(2014年5月15日付け日経産業新聞の記事「VB経営AtoZ」を再掲載したものです)
日本のベンチャー業界には「20億円の壁」という言葉がある。ベンチャーのM&A(合併・買収)が案件数、金額の両面で米国などに比べて極めて貧弱であることを表したものだ。数千億円規模のM&Aが珍しくない米シリコンバレーと比べて、日本ではせいぜい20億円が限度という意味が込められている。
ベンチャーにとってのゴール(イグジット)には大きく新規株式公開(IPO)とM&Aの2つがある。日本ではIPOばかりに注目が集まりがちだが、M&Aはベンチャー・エコシステムを最速で回し、メガベンチャーを生み出すために不可欠な仕組みなのである。
たとえば、通信の米シスコシステムズ、ネット検索の米グーグルなどはもともとベンチャーだったが、成長の過程で新参のベンチャーを次々に買収し、メガベンチャーに急拡大した。
新参者の側も初めからメガベンチャーに高値で買収されることを狙って起業するケースが少なくない。一番の売り時に高値で事業を売却できれば、悠々自適の生活を送れるかもしれない。獲得した資金で別のベンチャーを立ち上げるシリアル・アントレプレナーとして活躍する道が開かれるかもしれない。そういう成功者の姿を目指して、我も我もと起業家が名乗りを上げる。それがシリコンバレーの活力の源だ。
一方、20億円の壁がある日本はM&Aが成立しにくい。起業家はIPOまでの細くて遠い一本道を進むしかない。ベンチャーキャピタルなどの支援が尽きれば、息絶えるベンチャーも出てくる。リビングデッド(生けるしかばね)の状態で安く買いたたかれる場合もある。これではリスクが大きすぎて、起業を決断できない。こんなところからも日米の起業マインドの差は広がっている。
20億円の壁を崩す切り札と考えられているのが、安倍晋三政権が推進しようとしている「のれん償却」における国際会計基準の適用促進および運用改善である。のれん代はM&A時の買収価額と純資産の差額。日本の会計基準では、これを資産として計上して最長20年で償却(費用計上)しなければならない。実態は5年が標準だ。これは海外にはない制度である。
純資産が極めて少ないスタートアップ企業を買収する場合、将来の成長性を高く評価して株価を算出すれば買収価額と純資産の差額が膨らむ。買収する側の償却負担は大きくなり、損益計算書と貸借対照表を毀損する。
例えば、新興市場に上場したベンチャーが後発の有望ベンチャーを買収するケースで、のれん代償却と損失計上が株価に悪影響を及ぼしかねない。こうした影響を出さないための限界値が「20億円」と言われている。
会計基準の見直しで、大企業や成長ベンチャーによる戦略的M&Aが活性化する可能性は高い。そうなれば日本のベンチャー・エコシステムは従来とは比較にならないスピードで回転し始めるだろう。その際に重要なのは、やはり成長ベンチャーを見分ける「眼」である。最良の相手と、最良の時に、最良の条件と価格でM&Aの合意をするためのノウハウを蓄積していく必要がある。その点では、シリコンバレー・ベンチャーを含めた海外勢に一日の長がある。