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「アート」を通して日本文化を世界へ!作家・原田マハが語る「大原美術館」の魅力とは?

投稿日:2020/07/27更新日:2023/07/18

本記事は、G1中国・四国2019「特別セッション」の内容を書き起こしたものです。(全2回 前編、後編はこちら   御立尚資氏(以下、敬称略):ようこそ岡山倉敷へ。今回、私自身は大原美術館の理事としてお話しします。皆さんもご存知かと思いますが、原田マハさんはもともと美術をご専門にしていて、森美術館設立時は準備室にいらっしゃいましたし、NYのMoMAに行っていらした時期もあります。キュレーターから大作家になられた方です。先ごろはその両面を合わせ、京都の清水寺で個人企画の美術展を開催され、私もそこで一緒にお話をさせていただいたりしています。そんな原田さんに、今日は大原美術館の魅力を語っていただきたいと思っていました。 大原美術館には2つほどユニークなところあります。まず、ご存知の方にとっては当たり前の話ですが、エル・グレコやモネを展示している美術館というイメージがある一方で、実はコレクションの幅が大変広いんですね。古代オリエントの美術もあれば、芹沢銈介等、日本におけるデザインの源流となるような民芸の方々の作品も工芸館が所蔵しています。また、本館および分館ができたのは1930年ですが、MoMAは1929年。西洋近代美術を美術館として展示しはじめたのはアメリカとほとんど同じタイミングなんです。当然、日本で最初に出来たわけですが、そのときからいろいろなものをきちんと集めていました。 たとえばモネの作品もご本人から直接買ってきているんですね。常にコンテンポラリーな作品を、現代に至るまで買い続けています。また、若手作家さん向けにアーティスト・イン・レジデンスと呼ばれるプログラムも実施して、大原美術館が所有するアトリエに滞在していただき、そこで描かれた作品を買い上げています。とにかく、現代のものまですべてあるんです。昨日、大原美術館が好きだという方に「どういうところがお好きなんですか?」と聞いてみたら、「系統立ててものを見ていて、しかもそのなかに駄作がない美術館というのは、ここ以外にはひとつもないんです」と。「古いものから現代のものまですべてあるのはここだけです」とおっしゃっていまいた。その幅の広さをぜひ楽しんでいただければと思います。 もう1つ。大原美術館は、実は地域経営とも深く関わっています。もともと大原孫三郎さんという方が1930年につくった美術館で、工芸館は1961年から63年のあいだにできたんですが、孫三郎さんは美術館だけをやっていたわけではないんです。労働組合をつくってもらうための労働科学研究所、農業研究所、おそらく日本で最も古い保育園、そして倉敷中央病院等もつくってきました。この地域を企業の城下町のようにしよう、と。もともと天領だった土地ですし、城主様のようにするのでなく、「仲間として皆を幸せにするには文化も必要だね」と。その1つとして美術館をつくりました。そもそも、最初はこの地域の河川を整備して水害をなくすための連合をつくるという地域経営からはじめているんですね。そうした地域経営の1つが美術館なのですが、この幅広さがなかなか伝わらない。では、難しい話はこれぐらいにしてマハさんのお話を聞きたいと思います。マハさんは大原美術館とどのような関わりを持っていらして、どういうところがお好きなんでしょうか。

「ピカソ」がライバルだった子ども時代

原田マハ氏(以下、敬称略):それを話しだすと2時間ほどかかってしまうのですが(会場笑)、御立さんと同じく私も大原美術館には大変深い縁をいただいて、実は応援大使というものをさせていただいています。2012年からですから、かれこれ7年務めていて、さまざまな講演会で私と大原美術館にまつわる出会い等のエピソードをお話しさせていただいています。また、私の著作の1つである『楽園のカンヴァス』という小説でも、1ページの1行目に大原美術館が出てきます。皆さんも訪れたらぜひご覧になっていただきたいのですが、19世紀末の象徴主義画家であるシャヴァンヌの作品があるんですね。非常に優れた作品を残している画家の、『幻想』という、タイトル通り幻想的で美しい作品です。その作品を文章で表現しました。「ここに、しらじらと青い空気をまとった一枚の絵がある」という表現で文章がはじまります。小説では大原美術館の監視員が主人公の1人になっていますが、とにかく、そんな風に私自身は非常に深い縁をいただいています。 そんな大原美術館との出会いを少しお話しさせてください。私は子どものころからアートが大好きでした。父は美術全集のセールスマンという面白い仕事をしていて、子どものころから手元に美術全集がありました。それでダ・ヴィンチの『モナ・リザ』を見て「うまいなあ」とか(会場笑)。そんな風に成長していたなか、父が単身赴任で2年ほど岡山に行っていた時期があります。で、ちょうどそのころ山陽新幹線が開通して、「岡山へ遊びに来い」と、家族皆で夏休みに岡山へ呼んでもらったことがあります。それで岡山に着いた私の顔を見た途端、父は「お前を連れて行きたいところがある」と言う。なんというか、子どもの心を捉えるのがすごくうまいタイプの父だったのですが、それで、もう自分の美術館に連れていくような感じで(会場笑)、めちゃくちゃ自慢げに連れて行かれたのが大原美術館でした。 御立:おいくつのときだったんですか? 原田:10歳のときです。それで私は「うわあ」となって。そのときのことははっきり覚えています。シャヴァンヌがあって、セガンティーニがあって、グレコの『受胎告知』があって。「なんて素晴らしい美術館なんだろう」って。もうウキウキしてスキップをするようにも館内を廻っていたのですが、ある1枚の絵の前でパタっと足が止まりました。「ちょっと待って。何これ?下手過ぎない?」という絵があったんです。それがピカソの『鳥籠』でした(会場笑)。もう、あまりにも下手過ぎて、衝撃を受けて。そのとき生意気にも私が思ったのは、「ちょっと待て。こんなに下手な絵がこんなに立派な美術館に展示してあるっていうことは、私の絵も将来展示されるっていうことだよね」と。ピカソに“その気”にさせられまして、以来ピカソがライバルになったという(会場笑)。 そののち、20歳ぐらいのときに京都市美術館でピカソの大回顧展がありまして、そこで初めて全作品を観ました。「ライバルのピカソが一体どんな絵を描いているのか観に行ってやろうじゃないか」と。それで行ってみたら、「え!?うまいじゃん」って(笑)。「天才じゃないか」と、やっと気が付きました。遅過ぎだと突っ込みたくなりますが、とにかく、そんな忘れられない出会いがありました。それで、いつか自分のクリエーションのなかでアートのことを書くときが来たら、「必ず大原美術館のことを書きたい」と。そう思い続けていました。 御立:なるほど。

小説『楽園のカンヴァス』で大原美術館を書く

原田:そうして幾星霜を経て作家になった私は、『楽園のカンヴァス』を書くと決めたとき、担当編集者とともに大原美術館へご挨拶に伺いました。そして当時理事長をされていた大原謙一郎さんと、館長の高階秀爾先生にお目にかかりました。高階先生は私が大変尊敬している美術史の権威でいらっしゃいます。そんな御二方にお目にかかって、「実は自分がこれから書く小説はミステリーなのですが、それに大原美術館を実名で登場させたいと思っています」とお話ししました。なぜなら、私はその小説に賭けていたから。「もしこれが面白く書けたら、ある種のツーリズムのようなものをつくることができるかもしれない」と。「本を読んだ人が『大原美術館って本当にあるんだ。行ってみようかな』という気持ちになっていただきたいので、どうか実名で書かせてください」と。 そんな風に申し上げたら大原謙一郎さんが「分かりました。ありがとうございます。では、ぜひ実名で出してください。それで、私はどの絵の前で死んだらいいんですか?」って(会場笑)。「すみません。理事長、それ、『ダ・ヴィンチ・コード』ですから」って(笑)。『モナ・リザ』の前でルーブル美術館館長が他殺体で見つかるところからはじまる、ダン・ブラウンさんという作家さんの物語ですが、どうもそれが頭におありだったみたいです。 で、高階先生にも「どうぞお書きください」と言っていただいたのですが、私はとにかく高階先生の大ファンだったので、「先生、実は私、夢があるんです」と。「この小説を書くために今からパリへ取材に行って、おそらく秋ぐらいから書きはじめます。そうして1年ほどかけて連載が完結したあと、また1年ほどかけて本にします。本になったあとは2年ほどして文庫になります。そのとき、文庫の解説を書いていただけませんか?」って。そうしたら高階先生が「分かりましたから早く書いてください」と(会場笑)。その段階では1文字も書いていなかったので。もう気持ちが先走ってしまって、なにかこう、先のほうを見ていたんですね。「絶対に高階先生に解説を書いていただこう」と思って。なんと、本当に嬉しいことに高階先生が解説を書いてくださっているんです。 御立:高階先生は西洋美術の大家ですが、もう1つ知られている顔があります。たとえば印象派と浮世絵で、日本とヨーロッパの関係がどのようにつくられていったかという研究で世界的に知られている先生なんですね。大原美術館の1つの特徴は、複数の分野が「実はつながっているのではないか」と考えるところ。それで、たとえば大原総一郎さんは自分より1つ下の児島虎次郎さんという画家を留学に出してあげて、「買ってきていいよ」と、いろいろな作品を集めたりしていました。ということで東西文化交流が裏テーマなんです。高階先生はそれをご自身の研究としておやりになっていて、今フランスで日本の美術が尊敬されている背景の1つには、高階さんの力があるというほどの方です。 一方、マハさんの小説はすべて好きなんですが、個人的に特に刺さった作品は『リーチ先生』なんです。物語では、英国の陶芸家であるバーナード・リーチさんが日本に来て、そしてイギリスに帰り、陶芸というものの東西をつないでいくという流れが1つあります。実際、工芸館にはリーチさん以下、実際に作家の方々が倉敷へ来て制作したものもたくさんあります。たとえば富本憲吉さんもサポートしていたので一番良い時期のものがある。ただ、「日本のものをもっと知ってもらう」「東西をつなげる」といったことがテーマではあるんですが、これもなかなか、意外と日本人にウケません。この辺についてはどう思われますか?

「アート」を通して日本文化を世界にもっと伝えたい

原田:美術の世界にしばらく身を置いたのちに作家となった私は、小説というメディアを使い、美術あるいは展覧会や美術館を広く一般の方に知っていただくことを作家として1つの大きなテーマにしています。その一環として、知られているアーティストについては知られざるエピソードを、知られていないアーティストについては発掘していくということをやってきました。バーナード・リーチを主人公にして『リーチ先生』という小説を書いたときもそう。100年ほど前の日本で「民芸運動」という非常に優れた運動が起きたことも、意外と知られていなかった。今は若い世代で民芸が好きという方も増えてきたのでご存じの方はいらっしゃるかもしれませんが、いまだ海外ではまったく知られていなかったりしますので。 ですから、私の小説を英語または別の言語に翻訳してもらうことにも1つハードルはあるのですが、まずは日本で見識を持った方々、あるいはアートに興味や好奇心を持つビジネスリーダーの方々にも私の小説を読んでいただきたいと思っています。それで、「あ、昔はこういう人たちがいたんだ」と。そういう人たちが仲間と一緒に奮闘して、新しい芸術の道を見つけていったことで、日本に豊かな文化財を残してくれたことをまずご理解いただきたいと考えています。また、それは決して、そのときで終わってしまった話でなく、今なお続いていることなのだと認識していただきたいな、と。 御立:そういう意図もおありだったんですね。 原田:その意図がすごく大きいです。もちろん自分自身が興味を持っていなければ書けませんけれども。ただ、とにかく自分が作家として小説というメディアを手に入れたということは、自分が大きな文化的武器を持ったということだと思っています。だから「私はこれで戦っていこう」と。 御立:そのなかで日本のものを西洋に伝え、つながりを伝えるということも行っていきたい、と。 原田:はい。ただ、それはすごくやりたいことですけれども、日本語の小説でやるのはすごくハードルが高いんですね。もし私が英語で書くことができていたら、もしかしたら『楽園のカンヴァス』が『ハリー・ポッター』シリーズになる可能性もあるわけです。もちろん物語の力もありますけれども、『ハリー・ポッター』が世界中でこれほど愛されているのは英語で書かれているということがあるので。その意味で、小説というメディアは私にとって非常に強力な武器ですが、世界的な視野で考えると実はまだハードルが高いと言えます。ですから、私としてはもう1つ望んでいることがあります。小説に比べると、文化・芸術というのはもっとグローバルに共有できるものなんですね。 御立:たとえば美術の展覧会ということであれば言語の壁を超えやすい、と。 原田:そう。それが言語のないビジュアルアートの良さだと思っています。どの国の人が見ても「美しいものは美しい。いいものはいい」と。これは柳宗悦が言っていたことでもありますが、「いいものはいい」というのは(言葉の壁を超えて)分かることですし、共有できること。今はシェアの時代と言われていますが、「日本にはこういうものがある」「日本の文化はこういう風に発達してきた」と、ひと目で、かつ世界的にも分かってもらうためにアートは大変有効だと考えています。ですから、それを皆で共有する場として展覧会や美術館は機能するべきだし、もっとサポートされるべきだと私は思っています。 御立:先日京都で開催された「CONTACT つなぐ・むすぶ世界と日本のアート」展では、わざわざフランスから「これを見に来た」という方もいらっしゃいました。この展覧会では、たとえば猪熊弦一郎さんという画家の作品と、彼が尊敬していたアンリ・マティスの作品を同じ空間で並べて見せるといったことを、清水寺の和室でおやりになっていたんですね。ああいう場に世界の人が来ると、「つながっているものがあるし、独自の凄さも日本にはあるよね」というのが分かる。そういうことは、実は小説より展覧会のほうがやりやすいという。 原田:同じ時期にICOM(International Council of Museums)という世界最大の国際博物館会議が京都で開催していて、世界中から4000人を越える美術の専門家の方々が集まるというチャンスがありました。ですから、そのときに「日本の美術がどのように世界とコネクトしながら発展したのか」を世界の方々にお見せしたいと思い立ちまして。準備期間は10か月しかなかったのですが、思い切って、多くの方に賛同を得ながらやらせていただきました。そのときはイベントの一環でトークショーも行って御立さんにもご参加いただきましたが、とにかく本当に多くの方々にご覧いただきました。そういう体験を通して、今さらですが、美術や文化には国境がないし、「これは現代アートだから」とか「これは工芸だから」といった線引きもないのだなということを強く感じました。 この展覧会では日本国内の美術品を集めて展示しましたが、展示したのは美術品だけではないんです。たとえば、映画のスクリプトとか、竹宮惠子さんや手塚治虫さんの漫画原画とか、宮沢賢治が手書きをした『雨ニモマケズ』のオリジナルの手帳とか、川端康成の小説原稿とか、ある意味では、かなり美術展から逸脱した展示を行いました。でも、それによって「みんなつながっているんだね」「世界と日本がこういう風に響き合いながら発展してきたんだね」といったことが分かったし、それを皆でシェアする場にできたという点で、すごく有効だったと思います。 また、このときは大原美術館にも多大なご協力をいただいて作品を展示しましたが、先ほど御立さんがおっしゃっていた通り、「大原美術館がやってきたのはこういうことなんだね」ということも感じました。古今東西さまざまなジャンルの作品を、長い歴史のなか、ある種の優れた審美眼とキュレーション力をもってアンサンブルをしてきたのが大原美術館である、と。そういう意味で、文化的に大変優れたリーダーであり、美術館だったのだと、自分の体験を通じて改めて感じました。(後編に続く) 執筆:山本 兼司

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