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リョータの激走

投稿日:2015/04/28更新日:2019/08/30

<p><img style="float: right; height: 266px; width: 400px;" src="https://chikenrokuglobis.s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/uploads/images/1433/4111.jpg?q=75&fm=webp" alt="4111" /></p>

<p>リョータの「激走」はいつから始まったのだろう。</p>

<p>その答えを知りたくて、リョータとサシ飲みをした。遠距離Skypeサシ飲みである。子どもの頃からの話を聞いた。</p>

<p>もともとは、大人しい子だったらしい。赤ん坊の頃から泣かなかった。幼児期も言葉が少なかった。発達障害ではないかと両親は心配した。</p>

<p>福島県の小学校に入学した。極度な引っ込み思案。周りに合わせることが苦手だった。</p>

<p>本は好きだった。科学の本、江戸川乱歩の少年探偵団シリーズ、そして何よりの宝物は「ドラえもん」シリーズだった。何をやってもダメな「のび太」に、リョータは自分の姿を重ね合わせた。4年生になったら自分の机からもドラえもんが出てくるに違いないと、リョータは期待した。</p>

<p>弟が、友達を自宅に連れてくることも多かった。リョータは顔を合わせることを避け、自分の周りに本を積み重ねてバリケードを作った。</p>

<p>リョータが中学校に上がる時、岩手県に転居した。中学校時代をリョータは、「オタク少年だった」と振り返る。ファミコンに熱中した。ドラゴンクエストに夢中になった。ゲームブックも好きだった。</p>

<p>「ゲームブック」とは、冒険的なストーリーを楽しむ本の一種だ。読者の選択によって、次に進むべきページが変わり、結末が変わっていく。</p>

<p>中学3年の時、リョータはふと思った。</p>

<p>「自分でゲームブックを作れるのではないか」</p>

<p>リョータはストーリーを作り始めた。ノートを1冊買って、手書きで文字を書き連ね、途中でシナリオを分岐させた。1冊目は簡単なものだった。そして次第に、複雑なものへ。中学時代に結局手書きで6冊ほどのゲームブックを書いた。中には、クラスメートの名前を登場人物として使い、似顔絵まで描いた。</p>

<p>クラスメートは喜んだ。リョータの創ったゲームブックを回し読みした。面白いと言ってくれた。</p>

<p><strong>リョータの最初の成功体験が生まれた。</strong></p>

<p>リョータは科学部に入った。当時MSXというパソコンが流行っていた。専門誌を買うと、簡単なゲームを自分で制作するためのプログラミングの方法が書いてあった。自分でそれを打ち込み、ゲームを作った。没頭した。</p>

<p>高校受験の季節になった。リョータの反抗期は絶頂に達していた。「高校に行くことなど、何の意味もない」とリョータは言って受験を拒否した。結局受験の3日前に翻意し、岩手県の県立高校を受けた。ギリギリの成績で滑り込んだ。</p>

<p>高校1年の春。厳しく生徒の学習状況を管理するのが、リョータの高校の教育方針だった。面白くなかった。全国模試を受けたところ、英語の偏差値は30だった。</p>

<p><strong>この頃が、リョータの人生の最初の分岐点だったのかもしれない。</strong></p>

<p>リョータはこう考えたという。</p>

<p>「このままダラダラと生活していたら、うだつの上がらない人生を生きることになるだろう」</p>

<p>このままではいけない。リョータの中に危機感が芽生えた。</p>

<p>高校1年の秋。ある定期テストで、リョータは良い成績を取った。それまで確実に下位50%に入っていたリョータが、学年で17番目の成績を取った。</p>

<p>「面白い」と思った。</p>

<p>それまで、生まれて一度も、「勉強」ということにモチベーションを感じたことがなかった。しかし、勉強をすると成績が上がり、それは気持ち良いことだと知った。「全力で勉強する」という道を選択したら、その先に広がるシナリオは意外と面白いかもしれないと思った。</p>

<p>リョータは目標を立てて、それを達成するという「ゲーム」を始めた。</p>

<p>リョータの激走が始まった。</p>

<p>高校1年の秋、英語の小テストでクラス1番になった。</p>

<p>次に、定期テストでクラス1番になった。</p>

<p>高校1年の冬、ついに定期テストで学年1番になった。</p>

<p>こんな面白いことがあるのかと、リョータは思った。熱中した。</p>

<p>高校2年。リョータはストップウォッチを持ち歩くようになった。一日の勉強の目標時間を決め、勉強時間はストップウォッチを進め、休み時間はそれを止めた。詳細な学習スケジュール表を作り、To-Doを書き込み、実行してそれを消しこんでいった。</p>

<p>高校3年。リョータは東大を受験することを決めた。リョータの高校の歴史上、東大に合格した人は一人もいなかった。だから挑戦してみようと思った。</p>

<p>高校2年から3年にかけて、リョータの記憶には、自分の机と学校の机、そして通学路の光景以外に何も残っていない。</p>

<p>高校3年の3月。リョータは受験に失敗した。しかしリョータは東大をあきらめなかった。</p>

<p>浪人1年目の4月。リョータは東京に来て駿台予備校の寮に入った。上昇志向の強い地方出身者が400名生活していた。この時の友人達が、リョータにさらなる「激走」をさせることになる。当時はそのことには気づかなかった。</p>

<p>1年後の3月、リョータは東大に合格した。</p>

<p>大学1年。リョータはダンスサークルに入った。当時テレビで「ダンス甲子園」を見て、カッコいいと思ったというシンプルな理由だった。毎日2~3時間はブレイクダンスの練習をしていた。「かっこいい」ことと「おもしろい」ことを、リョータは全力で追求した。</p>

<p>大学2年。リョータは金属工学を専攻することに決めた。大学院まで進み、半導体の製造プロセスを研究した。</p>

<p>大学院を卒業し、25才。リョータはNECに入社した。半導体技術者は厳しい人が多かった。一途に技術に打ち込むプロフェッショナル達。それを見て、「かっこいい」と思った。だからNECに就職した。</p>

<p>しかしNECなど国内の半導体メーカーの業績は、低落していった。リョータは次第に、自分のキャリアに危機感を覚え始めた。</p>

<p>34才(2009)。リョータはザインエレクトロニクスに転職した。当時、半導体ベンチャーとして株式公開を成し遂げた、数少ない日本企業の一つだった。市況にも関わらず、逆風を突いて伸びていく成長性に凄みを感じた。</p>

<p>しかし、「技術」だけでは不十分だと考えた。NECでは、優秀な半導体技術者が懸命に開発を進めていた。しかし経営は悪化した。技術だけではビジネスにつながらない。そう考えたリョータは35才(2010)の時、グロービス経営大学院に通い始めた。</p>

<p>海外でビジネスをできるようになりたい。そう考えたリョータは、全科目英語でクラス討議を行う、IMBA(International MBA)コースを受験した。入学前は全く英語は話せなかったが、リョータはなんとかなると、楽観していた。</p>

<p>そして2011年3月11日を迎えた。</p>

<p>彼が生まれた塩釜も、育った盛岡も、被害を受けた。親戚の暮らしている東松島、多賀城、山元町、南相馬。どこも大きな被害を受けた。東松島を訪れ、その光景にリョータ氏は衝撃を受けた。東京に戻ってグロービスの仲間にその光景を話した。涙を流しながら語った。</p>

<p>自分に何ができるだろうと、リョータは考えた。仕事を辞めてボランティアに行くことは、自分の道ではないと思った。自分には自分の人生がある。</p>

<p><strong>「自分にやれることを、やれるときにやろう」</strong></p>

<p>リョータの胸の内に、深い覚悟の火が宿った。</p>

<p>当時ザインエレクトロニクスに移ったものの、半導体業界の環境は厳しく、自分自身の仕事にも閉塞感を感じていた。リョータは精神的に弱っていた。</p>

<p>そんな悩みをTwitterで友人達に吐露し愚痴っていた。友人達は同情的だった。</p>

<p>(友人)「そうだよな、いろいろ業界的に難しいんだよな」<br />

(リョータ)「そうなんだよ、結構、いろいろ無理で、行き詰っているんだよね」</p>

<p>その時突然、予備校時代の寮の仲間だった小野裕史が強烈なメッセージを送ってきた。</p>

<p><img src="https://chikenrokuglobis.s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/uploads/images/1434/4203.jpg?q=75&fm=webp" alt="4203" /></p>

<p><strong>「学生時代からの友人としていう!最近のお前の言っていることはすべてくだらない!自責他力(起こったことはすべて自分の責任。いいことはすべて他人の力のおかげと感謝するという意味)が信条のN(共通の友人)が、お前は完全に『他責』になっていると言っている!俺も完全にアグリーだ!!!!」</strong></p>

<p>小野は起業家として経験を積んだ後に、VCファンドを立ち上げていた。しかも、ゴビ砂漠、北極圏、南極大陸など、様々な場所のウルトラマラソン(約1週間、約250km)を走っていた。</p>

<p>その小野が、Twitterでリョータに真剣に迫ってきた。</p>

<p><strong>「なんでお前はそんなんなっちまったんだ。自分の未来を変えるのは、自分しかいないんだぞ」</strong></p>

<p>他の友人がつぶやいた。「今年のサハラマラソンに挑戦したらどうだ」</p>

<p>リョータは絶句して画面を見つめた。</p>

<p>リョータは以前、小野がゴビ砂漠マラソンに行く前の壮行会に参加していた。その時の小野の熱いスピーチを思い出した。いつかは自分も、砂漠でのマラソンを走りたいと思っていた。</p>

<p>しかしその年のサハラマラソンは、3カ月後。そしてリョータは、それまで一度もマラソンを走ったことがない完全な素人だった。</p>

<p>日々の業務も忙しい。グロービス経営大学院での学習もハードな時期だった。にも関わらず、3カ月間で準備をできるのだろうか。</p>

<p>しかしこの、命がけの「無茶」をやり遂げたら、自分の人生の様々な困難も、突破できるかもしれない。そんな予感がした。</p>

<p><strong>リョータは決断した。3カ月後にサハラマラソンを走る。</strong></p>

<p>リョータはまずゴールを決めた。ゴールは、「完走」。スピードはいらない。10kgの荷物を背負って、ひたすらに走り続けるスタミナさえあればいい。リョータは時間を見つけて走るトレーニングを始めた。高校時代の勉強のように計画的にトレーニングを積んで、本番に挑んだ。</p>

<p>2011年10月、リョータは灼熱の砂漠を、走り始めた。</p>

<p>毎日、新しいマメが足指にできた。その豆が爪を下から持ち上げた。爪が剥がれないようにテープで固定したが、間断なく痛みが襲ってきた。</p>

<p>それでもリョータは走ることをやめなかった。</p>

<p>痛み止めのロキソニンを飲んで走り、また飲んでは走り、砂丘を登れば眼下に果てしなく続く美しい砂漠を見下ろし、夜はテントの外に出て寝袋に入り、美しい天の川を見あげ、世界各国の仲間たちと語り合った。</p>

<p>そしてリョータは完走した。</p>

<p>このマラソンから何を得たのかと、私は川崎のバーで酒を飲みながら、リョータに聞いたことがある。その時彼は、ボツリと言った。</p>

<p><strong>「やりゃあ、何でもできるっていうことっすかね」</strong></p>

<p>やれば、できる。</p>

<p>シンプルだが、強烈な信念がリョータに宿った。</p>

<p>2012年4月、ザインエレクトロニクスを退職した。</p>

<p>半導体市場の主戦場はアジアだ。であれば、アジアに行こうと思った。何のツテもなく、中国語も話せない。しかしいつしか、未経験の地に足を踏み入れることに対して、リョータは恐怖心を持たなくなっていた。</p>

<p>2015年4月、リョータは・・・山本良太氏は上海の半導体商社で働いている。顧客企業のニーズを聞き、それに合った半導体を世界中から仕入れて提供している。英語と中国語を使いながら仕事をしている。</p>

<p>サハラ砂漠に遠く広がっていた地平線。</p>

<p>その地平線を目指して走ったあの日のように。</p>

<p>リョータの激走はまだまだ続く。</p>

<p>(参考)<br />

山本良太氏のブログ(サハラマラソン完走記)<br />

小野裕史氏の講演録 <br />

小野裕史氏の講演動画(山本良太氏のことも紹介している)</p>

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