおっしゃっていたことだったか、…ちょっと覚えていないけれども。たとえば旅館に来て「ベッドで寝たい」と言う外国のお客さんに、ベッドを提供するべきなのか、あるいは「布団を体験してみると、実はこんなにいいんだよ」ということで布団を出すべきなのか。サービス業ではその辺ですごく迷うといったお話をされていた。その人がまだ望んでもいないものを提供できるかどうかも境目にあると感じる。
小山:その辺は人によるのかなと思う。「言ったものを出せ」と怒る人もいれば、「君はなんて気が利くんだ」という人もいるから。その見極めが一番難しい。
為末:相手によって手を変え品を変えなければいけないという。
小山:修善寺にある「あさば」という旅館に行ったとき、こういうことがあった。日本旅館だから、普通は低い机があるだけだ。ただ、仕事がしたかった僕はそこで、「すいません、書き物をしたいのですが、デスクなんてないですよね」と聞いてみた。すると、「ございます」ということで用意してもらえた。畳の上に布を敷いて、その上にデスクが置かれて、ライトスタンドもちゃんと机の上に置いてくれた。さらに僕が感動したのは、机に広辞苑が置いてあったことだ。「うわ、これはすごいな」と。頼んでいなかったのだけれども、僕が書き物をしたいと言っただけで広辞苑が置いてあったわけだ。
それと、どのホテルか忘れてしまったけれども、こういうこともあった。そのときは仕事で観る必要があったVHSビデオを持参していたのだけれど、部屋にビデオデッキがない。「あ、ないんだ」と思って、とりあえずビデオテープをテレビの横に置いて外に出た。で、そのあとホテルに帰ってきたらビデオデッキが部屋に置いてある。「あれ? さっきなかったよな」と思ってフロントに聞いてみると、「申し訳ございません」と言う。「部屋の準備で入った従業員から、“お客さまがビデオテープをお持ちだけれども、ビデオデッキを入れてもいいでしょうか”と、許可を求める連絡が私のところにありました。それで、私の責任で入れさせましたが、お邪魔でしたらすぐに撤去します」と。それで、「いやいや、すごく見たかったので本当に助かります」と、感動したことがある。
それは、必要としているものの一歩先を想像して実施をしたサービスだ。まあ、おもてなしもサービスも同じような気がするけれども、いずれにしても、おもてなしだけが特別と言ってしまうのは良くないような気がする。
為末:おもてなしという括りでなく、もう少し大きな範囲の話という気がする。想像力と配慮というか。
小山:ちなみに、おもてなしの話ってあまりおもしろくなさそうな(会場笑)。ちょっと話題を変えたほうが良いないかな、と。アウェイ感があるので(会場笑)。
為末:じゃあ、和はどうですか。「和はどうですか」っていうのも(笑)
小山:(笑)。和は、これまた難しい。和は…。
為末:皆、日本的なものって好きじゃないですか。
小山:一つ皆さんに問うてみたいことがある。皆さんは「ニホン」と言うだろうか。それとも「ニッポン」と言うだろうか。
為末:「ニホン」と言う人は(会場ほとんど挙手)…。では、「ニッポン」と言う方は(会場2~3名挙手)…。3人ぐらい。その心は?
小山:今、日本をテーマにしたラジオ番組をやっていて、そこで原稿を読むときに「ニホン」と読むか「ニッポン」と読むかで迷っていた。たとえば紙幣は「ニッポン銀行券」と言うし、いろいろと調べてみると最初はニッポンと読まれていたそうだ。だから、たとえば大阪なら「ニッポン橋」と言うでしょ? でも、それが関東に行ったとき、方言で「ニホン」になったらしい。関東では「ニホン橋」だ。だから大阪の方は「ニッポン」と言うことが多い筈だけれども、先ほど手を挙げていらした3名の方は大阪…、ではない(会場笑)。とにかく、そういうことなんですって。
で、それを紐解いていくと「大和」になる。和の国じゃないですか。「和」という漢字にあてて和になったわけだ。ちなみに僕は3年前、京都で料亭を買った。「下鴨茶寮」という料亭を買って経営を引き継いだ。そのとき、和ってなんだろうということをすごく考えた。また、「京都らしさ」ということもよく言われるわけだ。たとえば、「料理の味を変えたい。こういう味がいい」ということを料理長に伝え、それを女将に食べてもらうと、「あかん。京都らしくない」と言う。「じゃあ、何が京都らしいんですか?」と聞くと、「“京都らしい”っていうのは“京都らしい”。これは違う」とか言って、なんにもない(笑)。突き詰めていくと、理屈で言える人がほとんどいない。
そこで、「菊乃井」の村田吉弘さんだけが大変明解に教えてくださった。「寸法や」とおっしゃる。京料理はそもそも天皇家から始まっているという。天皇が食べるものを自分たちも食べたいという庶民の願いから生まれた。それで、昔は一汁山菜だったものから懐石のようなスタイルになって、少しずついろいろなものを食べるようになった。ただ、天皇陛下に対しては料理人が食材をそのまま提供するのでなく、「おいしくしなきゃ」ということで、味にも見た目にも工夫を凝らしていった。そのなかで、京料理の原点ができたそうだ。
で、「なるほどな」と思ったのだけれど、お茶一杯の量もその頃から変わっていない。柄杓の大きさが同じだからだ。90ccのお湯を掬って、とく。また、天皇がお住まいになっている場所の広さと、口の大きさにも合わせていった。口を大きく開けずに食べることができる、と。そんな風に、特定の空間における特定の大きさで、食べ物の切り方や形が決まっていた。それが庶民に広がって京料理になっていったという。ここでは、「口中体積」というのはすごく大切だ。たとえばゴディバのチョコレートは、あの大きさだから美味しく感じる。もっと大きかったら、あれほど美味しいとは思わなかったと思う。トリュフの大きさもそうだ。「それと同じで、京料理は、どうやって食べるか、そしてどのサイズが美味しいかということをいつも考えているんだ」とおっしゃっていた。
為末:文化的にそれがどこから始まっているのかを紐解いていくと、なんとなく京都らしさが見えてくるという感じだろうか。「和」を考えていくうえで、一体どこまで遡るのがいいのだろう。100年前なのか、1000年前なのか。
小山:そうそう。それは僕も思う。「和」と言っても、結局はほとんどが大陸から来たものだ。漢字も着物もそうだし、祇園だってそうだ。先日中国へ行ったとき、日本語がぺらぺらな方が、「僕の出身地には祇園という町があって、日本の祇園はそこから来ているんですよ」と言っていた。平安京も長安を模してつくったわけだ。日本はそれだけ中国から文化をコピーさせていただいて、そして今はなんとなく、中国人は日本のものをパクっているという敵対意識で見てしまう。でも、冷静にジャッジをしてみると、「いや、我々もあれだけパクらせてもらって、いろんな文化をつくったわけだし」と思う。ただし、日本人はコピーをしたものを自分たちなりにアレンジして、文化をつくりあげていった。日本人のうまさの一つは「和える(あえる)」ということにあると思う。
それで僕が行き着いたのは、和というのは、「和(やわ)らげる」「和(なご)む」「和(あ)える」ものということ。人からいただいたものを自分たちに合わせてリサイズして、リプロダクトしたものだと思う。だから、オリジナルをつくることはあまり上手じゃないけれども、あるものをアレンジする力がすごくあるんじゃないかなと思う。
為末:オリジナルをアレンジするときの「クセ」はどういうものになるのだろう。それが日本らしさにつながるのだと思うのだけれども。たとえば「小さくする」とか。
小山:もう少し大きな視点で言うと、対「人(ひと)」、というのが日本人という気がする。日本人は、狭い国土で、紙と木でできた家に住んで、肩を寄せ合って暮らしてきた。そのなかで常に誰かの気配を意識しながら生きてきた国民だと思う。自分だけでなく人のことをすごく気にしながら、人に気遣いながら生きてきた。西洋の人々は広い敷地のなかで石造りの家に住んで、どちらかといえば自分勝手なことをしてもほかの人に迷惑がかからなかった。狩猟民族だし、自分主体で生きてきている。その違いが大きいと思う。日本では、自分ひとりでなく、誰かと自分の距離感を測るためにモノがつくられたりしていた。お茶も、たぶん自分だけが楽しむものじゃない。人があって成立するものだ。そうやって成立しているものが日本はすごく多い気がする。
為末:もう一つ、「クールジャパン」というキーワードもある。これにはいろいろな意見があって、今は批判のほうが多いような気もする。「クールジャパンって、本当にクールなのか」とか、よく言われたりするわけだ。いずれにせよ、その辺の定義ってどう考えたらいいのだろう。アニメもクールジャパンの一つだと思うし、いろいろなものがクールジャパンのなかに入っている。では、日本発ならクールジャパンなのか、日本らしさがクールジャパンなのか。選択する側もその辺が絞り込めていない感じがするけれども、たとえば漆塗りのものとかがクールジャパンだと言い切るのか。そうじゃなくて、ポップカルチャーみたいなものがクールジャパンだと言い切るのか。ざっくりした質問になるけれども、クールジャパンってどういう基準で捉えるものなのだろう。
小山:僕はクールジャパンという言葉が嫌いだった。ただ、それを今言っても仕方がないので、それはそれでいいと思う。ただ、どこまでがクールジャパンになるのか。そもそも、ターゲットが違う。外国人でも漫画が好きな層とお茶や歌舞伎が好きな層はまったく違う。そういう人たちに向けて一緒くたに提供するのは、クールジャパンが一つのデパートだとしたらすごく変だ。
なので、僕はクールジャパンというのは発信するワードでなく、日本人がまとまるための、あるいは、たとえば各省庁に横串を通すためのワードでいいと思う。消費者に対して「クールジャパンだからどうぞ」というのは混乱を招くように思う。ドン・キホーテと三越が一緒にやるようなものだから。そこは無理に合わせる必要はないと思う。クールジャパンだから買うという人はいない。たとえば刀を見て、「あ、これは素晴らしいな」と思って買うわけで。だから、クールジャパンはインナーのキャンペーンワードにしたほうがいいんじゃないかなと思っている。
※開催日:2015年3月20日~22日
→日本を演出する ~おもてなしで“和”をデザインする~[2]は6/16公開予定