「この命、素晴らしいものに使わせたまえ」。その祈りが導きにつながる – 田坂広志×鈴木康友×堀義人

本記事は、G1中部2020「withコロナ時代の人間の生き方 - 危機において運気を引き寄せるリーダー 七つの心得 -」の内容を書き起こしたものです。(全2回 後編)

堀義人氏(以下、敬称略):田坂先生、有り難うございました。昨日お電話があり、急遽来て頂けると伺って、本当に嬉しく思っていました。こうして直接お話を聞くことができ、大変感謝しております。まずは鈴木康友市長にコメントを頂きたいと思います。

選考基準は「運と愛嬌や」。松下幸之助は笑顔で言った

鈴木康友氏(以下、敬称略):田坂先生が掲げていらっしゃる、「withコロナの時代はデュアルモード社会になる」というお話が素晴らしいコンセプトだと思っていまして、実は、今日はそのお話になるのかなと思っていました。それで来てみたら、これほど重いテーマを頂きまして。この30分、私も本当に心洗われる思いで聴いておりました。私も63年間生きてきて、自分の今までの人生を振り返りながら聴いておりまして、この30分はいろいろな「重ね合わせ」がございました。

別セッションでもお話ししましたが、私は松下政経塾の第1期生です。この松下政経塾は入塾にあたって試験が三つありまして、最後の試験は松下幸之助による面接でした。それで、松下さんは30分間、一回も視線を逸らさず、ずっと僕のほうを見ていろいろ聞くのですが、最後に、「鈴木君、君から何か質問はないか?」とおっしゃる。それで僕は咄嗟に、「塾長はどういう基準で塾生を採用するのですか?」と聞きました。

そうしたら松下さんは、そこで初めてニコニコっとして、「そりゃ君な、運と愛嬌や」とおっしゃったのです。そうして僕の履歴書を見て、「鈴木君、君はなかなか運が良さそうやな」とおっしゃるので、「あ、これは受かったかな」って(会場笑)。ただ、まだ22の子どもでしたから、塾長の言う「運」というものは、すごく深い意味があるのだろうなとは思っていたのですが、当時はよく分からなかったのです。でも、今日のお話を聞いて、本当にいろいろなことが整理できました。

私もこの63年間でいろいろな出来事がありました。選択を迫られたこともたくさんあります。でも、振り返ってみると、そのなかで一つも無駄なことはなかったなと、今は思います。企業さんで新商品開発のお仕事をさせて頂いたこともありますし、その後も民間でいろいろなお仕事をさせて頂きましたけれども、今はそのすべての経験が生きています。ですから、何か、そういう導きがあるのだろうなという風に思います。

また、今日、田坂先生のお話を拝聴していて一番強く思い出されたのは、僕の人生における最大の岐路になった、浜松市長選挙への出馬でございました。これ、地元で私の親代わりのような方であった、スズキの鈴木修会長に3回言われていたことなのです。当時の私は郵政選挙で浪人していて、「もう一度国政に戻って、政権交代を目指そう」と心に決めていたのですね。しかし、鈴木会長は「康友君、君は市長選に挑戦しろ」とおっしゃる。それで、僕は3回断ったんです。そうしたら、「そうか。君にそこまで断られるのなら、僕も政治から手を引くよ」とおっしゃいました。

ところが、翌朝6時に電話がかかってきた。それで妻が電話に出て、「やっちゃん、大変」と言う。「何?」「スズキの会長さんから電話」「ええ! 昨日断ったのにな」。1ヶ月ぐらいしてから会長に謝ろうと思っていたほどなんです。そう思っていたのに、電話で再び、「君、もう1回話をしよう。ついては君の奥さんも連れて来い」と言うのです。ですから、カミさんに「どうする?」と聞いたら、まさに先ほどのお話です。田坂先生の言葉そのまま。「やっちゃん。もうね、戦国時代じゃないんだから、命まで取られるわけじゃないんだから。そこまで言われたら、やったら?」と。その妻の一言で決断をしました。

そうして決断をして市長になった今は、もう二度と国政に戻る気はありません(会場笑)。本当に、市長をやってみて、今は「天職だな」というぐらいに思っています。これもやはり運命の決断だったと思うのですが、やはり「何か大きなものに導かれているな」と感じます。そこにスズキの会長がいたり、妻がいたり、いろいろな人に支えられ、さまざまことが重なって、いろいろな人の導きがあって、今の私があるのだと思います。そんな風に、非常に濃い30分のお話を通して、自分の63年の人生を振り返って感じていたところでございます。

それと、私もまだまだ道半ばではございますが、唯一、先生のお話で「僕に当てはまるな」と思うことがありました。僕は、年がら年中、生きてからこれまで、ずっとポジティブだったということがあります。とにかく、なんでもかんでも、「これはもうチャンスに変えよう」と。「このコロナだって浜松市にとって大チャンスだ」と、うちの職員の皆さんにも言っています。そんな風にして、リーダーからメッセージを発していくことが大事なのではないかなと思いました。まとなりのないコメントですが、そういった感想になります。

「この命、素晴らしいものに使わせたまえ」。その祈りが導きにつながる

堀:有り難うございます。では続いて、田坂先生にいろいろ質問をさせて頂きたいと思います。私が通っていた高校の校歌に、こういう一節がありました。

忠孝仁義の大道を
貫く至誠あるならば
天地も為に動きなん

この意味が、ずっと分からなかったのです。なぜ、「誠に至れば天地も為に動く」ことになるのか、長らく考え続けてきました。こうした言葉は、二宮尊徳や吉田松陰も口にしていますし、おそらく、その答えは今日の七つのお話のなかにあるよう思います。田坂先生は今日、「修行」という言葉も使っていらっしゃいましたが、「誠」という境地へ至るための修行について、「祈り」というお話の意味も含めて改めて伺いたいと思っています。

田坂広志氏(以下、敬称略):二つ、手短に申し上げます。先ほど申し上げた「祈る」というのは、私の修行でもあります。人間というのは毎日、朝起きれば生まれ変わっている。現実には、色々と嫌なことがあったり、様々な感情が生まれているとしても、毎朝起きるときというのは、生まれ変わる瞬間なのだと思っています。ですから、今は富士山麓の森の中に住んでいますので、朝の森の新鮮な空気のなかで富士に向かって祈っています。その祈りとは、天なり、神仏なり、あるいは「大いなるもの」と取引をするようなものではありません。「あれを、成功させたまえ」「これを、成就させたまえ」といったものではない。ただ無条件に「全託」。すべてを託し、「導きたまえ」。その結果、自分の期待と違うことが起きたとしても、「ああ、これが導きなのだ」と受け止め、その深い意味を考える。それが大切な修行の一つだと思っています。

そのうえで、もう一つ、さらに大切な修行があります。言葉にすれば簡単なことです。「感謝」ということ。若い頃は、その大切さが分からなかったのですが、歳を重ねて、その大切さが深く理解できるようになりました。特に、心に置いているのは、「感謝は、すべてを癒す」という言葉。これは、本当に真実です。何かトラブルがあって、その相手に対する怒りや批判的な気持ちが湧き上がったとき、「有り難うございます」と、むしろ感謝をする。相手が田中さんという方であれば、心のなかで「田中さん、有り難うございます」と無条件に唱える。その修行を、私はしています。

本来、人間の心というのは、「身心一如」、体と心は一つなのですね。そして、言葉とは体から生まれるものです。そして、この「身心一如」がゆえに、不思議なことに、ただ「有り難うございます」と口にするだけで、心がついてくるのです。これは、宗教の修行をなさっている方であれば、どなたもお分かりのことと思います。心というのは、それそのものを変えることがなかなかに難しいので、言葉から入る。ですから私は、仮に相手に対する批判的な思いがあったとしても、「田中さん、有り難うございます」と、心の中で、言葉を唱えます。すなわち、「感謝」とは、そのようにして天地一切のものと和解する「行」なのです。

実は、37年前に生死の狭間に投げ込まれ、私自身が最も苦しい状況にあったとき聞いた、ある宗教家の言葉が、今も心に残っています。
「天地一切と和解せよ。天地一切と和解するとき、天地の万物、何物も汝を害することは出来ぬ」。
この言葉には、苦境のとき、人間関係で苦しむとき、何度も救われました。心の中で、まず和解する。まず感謝する。そうするだけで、不思議なことに、自然に心が楽になるのです。そして、それだけでなく、これも不思議なことに、物事が良き方向に向かっていくのです。

堀:祈りと瞑想は同じものなのでしょうか。それとも違うものなのですか?

田坂:「瞑想」の大切さについては、いま、世の中でよく語られているのですが、一つ重要なことを申し上げると、瞑想とは「する」ものではないのです。瞑想とは「起こる」ものなのです。ある技法を実践したとき、ふっと瞑想的な状態がやってくるのです。
それにもかかわらず、現在の「瞑想ブーム」においては、瞑想を「する」という人為の考え方になりがちです。しかし、禅でも同じですが、無念無想になろうと思えば思うほど、雑念が生まれてきて、無念無想になれないという逆説に陥ってしまう。
もう一度申し上げますが、瞑想とは、ある心の状態になったとき、ふっと降りてくるものです。従って、私は「瞑想をする」という考え方をしません。むしろ、先ほども述べたように、人為を離れ、「全託」の気持ちで「導きたまえ」と祈ります。そのとき、瞑想的な状態が降りてくることがあります。従って、私は、「祈り」ということが、本来の意味で、「瞑想」という心の状態につながる修行であると思っています。

堀:祈りの結果として、到達するのが瞑想の状態である、と。

田坂:結果として、それが降りてくるのだと思います。

堀:その瞑想状態に到達するなかで、自分の思いが強ければ、それが皆に伝播し、集団がポジティブな想念に包まれていくということはあるのでしょうか。

田坂:そうですね。繰り返しになりますが、最もポジティブな想念とは、心の深いところで、すべてと調和し、和解している状態です。逆に言うと、何かトラブルが起きたとき、私は必ず「心のスキャニング」に入ります。何か自分の心の中に「結ぼれ」がないかを内観します。
例えば、職場で田中さんとの間でトラブルが起こったとき、自分の心を隅々までスキャニングしてみます。すると、田中さんの件とは直接関係のない、例えば、大学時代の友人の鈴木さんとのことで、心に「結ぼれ」があることに気づくことがあります。その場合には、まず、この鈴木さんと、心の中で「和解」していきます。

実は、心の世界というのは不思議なもので、この鈴木さんとの和解が、なぜか田中さんとの関係好転にもつながることがあるのです。これについて説明を始めたら3時間ほどかかってしまうのですが、心には、そうした不思議な世界があります。
従って、皆さんも、何かトラブルが起きたとき、自分の心の中に「結ぼれ」がないかをスキャニングすることを勧めます。すると、誰でも、必ず一つや二つは「結ぼれ」があります。その「結ぼれ」は、些細な場合、朝、道を歩いているときに人とぶつかって、「失礼な!」と不愉快に思ったことだったりもします。その場合も、そのぶつかった方と、心の中で和解の「行」に入るわけです。「今朝、道ですれ違った方、有り難うございます」と。こう述べると、宗教的な話に聞こえると思いますが、私の話は、あくまでも、心をポジティブな想念で満たすための、「心の技法」を述べているのです。

堀:「誠に至れば天地に」というところの「誠」というのは、祈りのあとに降りてくる瞑想状態的なものであり、そのポジティブな想念に包まれた状態であれば、周りの人も含めて「天地」が動くということであると、私は勝手に理解していました。誠に至ることによって、そうした力を大きくすることはできるものなのでしょうか。

田坂:ここで理解されるべきは、本日の講演でも述べた「使命」という言葉の意味です。我々は、誰もが、かけがえのない、この一回限りの人生を、この命を、何か良きことに使いたい。それを「使命」と呼ぶわけです。すなわち、「命を使う」と書いて「使命」。
そして、「いつ終わるか分からない、このかけがえのない命を、何に使うか。素晴らしいものに使わせたまえ」という、その「祈り」が、堀さんの言われる「誠」とつながるのだと思います。ただ、それがどれほどの大きな力になっていくのか。そこは、「導きたまえ」という一点の祈りだけで十分であると、私は思っています。逆に、そこで、「もっと、こういう大きな力を」と思いすぎると、その思いが「野心」になってしまう。むしろ、ただただ「この命、素晴らしいものに使わせたまえ」という祈りを持っていれば、不思議なほど導かれます。その使命感を抱き、人間としての修行を続けていくならば、ときが来たれば、必ずまた一つ、ステージが上がることが起きる。それは、期待しなくとも、自然に起こります。実は、堀さんの歩まれている姿そのものがそうではないかと、私は一人の知人として拝見しています。

堀:有り難うございます。では、会場からご質問を募りたいと思います。

集合的無意識を変えていく領域に、人類は足を踏み入れるのではないか

会場質問者A:「天とつながることが自身の宿命である」という死生観を持っていらっしゃる経営者には、ほかにどういった方がいらっしゃるとお感じでしょうか。

田坂:よくそういった質問を頂きますが、私は固有名詞で誰かの名前を申し上げることは控えるようにしています。私を含め、どなたといえども修行中の身であり、そこで誰かの名前を出した瞬間、そこに何かの神格化や幻想が生まれてしまいますので。逆に申し上げると、その経営者の名前を知ったとしても、いずれ我々の修行は変わりません。むしろ、自身の修行の課題に目を向け、そこに原点を置いて頂きたいと思います。

会場質問者B:修行とは自分と向き合うことと理解致しました。身近にいる大切な人が、なかなか自分と向き合えず苦戦しているとき、その人に何かしてあげられることはあるとお考えでしょうか。

田坂:ご質問者のお気持ちは分かります。ただ、今日の話の深みで言えば、誰かに何かをしてあげようとする前に、まず、自分の心を整えることです。自分の心が本当に調和し、その方に対する深い共感の思いが生まれたとき、その方に何をして差し上げるべきか、自然と「聞こえて」きます。
私のところにも色々な方が相談に来られますが、私はその会合の前に、必ず、心の中で、「この方に語るべきことを、語らせたまえ」と祈ることから始めています。それは、先ほど述べたように、瞑想的な状態になったとき、自然に声が「聞こえてくる」からです。従って、「こういう方には、こう語るべき」「こういう方には、こうしてあげるべき」というように、マニュアル的に論じられるものではありません。祈りの中で聞こえてきた声によっては、ときに、非常に温かい言葉をかけるときもあれば、なぜか、「今は厳しい言葉を申し上げるべきだ」と思うときもあります。
従って、今日の話の深みで言えば、ご質問者の問いは、人生相談的なご質問ではないと思いますので、まずはご自身の心を透明に整えることです。この方に何を言って差し上げるべきか、どのようにして差し上げるべきか。それは、深い祈りのなかに入ることができたら、自然に聞こえてきます。そして、仮に、その後の物事の展開が、良い方向に向かわないように見えても、その祈りが深ければ、必ず良き方向に転じていきます。

堀:最後に一つ質問をさせて頂きたいと思います。今回のコロナにはどのような意味があり、それを僕らリーダーはどのように捉えて行動していくべきでしょうか。

田坂:最後に、大変深い質問を頂きました。有り難いと思います。
いま、人類に与えられているコロナという逆境は、一人の個人に与えられる逆境と、その捉え方は基本的には同じです。いずれも、逆境とは、成長のために天が与えたものです。
ただ、個人に与えられる逆境については、それにどう処していくかは、比較的分かりやすいのです。なぜなら、我々は自分心の状態を、修行によって、ある程度変えることができるからです。しかし一方、人類に与えられる逆境については、人類全体の「集合的意識」、さらには「集合的無意識」が生み出しているものであり、この二つの意識を変えることは、それほど容易ではありません。個人であれば、「心を整えましょう」「和解しましょう」と言えますが、人類の集合的意識や集合的無意識の世界を変えていくというのは、極めて深く、難しいテーマとなります。

ただし、これは決して後ろ向きのことを申し上げているのではありません。
21世紀、我々はおそらく、その領域に足を踏み入れていくのだろうと思います。単に政治や経済をどうするか、社会や文化をどうするかということを超え、人々の心がどのような状態にあり、人類の意識がどのような状態にあるか、それを、どのようにして良き状態にしていけるかという領域ですね。
これは極めて大切なことですが、これまで、あまり大きく語られていませんでした。しかし、政治の究極の役割というのは、本当は、国民一人一人の心がどのような状態にあるのかを考え、それを良き状態に変えていくことなのです。政治の真の役割は、国民にとって、経済的に豊かな状態を実現するだけでなく、精神的に豊かな状態を実現していくことです。そのことを抜きにして、我々は、本当に良き社会を実現することはできないのですね。

堀:康友市長にも最後にコメントを頂きたいと思います。

「毎日1回、30年間唱え “素直な心の初段”になりなさい」(松下幸之助)

鈴木:今日は感無量でございます。「まだまだ修行をしていかなければいけないな」と。松下幸之助さんは、書には必ず「素直」と書いていました。僕らもよく言われていました。「素直な心になりなさい」と。そこで、「どうしたら素直な心になれるのですか?」と聞くと、「毎日1回唱えるということを、1万回繰り返しなさい」と。ということは、30年ですね。「それでようやく、“素直の初段”や」とおっしゃるのです。碁も1万回指すと初段になると言われています。「だから、本当に素直な心の初段になるなら、君は毎日“素直な心”を唱えるということを30年続けなさい」という、とても深いお言葉を頂いたことがあります。ですから、私は今も「素直」という書を掛けてあるのですが、なにかこう、先生の「祈り」というお話と、松下幸之助さんの「素直」というものが相通ずるなという感じが致しました。有り難うございました。

堀:では、これにて最後の全体会を終えたいと思います。田坂先生、鈴木市長、今日は本当に有り難うございました(会場拍手)。

RELATED CONTENTS