「供給元は原料代を受け取らず、納品先は高額請求しろという。外国人には理解できない価値観」(河野)
田久保:拙著『日本型「無私」の経営力震災復興に挑む七つの現場』でも八木澤商店さんにはご登場いただいているのですが、お話を伺うたびに“スーパーリーダー”というか、信念の塊でいらっしゃるなと感じます。今日はそんな河野さんから更に色々お伺いしたいと思います。
まず、河野さんご自身も会社再建で大変な状況だった訳ですが、そのなかでも、たとえば金融機関の連絡リストを被災企業に配ったりされていた。そういった地域への貢献を、何故あのタイミング、あの状況から行っていかれたのか。その思いやモチベーションからお聞かせくださいますか。
河野:ひとつは震災直後、やることがなかったからです。何もつくることが出来ず、売るものもない。しかし人は何かをされているだけでは満たされなくなるんですね。誰かの役に立ち、支えになる。それが仕事の原点だと思います。それによって、あの異常な状況下、社員たちも心をもたせていたというか…。とにかく何もせず避難所で日々の支給を待つだけというのは人間らしくない状態だと思います。
田久保:震災前から、たとえば中小企業家同友会として仲間のところへ行って決算書を見て、ときには棚卸や再建計画策定まで一緒に行っていた訳ですよね。すごく印象的だった河野さんの言葉で、いわゆる“究極のおせっかい”とも言えるようなことをやっていらした訳です。河野さんご自身、もともとそういった価値観を大事にしていらしたのでしょうか。
河野:地域について現在のような考え方を持つようになったのは海外に出てからです。海外で自分の地域について何も話せないということがあって、それがすごく恥ずかしかった。その一方で日本という国や日本人の国民性がいかに素晴らしいかも実感しましたが。あと、私が大変尊敬する…、もう亡くなってしまった方ですが、宮城県の中小企業家同友会で事務局長を務めていらした方がいて、その方にかけられた言葉も影響しています。「強いものだけが生き残る世の中をつくるより、誰もが安心して暮らせる世の中をつくるほうがよほど難しいだろう。恐らく世の中から青臭いと笑われるだろうけど、それが出来るのが日本の中小企業だ。だから日本の中小企業には200年以上続いているところが世界一多いんだ。そういうことを運動として一緒にやらないか?」。そう仰ったんです。きっかけとしてはそれが大きいかもしれません。
田久保:そういえば最近、とあるオーストラリアメディアの取材を受けた際、河野さんのお話を聞いた彼らが口をぽかんと開けたままだったというお話を伺いました。彼らとしては理解しかねるお話だったようですが。
河野:八木澤商店は震災後、秋田県2社、岩手県2社、宮城県1社、埼玉県1社、そして新潟県1社におよぶ同業者の方々に商品をつくっていただいて、それを販売していました。これは海外の方からすると理解出来ない話なんだそうです。「放っておけばライバルが1社無くなるのに何故そんなことをするのか」と。
さらに彼らが理解できない話もありました。震災直後の数カ月間、原料を無償で協力してくれた会社もあるのです。福井にある河原酢造というお酢屋さんに至っては原料のお酢…、オーガニックの立派なお酢なのですが、2年経っても請求してくださらない。こちらからお願いしても「いや、私もゼロから蔵を立ち上げて、建て直す経験をしたことがある。どれだけ苦しいことかが分かる。だから黙って受けて欲しい」と言われて、いまだに原料のお酢を無償で提供してくださいます。
お客さまも同様でした。高島屋さんからは見積もりが2回返ってきました。普通なら「もっと安く」ですよね?でも高島屋さんは「駄目です。これでは八木澤商店さんがもたない。もっと上げてください」と。それで5%値上げしたのですが、「まだ安過ぎます」と仰って、さらに値上げして結局3回目に受けていただきました。そういった、まさに日本型「無私」の経営が、海外では理解されないんですね。
田久保:宮城県の山元町には岩機ダイカスト工業というアルミダイカストの会社があります。で、同社も被災して自社でダイカストがつくれなくなってしまっていました。そこで同社が何をしたかというと、ダイカスト屋さんにしてみれば命の次に大事な金型を震災後、ライバル会社に自ら持っていったんです。それで「この金型を使って、とある自動車会社さんに部品を納めて供給途絶が起こらないようにして欲しい」と。当然、金型を一度でも持って行けばその仕事はすべてそちらに行く訳です。しかし、「長い期間を考えたら信頼関係のほうが大事でしょ?それ以上でも以下でもない」と仰っていました。その辺に商売やお金といった短期間のやりとりを超えた価値観を感じます。
「震災前にサンプル提供したもろみが釜石で生きていた。神様の存在を感じるような逸話」(田久保)
それともうひとつ。震災後、「何かの神様がいるに違いない」と思わされるような出来事が八木澤商店で起きたと伺っています。失われたと思われていたお醤油の原料となるもろみが見つかったそうですが、その辺のお話もお聞かせいただけないでしょうか。
河野:震災直後、あるメディアのクルーが「八木澤の樽を見つけた」と言ってきたんです。正直、当時は救援物資を届けたり倒産防止の活動をしたりでそれどころではなかったのですが、「少しで良いから、流された樽が本当に八木澤のものなのか確認するところを撮らせて欲しい」と言われました。それで行ってみたら、間違いなくうちの樽でした。流されていたので中は空でしたが、樽の底にこびり付いていたもろみのかけらは採りました。で、そのときの映像が地元テレビで放送されたんですね。
そうしたら、しばらくして釜石にある北里大学バイオテクノロジー釜石研究所というところから連絡が来たんです。「震災前にサンプル提供いただいたもろみが釜石で生きていた」と。うちの醤油から普通の醤油に含まれないような優良なアミノ酸が多数見つかっていたということで、「共同研究しましょう」というお話があったんです。それで震災前にもろみを提供していたのですが、もちろん釜石ですから震災の被害は受けていた訳です。ですが、私が震災後にもろみを削っている映像を見て、「これは大変だ」という話になり、そこの研究員が瓦礫の中から無傷のものを探し、取り出してくれたのだそうです。そして「八木澤商店さんは今それどころではないだろうから」と、それをそのまま盛岡にある岩手県工業技術センターへ持っていき、拡大培養してくれていたんです。「八木澤商店の醤油が復活するまでこちらでずっと培養しますよ」と言ってくだっていました。それを今年の3月、新しい工場で初めて仕込むもろみにも入れる予定です。
田久保:そういった経緯を経て、これからまさに本筋中の本筋であるお醤油が復活していく訳ですよね。そこで今後に向けた事業のビジョンもお伺いしたいと思っています。震災とは別に、もともと東北地方は高齢化問題をはじめとしたさまざまな課題を抱えていますよね。それらの問題も可能であれば絡めていただきつつ、これから先、どんな展開をお考えになっているかをお聞かせいただけないでしょうか。
河野:まずは八木澤商店が元々あった場所の復興ですね。今泉という陸前高田で最も歴史ある街道ですが、今は住民協議会を立ちあげて復興計画を策定しているところです。酔仙酒造も今は陸前高田に拠点を持っていません。また、うちは目の前も裏手も味噌・醤油屋さんですが、そこもまだ復活出来ていない。ですから今は彼らと一緒に「醸造の街をつくっていこう」ということで計画を立てています。
また、現在は内閣府の予算も使わせていただき「陸前高田で起業家を育成しよう」というインキュベーションも行なっていて、すでに40社が起業しています。そこで起業資金として1社あたり250万が割り当てられますが、やはりそのあとが大事ですよね。インフラがきちんと整備された際、その人たちが商売出来る場所がなければいけない。そのとき、やはり働く人がいないという問題も出てきます。ですから我々中小企業経営者がどんどん外へ行って、やる気のある若い人たちを連れて来る必要もあると思っています。
実はそのインキュベーションでも外から来た人はかなりいます。新しいことに挑戦する人はいるんです。ただ、日本はベンチャーキャピタリストがあまりに少ない。もしかしたら成功するかもしれないというビジネスの種を資金面で支援する、あるいはビジネスのノウハウやマネジメントを教えていく機能がない。それをどうやってつくっていくかも今後の課題です。そういった努力を通して、10年後の陸前高田には“手業(てわざ)”が光るような良い仕事が溢れていて、技術者集団が外に出ては仕事をとってくる。そんな状態になっていて欲しいと思います。
田久保:ちなみに現実的な資金需要としてはどれぐらいの規模感でイメージしていらっしゃいますか?
河野:そこはまちまちですね。数百万から数千万のオーダーまであります。
田久保:たとえば河野さんが使われたミュージックセキュリティーズのマイクロ投資のような形、最近流行のクラウドファンディングというような形で、100〜500万ぐらい集まれば、どうにかこうにかもっていけそうといった感じでしょうか。
河野:ミュージックセキュリティーズでやっているのは、あくまでも経営ノウハウを持つ人々への投資なんですね。ちなみにもうひとつ付け加えると、国の色々な震災支援が被災企業に限られているという問題もあると思います。起業する人々のなかには被災していない人もいますが、彼らだって地域のインフラがダウンしているという最悪の経営環境で、さらには手持ち資金がほとんどない状態で事業をはじめなければいけません。その辺の解決策ついてはもう一歩に進んで考えなければいけないと思います。
「砂漠に店が一軒では事業は成立しない。岩手は醤油におけるボルドーになる」(河野)
田久保:会場からもご質問をお受けしましょう。
会場:地域企業の支援にまで踏み込んでいった河野さんご自身の背景を、もう少しお伺いできますでしょうか。なぜ、出来たのでしょうか。
河野:大事なのは「関係性」だと思います。例えば、震災後一週間目に、地銀の支店長は泥だらけになりながら我々のところへ来て、私が「絶対に再建する」と言ったら、手をガッシリと握って「絶対に潰させないから」と言っていました。そして彼の代理が毎週末やってきては、朝から晩まで私の脇で経営再建計画書をつくっていました。この計画書は一般には本店審査部に出すために作るだけですが、その銀行は審査部を通したうえで再度、数字を戻してきて、「この数字はどこに出してどう使ってくださっても結構です。それで、どんな質問や指摘を受けても数字に関してはこちらが対応します」とまで言ってくれました。
そんな風にして、うわべだけではない関係が構築されていました。我々のほうも、「陸前高田の会社は一社も潰したくないから“廃業する”というところがあったら情報を流して欲しい。そうしたら俺と田村さんが出向いていって説得するから」といったことを伝えていました。震災後に廃業するところは本当にあったんです。ただ、そこで支店長も「あそこの会社はすごく良い経営をしていたから無くなって欲しくない」と。それで我々が親戚の家に避難しているというその方を訪ね、説得したりもしました。
普段から言いたいことを言い合う関係ですから、ときには喧嘩にもなります。しかしそれでも、上っ面の付き合いではない関係性が大事になると思います。もちろんそれだけでは不十分かもしれませんが、とにかく覚悟を決めて手を挙げると、「俺もなんとかしようと思っていた」と言う人が集まってきます。「この指とまれ」ですよ。ただそれを他人事にしていたら絶対に人は集まらない。すべて自分ごとにしなければいけないと思っています。
会場:先ほど出たオーストラリアのメディアに共感する部分もあります。「市場に限りがある以上、やはり同業者はライバル」というビジネス感覚を持ってしまう部分が私にはあるのですが、この辺についてはどうお考えでしょうか。
河野:我々岩手県の味噌・醤油屋は、もともと地域で技能士会というものをつくっていました。そこにたとえばそれぞれの蔵元がつくった醤油を持ってきて、ブラインドで利き味をしたりしていました。何故そんなことをしていたのか。たとえばフランスのブルゴーニュやボルドーが有名になったのは、あちらには良いワイナリーがあって、そのワインが世界中で評価されたからですよね。その原点になっていたのは土作りであり、それを支えてきた蔵元です。「それなら岩手でも同じことが言えるだろう」と。「これだけ醤油が世界へ広がっているのに、すべてがキッコーマンさんのものでは面白くない。必ず付加価値を乗せた差別化商品に光が当たる時は来る」と考えました。で、「それなら岩手は醤油におけるブルゴーニュやボルドーになろう」といった話を皆でしたことがあります。
要はマーケットをどう見るかという話だと思います。隣だけが競合相手なら一緒に何かをしようとは考えません。しかしそれでは限界がある。人口が減少していくなかで共倒れになってしまいます。その結果、砂漠のなかに一軒だけ店が立つことになっても事業は成り立ちません。ですから、「ネットワークを組んで、そこに外からマーケットを呼び込む」というビジネスの論理も十二分に考えられると思っています。
「自社のラインを止めてまで下請け業者を守る会社もある。その“無私の経営”が当たり前」(田久保)
田久保:河野さんは八木澤商店というより、陸前高田全体の経営をされている感がある。恐らく、八木澤商店だけが復活しても嬉しいとは思われないでしょうし・・・
河野:・・・八木澤商店だけが復活するという構図がありえないんです。
田久保:メカニズム的に。
河野:はい。
田久保:売り先も仕入れ先も陸前高田の中にある以上、皆で復活しないと自社も本当の意味では復活しない。全体を持ち上げないと仕方がない構図ができている。
河野:私だけじゃないんです。こういうのが回りにゴロゴロいる。私一人だったら持ち崩します。
田久保:それは東北という地域の特質なのでしょうか。先にお話しした岩機ダイカスト工業という会社も、自社からの下請け仕事100%で成り立っている20社ほどに、「自分のところからの仕事がなくなったら彼らが潰れてしまうから」ということで、自社のラインを止めてまで発注を途切れさせないようにしていた、というのですよ。もう、ほとんど意味不明の世界じゃないですか(会場笑)。でも社長は、そうやって関連会社の経営ごと支えることが当たり前と考えておられるし、多分、河野さんもそれを“普通”の景色とみられるのであろうと思います。
河野:危機において目覚めるところはあると思います。普段、なんとなく持っていたものが、突然に明確になる。何もなくなって、削ぎ落されることによって、もともと持っていた本当に大事なものが分かりやすくなるというところはあった気がします。
会場:復興を目指す企業さんの多くが「売場」という点で苦労されていると聞きます。このあたり、現実的にはどのように解決していくべきだとお考えでしょうか。
河野:八木澤商店のお話をひとつしますと、ミュージックセキュリティーズがつくった個人投資家を集めるファンドには延べ3000人の出資者がつきました。なかには料理研究家、カメラマン、あるいは大企業の方もいます。ただ、このファンドへの出資はネットだけでやりとりされていたんですね。コストを抑えるためです。ですから出資の手数も大変になるのですが、逆に言えばその面倒な手数を乗り越えて出資をしてくださる方々だけに、応援したいという意識はもとより大変高かった。
八木澤商店の経営課題は出資者にすべてオープンにしているのですが、そうしたらあるとき、「売上がまだ6割しか回復していない。どうやって売るかを考える委員会を出資者でつくりましょう」という話が立ち上がりました。我々の商品開発を出資者が考えてくれるというんです(会場笑)。たとえば八木澤商店のタレをつくったレシピをプロの料理研究家の方が考え、それをカメラマンが写真に撮って、レシピ集をつくる。「これでダイレクトマーケティングをやっていきましょう」と。そんな風にして新しいマーケットをつくっていった訳ですね。3000人の社外取締役がいるような状態です。
「大豆や米を“種”の状態で持っている。この機能が日本の醸造業者を長寿たらしめた」(河野)
田久保:創業206年とお聞きしましたが、ここまで続いてきたものを途絶えさせてはいけない、という出資者の思い、長く継続されたものに対する日本人のリスペクトみたいなものも感じます。歴史ある会社を継がれたことに関する、何か特別な思いのようなものもおありでしょうか。
河野:そうですね。200年以上続いている会社というのは日本に三千数百社あり、その中で醸造業を営んでいるところが結構な比重を占めているんです。経営理念を考えるに際し、私は、醸造業がなぜ地域の中で生かされてきたかという視点から、捉え直してみました。昭和30年代には4000軒程度あった味噌・醤油の蔵は、現在1500軒にまで減っています。これは何か重要な機能を急激に失ったからではないか。私はそう考えました。
私たちが取り扱っているものは穀物です。穀物は人間が命をつなぐのに最低限必要であると同時に、原料庫の中にどういう状態であるかというと種でもある。大豆も米も蒔けば翌年、芽を出す。それと、醸造の蔵には必ず枯れない良い水が出る井戸がある。それと科学では解明できないような微生物の神秘。
種を備蓄しているという機能一つをとっても、農業技術が今ほど高度ではなく、干ばつや冷害に苦しめられた時代においては非常に貴重なものであったのではないかと思います。その年に食べるものも、次の年に収穫するための種の分も、集落ごと全て失う年もあったと思う。そのとき醸造の蔵元が何をやったか。多分、原料庫の中の大豆や米を種として放出したのだと思います。だから、地域の中で大事にされ、守られてきたのではないか。
ここ数十年にその機能が失われたのは、外国から原料を買うようになったからです。しかもその原料は加工されて、種の状態ではなくなっている。そもそも醤油や味噌を自社では作らない蔵元も出てきているので技術もなくなっている。そうなってくると後継者は、こんな儲からない事業は止めて、不動産やら駐車場をやったほうがいいと考えるようになる。それが衰退の原因ではないかと思います。だから私は、守らなければいけないものと変えていかなければいけないものの区別を後継者としてきちっと見なければいけないとは思っています。
田久保:ありがとうございます。今日は私自身も河野さんから多くのことを学ぶ機会となりました。そのなかには、一企業を超えて、地域さらには国という領域に繋がる「気付き」もあったように思います。では最後に会場の皆さまへ一言、何かメッセージをいただけないでしょうか。
河野:これからは東北の時代だと思います。ちなみに先日福島へ行ったとき、いわきの方々の前で私は「除染、出来ないですよね」という話をしました。勇気を持ってそう申しあげました。そうしたらいわきの方々は、「除染、出来ないですよね。我々も地場産業を除染にするつもりはありませんから」と言うんです。胸が熱くなりました。東北は日本の食糧基地です。ですから不幸にして起こってしまった事故ですが、その風評被害が差別にならないように正しい情報を伝えていく必要があると、改めて感じもしました。福島をひっくるめて東北ですから、皆で良くなっていく方法を考えていく。以前に戻るのではなく、以前より良くなる。その知恵を皆で搾り出すことが東北復興のテーマになると思います(会場拍手)。
執筆:山本 兼司