国も会社も「人の力」を引き出すことが再建のカギ
皆様、こんばんは。ただいまご紹介いただきました柴田励司です。今日は、私の体験談に基づいて「リーダーとは?」という命題を考えていきたいと思います。
まずは私の危機感からお話しします。日本は人が減っています。過去10年間に生産年齢人口(15歳から65歳までの人口のこと)が461万人も減っています。四国の全人口が404万人ですから、10年間で四国の人口がまるごと消えてしまったようなものです。10年後には1232万人も減ると予測されています。そうなると、神奈川県と静岡県がなくなるようなものです。
需要を作り出し、消費する世代の人口が減るということは、単純化して言うと経済が弱くなる可能性が大ということです。それを放置しておくと、私や本日お集まりの方々の子ども世代が苦しくなる。だから何とかしなければ!と危機感を持っているわけです。
私自身はこれまで様々な会社の経営に関わってきました。破綻会社の再建もやりました。破綻した会社にはお金がありません。人材も足りません。コンサルティング会社に依頼したり、外部から採用したりすることもできません。それでも、残された人たちが力を結集すれば再建することは可能です。人の力をどのように引き出して使っていくかが重要なのです。
人口が減っても、人の力をどのように生かしていくか次第で将来の悲観シナリオを回避できる。だから今、ヒトが育つ環境をいかに創るかということに強い関心があるのです。
グロービスのような経営大学院で体系的にリーダーシップについて学ぶことは大切です。ただし、それだけで現場でリーダーシップが発揮できるわけではないと思います。
どの会社にもその組織特有の力学があります。
それは目に見えないもので、「組織特殊関係資産」と言われたりもします。ですから外部からバリバリのキャリアを持った人が意欲満々で組織の中に入っていっても、うまくいかないケースがたくさんあるのは、その人がこの「目に見えない力学」を意識していないからです。「目に見えない力学」はどの会社にもあるのですが、こればかりは中に入ってみないと分かりません。外で学ぶものではありません。
リーダーは必ず周りから見られています。自分を客観視できる力は必須です。特に「怒り」をいかにマネージするか、これが大切です。リーダーをやっていますと毎日が不条理の連続です。「これは絶対にいける」と思ったものがいきなり動かなったり、「ええっ?!」と驚かされることが本当に多い。その時にカッとなってはいけない。言ってはいけないことまで言ってしまったり、部下を追い込み過ぎたりしてしまう。こうならないために、右脳と左脳で同時に違うことをやるような能力が必要なのです。
例えば、両手でじゃんけんをして、片方の手を次々に勝たせてください。できますか?右手を必ず勝たせてみてください。グーとパーしかやらない方がいらっしゃいますが、チョキもありますよ(会場笑)。怒っている自分と、それを客観視できる自分−−。同時に2人の自分を持てるような能力を身に付けたほうが良いというお話です。
リーダーの能力としては、自分を含めたメンバーの総力を発揮することが不可欠になります。おそらく課長ぐらいまでは自分だけでもなんとかなります。自分が200%働けば、その組織のパフォーマンスを高めることはできてしまうのです。ところが部長以上になっても、そのやり方を続けると組織が破綻します。自分以外の人間が100%以上の力を発揮できるように立ち振る舞う必要が出てくる。リーダーとしての立ち位置が全く違ってくるのです。トップリーダーともなれば、なおさらそうです。
プレッシャーがかかる状況でも自然体でいられるか、折れない心を持っているかもポイントです。私は以前「パロマ事件」と呼ばれた問題で第三者委員会の副委員長をやった時期があります。周到な準備・調査の末に報告書を作成しても、遺族にがっと詰め寄られたり、マスコミが大挙して押し寄せてきたりするとフリーズしてしまう。ほかにも危機状況におけるコンサルティングをいくつか手がけましたが、頭で理解しているだけではだめで、心が付いていかないと実際には使えないのです。頭と心の両方が圧力に耐えられるようになっていなければいけません。だから、修羅場に自ら手を挙げて飛び込んでいくということを若いうちから可能な限りやっておくべきなのです。
インプット、スループット、アウトプットが仕事の基本
仕事というのは「インプット」「スループット」「アウトプット」の組み合わせです。インプットは知識として習得または経験するものです。それを自分なりに整理、構造化し、色々な形に組み替える、これがスループットです。それを文章や口頭で表現するのがアウトプットとなります。
この中でも特にインプットが重要です。そもそもインプットがなければアウトプットは出ません。インプットを意識的に深め、幅を広げていくこともリーダーには欠かせません。
CCC(カルチュア・コンビニエンス・クラブ)にいた当初、いろいろと挙げていった提案の1つに「R2(ReSet-ReEntry)」というものがありました。これは同じ仕事を3年以上続けてはいけないというものです。なぜでしょうか。
新しい仕事を始めた時に大変なのは、「何をどれだけ知っておけば良いかが分からない」、どこまで勉強したらよいのか、誰とどのくらい深く付き合えば良いのか、そういったことが分からない。これはインプットの部分です。
ところが3年も同じことをやっていると、そのインプットは“寝ていてもできる”ようになってきます。アウトプットの質を高く維持するのは大変ですが、インプットのところは楽にできるようになっている。すると気が付かないうちに自分の入り口が固まってしまう。人は自分が感心を持っている情報しか目に映りません。例えば、AKB48は人気です。世の中の露出が非常に多い。ところが、興味・関心が無ければその情報は目に入ってこないものです。自分の関心事を1つに固めず、常に広げるように意識すべきです。
ところが仕事面でインプットを広げていくという、この行為ですが、サラリーマンだとやりにくい。会社では「この仕事をやりなさい」と言われます。インプットを自分で広げられる人は外にそれを求めて辞めていってしまう。「これではいかん」ということで、3年以上同じ仕事をしている人は問答無用で仕事を変える「R2」を導入したのです。
その後、この事例がいろいろなところで紹介されたので「当社でも導入したい」という企業がいくつかあり、そのお手伝いもしています。
インプットを増やすといろいろなことが見えてきます。決められた道の中からの選択という状態から一歩進んで、道なき道を飛べるようになる。
あなたはドライバー、イネイブラー、サポーターのどれ?
1989年ぐらいまでに社会へ出た方々は「マニュアル」というものを持っていなかった。仕事のやり方をきちんと教わるということがありませんでした。内部統制やコンプライアンスもなくて、かなり無茶苦茶な状況で仕事を振られていました。何も分からないのに「とにかく行け」と。痛い思いをしながら、とにかく動かされる。
さすがに、あまりにも非効率なので、仕事のやり方やマニュアル本といったテキストがたくさん出版されるようになりました。その流れに拍車をかけたのが成果主義です。成果主義というものが曲解され、極論すると「目に見える形で成果が出ないと評価しない」ということになってしまった。ところが、実際には評価ができる仕事なんて、そんなにないのです。組織というのは、顧客価値を直接作っている「ドライバー」と、そのドライバーをサポートする「イネイブラー」、そしてすべての人がうまく仕事を動かせるように管理していく「サポーター」の3つによって成り立つのですが、成果を目に見える形ではっきりと測定できるのはドライバーのうちの一部だけなのです。
無理矢理、成果の形に落とし込むために、多くの企業で膨大なマニュアルが作られました。作れば使わなくてはいけない。マニュアルに慣れると、今度はこなさなければならない仕事がどんどん舞い込んでくる。「その中からどれを選ぶか?」ということが仕事になってしまう。
こんな環境下では、仕事の世界観が固まって、それ以上伸びなくなってしまいます。常に「他人から与えられた課題」の中から選ぶのですからね。与えられた課題から上手に選ぶようになるかもしれませんが、誰かが課題を与えてくれなければどうしたら良いかが分からない。今後の日本を考えたら、これではダメなのです。道が無い所にも突き進んでいくように、意識的に自分自身を持っていかなければいけません。
タイのバンコクなどで講演をすると、会場にはたくさんのインド人が来ます。彼らはこちらが話している真っ最中でもどんどん手を挙げて質問をしてきます。話を続けていると、どんどん迫ってくる。仕方がないので質問を許すと、「昨日からこういうことを考えていて、その答えを聞くためにやって来た」と言う。そのアグレッシブさは驚きです。彼らは道のない道を飛ぼうとしている。今後の日本は、アジアの文脈の中で考えなければ明日はありません。アジアのなかで彼らと伍していくためには、我々もそんなことを意図的に考えていく必要があるのです。
私の履歴について少しお話しします。私は埼玉県の川越高校という男子校の卒業です。その後、予定通り駿台予備校に推薦で入りました(会場笑)。川越高校の男声合唱団で部長をやっていたのですが、その合唱団には伝説の先輩がいました。私が入学した前年に卒業していたので一緒にいた期間はないのですが、その方は同じパートでしかも部長もやっていた。そしてカバンにサントリーの「オールド」を入れていて、いつも先生方に酒を振舞っていたそうです。当時の私はそんな話を聞いて格好いいなと憧れていました(会場笑)。その先輩が駿台予備校に入り、上智大学に行ったのです。「これだ」と思って同じ道を歩みました。祖母が「励司はどこの大学に行ったんだい?」と聞いてくるので、「駿台」と言ったら「ああ駿“大”か」と、大学だと思ってくれたようでした(会場笑)。
そして予定通りに上智大学に進み、卒業後はホテルマンになりました。その後外交官の仕事を務めて、再びホテルに戻りました。そして外資系コンサルティング会社に入社してコンサルタントを5年間やって社長を7年間務めました。昨年では、いわゆる雇われ経営者の仕事をしていました。現在は自分で立ち上げたインディゴブルーという会社で代表を務めています。
自分の内発的動機、つまりモチベーションの源泉は何だったのかなと振り返ると、結局「人に喜んでもらいたい」という気持ちだったのですね。これは子供の頃から今の今まで変わっていません。
入社式前日に採用キャンセル!
私は学生の時に演劇をやっていました。劇団を主催していました。自分で本を書いて演出をしていました。当時は演劇で飯を食っていこうとまじめに思っていたのです。本当に好きでしたし、当時はそれなりの評価もいただいていました。演劇コンクールのようなもので決勝まで進んだりしていました。ラジオ用ドラマの脚本書きのアルバイトもやりました。1984年頃のことですが、1週間分書くと40万円ももらえたんです。超おいしいバイトでした。その頃は才能に満ち溢れていたので(笑)、大学の授業2コマぐらいを使って内職すると1週間分書けましたから、「これで食べていけるな」と思っていました。
そうは言っても就職活動しないのはまずい。私の家系はほぼ全員が公務員で、学校の先生だったり市役所や都庁の役人だったりでした。そんな環境で劇団をやるなんていう話が通る道理がありません。親が「リクルートスーツを買ってきたよ」なんて言い出して、困っていました。たまたま届いた就職セミナーのDMが京王プラザホテルのもので、親も「あそこは良いね」なんて言うので、大変に安易な発想で足を運びました。
セミナー会場ではおよそ9割が女性で、少数派の男性である私は思いのほか目立っていました。もう選考のプロセスがスタートしていて私も面談を受けたのですが、横の席にいるのは立教大学や亜細亜大学の観光学部とか、皆、ホテル関係を専門で勉強している人たちばかりでした。話している言葉がまず分からない。「柴田君はホテルをどうしたいですか?」と聞かれたので、仕方なく「ホテルは都会の劇場です」などと言ってみたら、これが意外とウケまして(会場笑)。
わりと早い段階で内定をいただきました。そして演劇も続けていました。10月1日の内定式が芝居の公演日とぶつかっていたので、会場に到着した瞬間にお腹が痛くなるという名演技を披露して会場を去るということをやってのけました(会場笑)。行く気は全くなかったのです。
12月ぐらいになり、とある映像関係企業からオファーが舞い込んできました。「柴田さん、若手を集めたクリエイティブ集団を作りたいのでうちに来ませんか」と。契約社員のような形だったのですが、年収は当時で500万円と悪くない。世の中を完全に舐めきっていた当時の私は「これで行こう」と決めて、京王プラザホテルには「申し訳ありません。私はやはり自分の行きたい道で生きていきます」というようなことを言って内定を辞退しました。
ところが、3月31日午後1時頃、その映像会社から自宅に電話がかかってきまして「人事担当の者ですが、すぐにお越しいただけないでしょうか」と。「入社式は明日ですよね?」と確認しても「とにかくお越しいただけませんか」の一点張り。とりあえず「分かりました」と。
行ってみると、雰囲気が暗い。人事の方が「柴田さん」と話し始めました。それまでは「柴田」と呼び捨てたったのに妙にかしこまって「柴田さん」と言う。「あの話ですが…、無かったことになりました」と。「“あの話”ってどの話ですか?」と聞くと「ですから、明日からの話です」と。「は?」となりましたね。「じゃあ明日から働けないということですか?」と聞いたら「そういうことになります」と。その会社はオーナー系列の会社だったのですが、そのオーナーに新会社の話がよく通っていなかったというのです。明日が入社式だというのに「なんじゃそりゃ」という話ですが、結局、本当に駄目になってしまいました。私を含め入社予定の3人はいきなり路頭に迷うことになりました。
京王プラザホテルに救われ、皿洗いからスタート
大学は卒業してしまったし、翌日は4月1日だし、赤坂見附辺りをふらふら歩いていました。すると、遠くに新宿の高層ビル群が見えたのです。その1つが京王プラザホテルでした。公衆電話ボックスに駆け込みました。「すみません、内定を辞退した柴田と申しますが」と言ったら「はい」と言われ、次の瞬間にガチャンと切られそうになりましたが、なんとか事情を説明したところ、「常務が会うと仰ってくださっているのでとにかく来なさい」と言っていただけました。
地下鉄丸の内線で赤坂見附から新宿へ向かい、新宿の地下道を猛ダッシュです。ハアハア言いながら京王プラザホテル本館10階の役員室に行ったら、当時の常務が待ってくださっていました。「すみません…、こういうことで騙されてしまいまして」と、ことの顛末を話す間、常務はずっと聞いていてくだいました。そして、「分かりました。柴田君が内定を辞退したということを無しにしましょう」と言っていただけたのです。内定復活です。3月31日の午後1時半ぐらいに内定が無くなり、午後4時20分ぐらいに復活しました(会場笑)。それが私の社会人生活スタートでした。
皿洗い、おしぼり巻き、バーの後ろで氷をかく仕事をやり、ベルマンや宴会のウェイターもやりました。大学時代の私を知っている人たちが随分心配してくれました。でも、当時は毎日とっても楽しかったですね。また、ホテルにはいろいろな人がいて、めちゃくちゃ面白かった。
学歴1つとっても中学卒から大学院卒まで。雇用形態も正社員、アルバイト、契約社員、嘱託、そして日雇い。宮内庁の宮中晩餐会で仕事をしていたなんていう方もいましたが、いろいろと問題を抱えた人も少なくない。演劇をやっていたといっても、同じような教育水準や経済水準を持つ仲間同士でやっていたわけです。ところがホテルという職場には全く違う人生があった。不思議なこともたくさん教わりました。楽しかったです。
オランダの日本大使館での外交官経験が大転機に
すると、常務に呼ばれまして「柴田君、今の仕事は考えていたのと違うよね」と言われました。「いえ、楽しくやっております」と言うと「無理しなくていい」と(会場笑)。「いえ、本当に楽しいです」「いや、大丈夫だ」と…。何が大丈夫なのかか分かりませんが(会場笑)。「実は外務省が民間から人を募ることになって、“推薦してくれ”という話が来たので君を推そうと思うがどうか」と仰るんですね。最初は「え、なんの話?」と思いましたが、チャレンジしてやろうと。バンジージャンプ以外なら何でも(会場笑)。試験を受けたら運良く合格しまして、オランダの日本大使館に外交官の補佐として行くことになりました。そこで2年強、体験したことが組織や人事を考える原点になりました。いくつもあるエピソードの中に「おにぎり事件」というものがあります。
大使館は通常、土・日曜が閉館なんです。ただ、休みのあいだも何が起きるか分かりませんから、365日24時間、誰かが必ず大使館にいなくてはいけない。私は24歳から27歳まで在籍したのですが、最年少で独身でしたから土日の当番をたくさんやりました。実際にはハイジャックが1回と運河で遺体が上がったから見に行ったというぐらいで、あまり大した事案の対応はしませんでしたが(会場笑)。
そんなある休館日、大使館におりましたら警備のモニターに上品そうな中高年の老夫婦が映ったのです。一生懸命扉を開けようとしています。普通の方でしたから扉を開けて砂利道を歩いていきました。ちなみに大使館というのは建物から外の扉まで必ず玉砂利が敷き詰められています。音で侵入者が分かるようにするためです。じゃりじゃりと音を立てながら歩いていくと、奥様のほうはへなへなとその場に座りこんでしまいました。アムステルダムで盗難に遭ってパスポートとお財布を盗まれ、どうしたらいいか分からず、ポケットにあったお金でなんとか大使館までたどり着いたというのです。
扉を開けて中にお迎えて、応接室にお通ししました。お昼時でしたからおにぎりとお茶もお出ししました。元ウェイターですし(会場笑)。少し落ち着いたようです。海外でートを紛失したような場合には外務省本庁に身元を紹介し、問題なければ、旅行の継続こそ難しいのですが帰国することはできるのです。幸い飛行機のチケットはホテルのセーフティ・ボックスに入れてあった。
次の週に娘さんの結婚式があるので絶対に帰らなければならないそうです。そこで、上司に電話をして「こういう方がいます。身元照会の電報を打っていいですか?」と聞いたら「ああ、勝手にしたら」と。これは想定内です。必ずそう言われます。当時の上司は基本的には仕事を部下任せだった。
ただ、職制上は上司ですから身分照会があれば確認を取らなければいけません。それで、先ほどの答えが返ってきたというわけです。そして、電報を打ち、2時間半ぐらいで「問題なし」という確認が取れました。翌日、私の車でお2人を空港にお送りして「良かったですね」ということになりました。
翌週の大使館会議でアジェンダに「賞罰」と書いてありました。「あっ、先日のことで表彰されるのかな」なんて、また世の中を舐めた感じで思っていたのですが「懲罰、柴田励司」と言われたんです。「ええっ、どうしてですか!?」と聞くと、「なぜ休日に民間人を大使館内に入れたのだ?」と。もし敵国のスパイだったらどうするのかということらしい。さらに、「なぜ、おにぎりを出したのだ?」と。昼時だったからと答えると、「では5000人が来た場合でも出せるのか?」と。出せるわけがありません。公務員の世界では再現性のないことをしてはいけない決まりなのです。
3つ目の理由が傑作でした。「なぜ、勝手に電報を打ったんだ?」と。「えっ?」と思って上司の方を見たら、「そうですよね、大使」などと言っている(会場笑)。完全にハシゴを外されて人生初の始末書です。当時25歳だった私はもうハラワタが煮えくり返りまして、会議後に高官全員の部屋に行き、「先ほどの件ですが、私のやったことは本当に間違っていましたか?」と聞いて回ったのです。すると皆が「いや、柴田は素晴らしいことをしたよなあ」と言う。大使にいたっては紅茶まで出してくれて、「柴田君は良いことをしたね」と言う。「さっきまでは皆でしかめっ面をしていたのに何なんだ?」と思いました(会場笑)。
組織の決定が個人の判断とずれている状態はダメですよね。完全に組織の問題だと感じました。実は、そんな経験から組織や人事に関心を持ち初めて、いろいろと勉強を始めたというわけです。オランダ大使館での2年はいろいろな意味で私の原点になりました。
京王プラザに復帰、バブル期の夜フロントに立つ
その後、京王プラザホテルに復職しました。復帰する時、「柴田君は何をしたいですか?」と聞かれたので「オランダと東京は時差が8時間あるので、時差を感じない仕事でお願いします」と冗談で言いましたら、夜勤の部署に配属されました(会場笑)。
夕方5時に出勤して翌朝11時までです。バブル期の夜のフロントです。新宿という土地柄もあって、ありとあらゆる方々と“対決”する日々でした。私は現場で発生するトラブルを収める仕事を担当していました。満室で怒るお客様に対応するといった仕事です。
ホテルには「完全満室」と「満室」という2つの表現があります。完全満室というのは本当に空きがない状態です。それに対して「満室」は部屋を少しとってあるんです。ある日の深夜0時半ころ、「満室」のところにお客様がフロントに来られたのです。一目でその筋の方と分かる風貌です。両脇にはミンクのコートを着たお姉さん連れです。そして、独特なセカンドバッグをぐわっと開けて札束を出し、「兄ちゃん、スイート」とおっしゃる。「満室」ということになっていますのでフロントがお断りしたところ、やはり怒り出しました。そこからが私の出番です。「満室でありまして、大変申し訳ありません」と言うと、ロビーのソファーに座って待ち始めたのです。「お前、もしも誰かを入れたらただじゃおかないぞ」と。
そういう時に限ってVIPがいらっしゃるんです。しかも少し酔っ払って。お得意様がいらして「柴田君、悪いね突然に」と。「あ、その言葉はダメ」と思いながら(会場笑)。「今日空いてる?」と仰るので「あ、その表現もダメ」と思いつつ(笑)。年間数百万円ぐらい落としてくれる方ですから断れない。隠すようにして鍵をお渡ししました。
すると、例の方が走ってきて「今、客を入れたじゃねえか!」と怒鳴ってきました。フロントの代理石のペン立てをつかんで至近距離から投げてきたのです。当時は若かったのでさっと避けたら、横にあるディスプレイに当たって壊れてしまいました。「器物破損ですよ」と言うと逃げていきました。
翌朝、壊れたディスプレイを持って支配人の所へ報告に行きました。「投げてきた物を持って来い」と言うので「これです」と見せると「うーん、これは四角くて重いなあ」「そうですね」「じゃあ丸くて軽いのにしよう。当たってもケガしないから」と・・・。そうじゃなくて、そういう客層の方が来る状態がまずいんですが(会場笑)。
当時の職場はちょっとズレていました。なぜかというと、当時の京王プラザホテルで働いていた管理職の方々は、そのほとんどが親会社の電鉄から来ていたんですね。その人たちにしてみれば、まあ大過なく自分の勤務を終えることができれば良いというスタンスなんです。
良い人たちなんですが、とにかく事を荒立てたりしたくないし、改革もしたくない。「これではいかん」と、いろいろなところで話をしました。夜勤は午前4時半から午前6時半ぐらいまでは暇ですから、その間に「人事の仕組みがおかしいよね」とか、いろいろな問題点について話していました。ある日、闇夜で私を手招きする人がいるのです。行ってみたら組合の委員長でした。「お前、そんなに文句があるなら組合に来い」と言う。「分かりました、行きます」と即答しました。
正論では人は動かないことを組合活動で学ぶ
組合の団体交渉に出て「賃金はいいですから人事制度をホテルで働く人向けにしてくれ」と言ったら、また私を呼ぶ人がいた。社長でした。「お前、そんなに言うならちょっと人事をやってみろ」と。「分かりました」と言って受けたんですが、人事にいながら組合の役員でもあるという不思議な状況で、人事制度を見直していくことになりました。
これが大変でした。私の提案は3回もボツになり、一緒に進めていた上司も次々に飛ばされていく。総論賛成でも、最終的には決議されないんです。私が提案したことは「ホテルのプロパーが管理職になれる制度にしてほしい」という、ただそれだけです。でもそれが通らない。
3回目にボツになった時にはさすがの私も頭にきて、しばらくグレていました。勤務は5時半に終わるのですが、5時29分ぐらいからタイムカードの前をうろうろして、30分になった瞬間にタイムカードを押して帰る。そんな毎日でした。夜が暇になったので、中小企業診断士の資格を取得したり、水泳のバタフライを覚えてみたり、有意義な時間を過ごしていました(笑)。
ところが、ある日のこと、「柴田、(人事改訂を)もう一度やるぞ。大事なことだから」と、ホテルのプロパー1期生だった部長が言うのです。3回目の答申案と同じものを提出したら、あっという間に通ってしまった。「え、どうして?」となりますよね。前回まで反対した人たちが全員、賛成に回ったのです。
後で部長に話を聞いて「なるほどな」と思いました。意思決定の場にいたほぼ全員が親会社からの出向組で、プロパーが上に上がれる制度はその人たちに「帰ってください」と言っているに等しい制度だったのです。総論としては賛成でも「俺が帰るのは嫌だ」ということで進まなかった。そこで部長がやったことは、親会社の人事部門と社長にかけ合って全員の今後のキャリアをはっきりさせてきた。そうしたら、あっという間に通ってしまった。
その時に思いました。正論が抵抗にあって通らない時は、その裏に何らかの事情がある。それを理解せずに正論を繰り返しても物事は動かないのです。
そんなこんなで、人事・制度改革を世の中のためにもっと幅広くやろうと思い、1995年にマーサー・ヒューマン・リソース・コンサルティング(現マーサージャパン:以下、マーサー)に入社しました。
入社して驚いたのは、開業以来17年間も赤字が続いていて累積欠損がものすごく膨らんでいたことです。社員の一人ひとりは優秀なのです。政府の委員をやっていたり、企業の顧問をやっていたりする人もいました。しかし、せっかくのナレッジがシェアされていなかったし、人材も育成できていなかった。組織として動けていなかった。当時の社長にそう話すと「その通りだ。ではどうしたらいい?」と聞かれて皆でレクリエーションをやろうということでボーリング大会を企画しました。そんなところからです。
お客さまと特定の仕事の話はできても、それ以外の交流ができない。「これはまずい」と思いましたね。人間性もきちんと見ていかないと、いかにスキルがあってもダメだと強く感じました。当時の社長にも相談して、1人で何億円も稼ぐ人でも人間性・社会性が欠落しているようなら“お引き取り”いただくことにしたのです。
リーダーに不可欠な10の要素とは?
少しまとめましょう。
「Inputの重要性」については冒頭でお話ししました。
「判断と組織行動が一致していなければいけない」ということは、オランダ大使館の例でお伝えしました。
「抵抗勢力には事情がある」ということはホテルの例でお伝えしました。
「人間力が重要」ということはマーサーの時のお話でいたしました。
「社長は偉くない。飲み会の幹事みたいなもの」という点については、自分が社長をやって失敗した例を添えてお話ししました。
「誰かにとっての合理性は誰かにとっての不合理」ということはマーサー時代にグローバルで動いていたときに感じたことです。
「組織を伸ばすも潰すもトップ次第」ということは自分が辞める時のお話でした。
「人を信じ、人を生かす」というのは企業再建に取り組んだ際の体験からです。
「動かそうと思ったらまずは聞く」というのはCCCの例でお伝えしました。
「あの人と一緒に働きたい」と思われることが重要というお話を最後にさせていただきました。
これら10の要素がリーダーには不可欠なのではないかと思います。ご静聴、まことにありがとうございました(会場拍手)。
社長は偉い人じゃない、宴会の幹事みたいなもの
しばらくは信用されませんでしたが、半年も経つと社員の側に変化が見えてきました。自分自身も楽になりましたし、全体が見えるようになってきました。以前は会議という会議にすべて出て片端から仕切っていましたが、一歩引いて見ていると「彼はかなり伸びてきたなあ」とか「この視点が落ちているなあ」というのが見えるようになるんです。
自分の時間を持つこともできるようになったので、社外でもいろいろな役職を経験していきました。経済同友会で幹事を務め始めたのが40歳の時です。長野県では田中(康夫:元長野県知事)さんの県政第一期で行政機構改革審議委員を務めました。総務省や厚生労働省関係の委員、在日アメリカ商工会議所では人事委員会の委員長、パロマ事件では第三者委員会の副委員長を務めました。いろいろなことができるし、時間も有効に使える。「これはいい!」と思い、以降はこのスタイルでやろうと決めました。
「瞬間湯沸かし器」と呼ばれ、「俺の言った通りやれ」という人格だった私が、ある時期からそれを止めて、「こんな社長が理想だな」というイメージを持って、それを演じるうちに、次第に楽になっていったのです。仮に何かで失敗しても「このパターンはだめなんだな。じゃあ次はこれでいこう」と前向きに切り替えることができるようになった。そして、現在に至っています。
それを通して気づいたのは「社長とは偉い人のことじゃない」ということでした。社長は“Iworkforyou.”でなければダメなのです。リーダーというのは宴会や飲み会の幹事と同じなのです。飲み会をやろうと言って日時を決める瞬間から揉め始めますよね。「来週の木曜7時」と言った時点で「え〜」という人が必ず出てきます。「会費は5000円」と言った瞬間に「もっと豪華にやろう!」と言う人と「高すぎる!」と言う人が出てきます。幹事さんは「まあまあ」と収め、なんとか「来週の木曜7時で会費5000円」という方向にまとめていきます。
宴会当日に突然来ない人が出てくると困るので、必ず来てもらえるようにリマインドする。コース料理で予約しているのに勝手に追加オーダーをする人が出てくるので改めて説明する。セクハラをしている人がいたらこれも抑える。吐いている人がいたら介抱します。宴会が無事終わると「いやあ今日は楽しかった。また幹事頼むよ」と言われる。
こういうのがリーダーの仕事なのです。そして、こういうリーダーはすごく素敵だと私は思います。偉いとか偉くないとかいう話ではないんです。大変だから給料は少しばかり高いかもしれませんが、「偉い」というのとは違う。
マーサーの話に戻りましょう。私はその後、2005年にアジア・パシフィックの組織人事コンサルティング部門の副代表になり、併せてグローバル・リーダーシップ・チームというマーサーの執行役員的な役割も担うようになりました。当時は東京、シンガポール、ニューヨークの3カ所にオフィスがあったようなもので、空の旅ばかりでした。アジア・パシフィックというのは、ニュージランドからインドまでカバーするので大変です。移動だけで1年の2カ月ぐらいを使ってしまう。
グローバル・リーダーシップ・チームには私を含めてアジア人が2人しかいませんでした。中国人のリーダーと私だけです。周りがほとんど日本人以外という環境で仕事をして「グローバル企業で働くというのはこういうことか」と体感しました。一番のチャレンジは「アメリカなるもの」との戦いでした。
「アメリカなるもの」との戦い
「合理的に考えるとこうだね」という表現を皆さんもよく使うと思います。しかしこの言葉、実はすごく危険なのです。こちら側から見ると合理的でも、反対側から見ると大変非合理、不合理というケースはたくさんあります。だから戦争が絶えないのです。アメリカなるものというのは、「合理的に考えるとこうなる。言うことを聞かないのなら潰す」という考え方です。これでは皆が嫌がって動かなくなり、いくら議論をしても前に進まなくなります。「これではいかん。皆がきちんと納得できるものをやらなくてはいけない」と思うようになりました。
印象的な話があります。当時のマーサーは世界40カ国でコンサルティング・サービスを提供していて、基本的にはアメリカやヨーロッパ、あるいは日本といったジオグラフィー・ドリブン(地域単位)でやっていました。ところがある時、親会社の方針が変わりました。当時のクライアントリストを調べた結果、ベスト100のほとんどがアメリカの多国籍企業で「それならアメリカ多国籍企業のためにベストチームを作るのが合理的だ」という話になり、プロフェッショナル・ドリブン(専門単位)にがらっと変えたのです。地域単位からみると組織は横串の体制になっていきました。
それまで私は、日本の社長として全ての部門のリポートを皆から受けていました。それがある時を境に、年金部門の人はシカゴにいる人間にリポートし、私にはドッテッド・リポート(注:DottedReport。直接の指揮系統ではない補助的なリポートラインのこと)となったのです。退職金部門の人は香港の人間にリポートし、私にはドッテッド・リポート。組織人事コンサルティングは私がアジアの副代表なので私に直接リポートする…。
その提案が出たとき、パートナーミーティングで私は反対しました。これはアメリカを中心とした地域では良くても、特にアジアや南米、東ヨーロッパでは無理だと言いました。なにしろ、それらの地域では、多国籍企業の子会社がそんなふうになっていませんから。当然、日本も無理です。無駄が多いからやめたほうがいいと主張したのです。すると、「それならReijiはそのトランジションチームに入ってくれ」と、逆のことを言われてしまった。結局、私を含めた5人で世界中の縦串を横串に切り替えるという使命を帯びてしまったのです。
私はその中のアジア代表として様々な地域へ説明に回りました。インドネシアの地域リーダーに全社方針を伝えたときの話です。「これまではローカル中心にやってきたが、これからはアメリカの、つまり本社が考えるベスト100のクライアント中心にベストチームを組む」という話をしました。するとインドネシアのリーダーが「Reiji、インドネシアのクライアントリストを見てみろ」と言う。1位から50位ぐらいまでのほとんどがローカル企業です。第1位でも受注額は日本円にしてだいたい年間300万円ぐらい。それでも現地ではお得意様でした。
一方、グローバル企業は50位ぐらいでした。日本円にしたら5000円ぐらいです。「Reijiは5000円の顧客のためにベストチームを出し、300万の顧客のためにはセカンダリーを出せと言うのか」と問い詰められました。アメリカ本社の方針ではその通りなのです。しかし、インドネシアの視点からは違う見解になる。「これはいかんなあ」と思いました。誰かにとって合理的なことは、ほかの誰かにとっては不合理であるということを考えながら仕事をしなければいけないと思います。その頃、シカゴ大学の先生とお話をする機会があり「パラドックス・シンキング」という考え方を教えていただきました。これは、日本で言えば“三方一両損”のようなもので、“ConstructiveCompromising”、建設的妥協をしていかないと、物事はなかなか進まないというお話です。
「6年以上トップを続けてやらない」を自ら実践
そして、2007年3月にマーサーの社長を辞任しました。不祥事を起こしたわけではありません。私の社長在任期間に売り上げは9倍、人員も6倍に急成長したのでクビにされる理由はありませんでした。むしろ、「辞めなくてはいけない」という強い思いで辞めました。
私の専門は組織の活性化です。世界中のいろいろな組織を診断し、コンサルティングすることをプロとしてやってきました。「組織の動きが遅い」「意見が出ない」「決まったことが進まない」など、組織が停滞している時、調べてみると100社中99社が同じ原因を抱えている。それは、1人の人間が長くトップをやり過ぎていることです。1人の人間が長くトップを続けていると、組織は少しずつ、お客様ではなくトップを見て仕事をするようになります。これは構造的な問題です。トップの人格の問題ではありません。どうしてもそうなってしまうものなのです。
トップと部下の関係というのは、今日の私と皆さんのような関係でして、私からは皆さんの顔が見えます。ですから「あの辺の人はお腹が空いているのかな」なんていうことも分かる。ところが部門の人間は特定の方向しか見えないのです。そうした状態で部門の人が良かれと思って一生懸命に提案しても、トップの側も良かれと思って「あれ?これはどうなってるの?ここに気付いてないね」と言ってしまう。互いに良かれと思ってはいるのですが、言われた側からすると「それなら最初に言ってくださいよ」ということになってしまう。後でひっくり返されてしまうことを避けるため、最初にトップの意向を聞いてから仕事するようになる。そうやって、主体的な第一歩が踏み出せないようになっていくのです。皆、ほぼ必ずそうなります。
ですから、私はいろいろな企業で「6年以上トップをやってはいけません」と言っていました。同じ人間が6年以上トップを続けている企業に停滞の傾向が著しく表れることが分かっていました。ところが、そんな話をして回っている私自身が7年もトップをやっていたのです。同じような問題がマーサーでも起きていました。それで「これはいかん」と思って辞めることにしました。辞めるのはかなり大変でした。細かい経緯は割愛しますが、6〜8カ月かけてなんとか周囲を説得しました。
困ったのは後任のことです。当時の私はかなり怪しい日程で東京とニューヨークを行ったり来たりしていたので、役員連中もさすがに不審に思って「柴田さんどうしたんですか?」と聞いてきた。さすがに役員には言わなければと思い、今期限りで辞めるという話をしました。そのうちの3人は「それは残念ですね」と言いつつ、「次は私だ」と顔に書いてありました。
その3人は人格、力量ともに申し分ない人材でした。3人とも社長を務めることはできます。現在、主な人事コンサルティング会社でトップを務めている人間を集めると当時のマーサーで部門長を務めていたメンバーになると言っていいほど人材が揃っていました。ただし、その3人から1人を選ぶと残りの2人は辞めるだろうとも思いました。コンサルティング会社はそういった分裂を繰り返すことが多いのです。ですから「それはいかん」と思って、一人ひとりと話をしてみたのです。
「私が辞めた後、あなたが後任になったとして、あなた自身の後任は誰にしますか?」と聞いてみました。リーダーは常に自分の後任を誰にするのかを考えておくのが鉄則です。そうしたら3人とも同じ人間を選びました。それが現社長の古森剛さんです。
どん底企業の立て直しに挑戦
私は古森さんと朝食をご一緒しました。当時の古森さんはちょうど私が社長になったのと同じ38歳でした。若い方ですから私自身が仕事を一緒にしたことはほとんどありません。「どこかの企業に説明に行った時、この辺にいたな」というようなことを覚えている程度でした。ただ、日本生命とマッキンゼー・アンド・カンパニーへ経てマーサーに入社したというキャリアの持ち主で、力量があります。
朝飯を食べながら「僕は辞めようと思う」と話したら、彼は「ああそうですか、そうじゃないかと思っていました」と食べ続けている。「次をお願いしたいのだけけど」と続けたら「分かりました。明日ですか?明後日ですか?」と言う。この人なら大丈夫だと思い、自信を持って彼にお願いすることにしました。
その後の全社会議で「実はこういう理由で、この3月を以て退任します」という話をしたら、会場には「ええっ?」という何とも言えない空気が流れました。次に「後任は古森さんに」と言ったら今度は「ええっ!」となった。古森さんは平社員だったんです。その平社員がいきなり社長になるというので、皆が驚いて一斉に古森さんを見ました。その時点で私のことは完全に忘れ去られていましたね(会場笑)。「これはオーケーだ」と思いました。その時学びました。何か事件が起きても、その後にもっと大きな出来事が起こると人は前の問題を相対的に忘れるということです(会場笑)。
「次は私だ」と思っていた人もいましたが、自分が推薦した手前、ここで文句を言うと男が廃る(または女が廃る)ので言い出せない。結局、しっかりサポートしてくれました。私が辞任した後にファームがガタガタすることはありませんでした。組織を伸ばすも潰すもトップ次第。辞める日は自分で決めなければなりません。
次は雇われ経営者としてやっていこうと思っていました。数えてみたら、ちょうど100社のコンサルティングをやってました。大手の日本企業かグローバル企業の子会社、あるいは大型の地方公共団体でした。大組織ですから課題はあるものの、お金はあるし人材もいる。しかし、そのほか多くの組織にはお金もなければ人材もいない。問題を抱えながら、なんとか成長しようと頑張っている。「そういう企業のお手伝いができなければプロとは言えないのではないか?」という気持ちが私にはあり、「できるだけ酷い状態の所に行ってみよう」と思っていました。本当にありがたいことに、「マーサーを辞めます」ということをオープンにしたら12社からオファーをいただきました。ところがすべて大手企業かコンサル会社だったので、「少し違うな」という気持ちがあったのです。
そんな時、シンガポール大使館のランチョンパーティであるファンドの社長とお会いしました。某都市銀行の元常務で以前からよく存じ上げている方で、私の退任と転身先の話になったのです。できるだけ酷い状態の会社の立て直しに力を注いでみたいと思いの丈をお話ししました。すると、その夜に携帯に電話がかかってきました。「酷いところに行きたいって言ってたよね?それなら耳寄りの話がありますよ」と言うのです(会場笑)。紹介されたのがキャドセンターです。
大きな仕事で穴を開け、負債を抱えて倒産したという話でした。CG(コンピューター・グラフィックス)で建物の設計図を描いている会社です。六本木ヒルズなどの受注実績があり、技術的には世界有数のレベルだと言います。ファンドとしては技術力を見込んで投資したと聞いていたのですが、実際に行ってみるとどうも気配が違う。調べると、上場させようとしてかなり無理をさせていたことが分かりました。この会場の皆さんの中にはインターネット系ベンチャーを立ち上げて上場させようと考えている方もいると思います。ただし、上場基準をクリアするためには売り上げがある程度伸びていなければなりません。
しかし、CG制作という労働集約的な仕事の売り上げは一次関数的にしか伸びません。伸ばすためには大量に人を投入しなければならないのですが、なかなかうまくいかない。それでも伸ばせということで、さらにとんでもない無茶を重ねていたのです。
(注:会場ではさらに詳細に語っていただきましたが、ご講演者のご希望により本記事では非公開とします)
「責任の追及」と「原因の追及」をきっぱり分ける
そんな所に乗り込んだのですから「ええっ!」という感じでした(笑)。すべて明るみになった末の幹部会はそれはもう酷いものでした。泣く人がいれば叫ぶ人もいました。オーナーは腕組みして黙り込んでいる。とにかく腹を割って話すしかないと考えて合宿を企画しました。その時の映像があるので見ていただきますが、念頭に置いたのは「負の資産」を徹底的に排除することです。そして、誰の責任も問わないということにしました。
こうした場合、「責任の追及」と「原因の追及」が混同されることが多いのですが、責任の追求が前面に来ると原因の追及が進みません。ですから誰の責任も問わないことにしました。とにかく原因を追及して徹底的に直すという方針で進めました。
本業がダメになった企業が、ほかの事業に手を出してさらにダメになり、泥沼にはまっていくというのはよくある話です。そこから抜け出して「選択と集中をしよう」ということになりました。ただし、私のようなコンサル上がりの外部の人間が入って来て、何やら経営分析をして、「では、7つの事業のうち4つを止めましょう」なんていうやり方は単に“やらされる”だけです。皆で議論しなければいけない。そのための合宿でした。そのときの様子を少しご覧ください。
<ビデオ上映>
本当はこの合宿に全社員を呼びたかった。東京と大阪で合わせて約120人、上海にも約80人がいました。結果的には幹部だけになりましたが、合宿の内容はできるだけ早くリアルに共有したかった。それには映像しかないと考えたんです。議事録やテキストでは限界がある。元々こういう映像を制作している会社ですから「柴田さん分かりました。じゃあ僕が作ります」と言うスタッフがいて、音楽まで入れて作ってくれたものです。
お金もない、成算もない、それでも社員を信じて社員を生かすしかないということでやっていったら、14カ月で単年度黒字に復活しました。借金も普通の会社の水準までに減らせました。それで「私の仕事はここまでだな」と。私の仕事は「マイナスをゼロにする」ところまで。それをプラスにしていくのは、CGが大好きで、この世界で生きてきた人がやったほうが良いと思ったのです。プロパーの方に社長の座を託し、私自身は辞めることにしました。
CCCでは100以上の関連会社を整理・統合
その後、カルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)に移りました。実は私がマーサーを辞める時、オファーをくださった12社の1つでした。以前、コンサルとして少し関わっていましたし、当時の副社長の方をよく存じ上げていたというご縁もありました。田坂広志さん(多摩大学大学院教授)と1年間、社外取締役をやりました。
当時のCCCでは、足を運ぶ度に話がころころ変わっていました。「これは前回議論して結論を得たのでは?」ということをまた議論していたりする不思議な会社でした。その後、本当に苦しい状況になり、オーナーから「来てくれないか」と請われ、COO(最高執行責任者)を務めることになりました。
実は、キャドセンターでは「民事再生をやるしかないかなあ」と思っていたのですが、スポンサー無しでやると大変なことになるので、CCCのオーナーに頭を下げたところ、「いくらまでならいいよ」という承諾をいただけたのです。それで心に保険が生まれたので、強引にキャドセンターの仕事を進めることができました。「この恩義はいつか返さなくてはいけない」と思っていました。
CCCではずばり事業の整理・統合をやりました。最近、CCCはMBO(経営陣による企業買収)で話題になりましたが、私が参画した頃は、関連会社が100社以上もあってとてもできない状況でした。役員を全員集めて話を聞いてみても、TSUTAYAをやっている人はTSUTAYAのことだけ、T-カードをやっている人はT-カードのことだけを話していました。誰もCCCの全体像を議論しないのです。ブランディングやIT(情報技術)、あるいはオフィスの問題についても全体最適の議論ができませんでした。
私が言ったのは、「オールCCCのワンカンパニーにしなければいけない」ということです。3年はかかる作業ですが、「それでもやる」ということになりました。もちろん簡単な作業ではありませんでした。総論では皆が賛成なのです。しかし、100の会社を一つに統合するのですから99人の社長がいらなくなります。私のような外部から来た人間が「あなたはオーケー、あなたはダメ」なんて振り分けようとしても全く進みません。皆が自発的に進むようにしなければいけない。内発的動機に勝るものはないということです。この点は、コンサルタントと事業経営者の大きな違いです。両者は一見似ていますが、本質的に大きく違います。
コンサルタントは「1足す1は2です」と言うのが仕事ですが、経営者は「1足す1は?」と問いかけて部下に「2です」と言わせるのが仕事です。時には何も返事がない時もあります。「3ですよ」と返ってくる時もある。部下が「3」と言ったら、それを前提にして動き方を決めていくのが経営です。それがコンサルタントと経営者との違いです。
当時、私がやったことは対話に尽きます。ひたすら対話を続けて「皆と一緒に働きたい」と思ってもらえるような状況を作っていくことに力を注ぎました。「組織を動かそう」と思ってはいけません。まず「聞く」ことによって「動く」ようにしていく。まどろっこしように思えますが、その方が継続的につながっていく。無理矢理に力で動かそうとしてはいけません。動くようにするのです。
ちなみにマーサーでも「コミュニケーション・プラクティス」というものをやってました。これは世界中でコミュニケーションを円滑にするための原理原則を探すというものですが、その時発見したのが「LILIの原則」です。最初のLは「Listen」、次のIが「Inform」、その次のLが「Lead」、最後のIが「Involve」です。Involveは「巻き込み」です。巻き込もうと思ったらまずは聞くことから始めなければならないという話です。
「現在こういう課題があり、こうすることにしました。よろしくお願いします」とやると、「Inform」からスタートしていることになります。言った側と言われた側の関係になってしまうので主体性が生まれにくくなります。
「こういう課題があります。どうしたら良いでしょうか。皆さんのご意見を聞かせてください」と聞いたうえで、「では、こうします」とやっていくと主体性が生まれやすい。「1足す1は2です」と言わず、「1足す1は?」と聞くのです。そして、周りの人を元気にすること。「リーダーと一緒に仕事をすると元気になる」「一緒にやっていきたい」と思ってもらうことが不可欠なのです。