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リーダーが定めるべき覚悟は「死生観」である

投稿日:2018/01/01更新日:2019/04/09

長崎県のハウステンボスで行われた「第2回G1九州inハウステンボス」。最後に田坂広志氏がカンファレンスに参加する各界リーダーに贈った特別メッセージ、「リーダーが定めるべき覚悟」の内容をお届します。(全2回)

リーダーに必要な覚悟は「死生観」

田坂広志氏(以下、敬称略):  G1地域会議にご招待頂いたのは三度目かと思います。一度目は石山寺(G1関西2014)、二度目は厳島神社(G1中国・四国2015)での開催でしたか。そして、今日もまたお誘い頂きましたので、やって参りました。いつもながら、一期一会と思ってこの講演も務めさせて頂きたいと思います。ただ、この「一期一会」という言葉、知識としては誰もがご存知ですが、やはり「行じる」のが難しい。66歳になった今も。そう思います。

こういった場で皆さんの貴重な時間を45分お預かりする以上、いつも、「このように話ができるのは、これが最後」と思い定めて話をするのが私の「一期一会」の心構えではあります。けれども、これがなかなか難しい。日本語には良い言葉がたくさんありますが、知識で知っているだけで、それを行じることはなかなかできないというのが現実かと思います。

まず、今回もこの場に参りましたのは、今最前列にいらっしゃる堀さんにお誘い頂いたからですが、ただ、誘われたから伺ったわけではありません。私は、いつもこう思うのです。堀さんが始めたG1サミットやこの地域会議の動き、それは、何かに導かれていなければできることではない。もちろん堀さんご自身は大変優秀な方ですが、人間はただ優秀なだけでこれほどのことができるわけではない。もちろん、それは、この場にいらっしゃる多くの方々のお力を借りてということではありますが、やはり何かに導かれてこのような動きをつくってこられた。そして、そのように導かれている方にお誘い頂いたということは、それもまた天の導きだと思っています。

同じように、この45分は何か大いなるものに導かれて、皆さんとこの場を共にするのだと思います。私自身は66歳になった今も、いまだ修行中の人間です。そのことを最初に申し上げたうえで、今日は、「リーダーが定めるべき覚悟」というテーマについて話をさせて頂きたいと思っています。

さて、リーダーが定めるべき覚悟とは何か。それを挙げれば十も二十もあるかも知れませんが、一つだけ挙げよと言われたら、私は躊躇なく、こう答えます。リーダーが定めるべき覚悟は、「死生観」。生きる、死ぬという、その死生観を定めることが最も大切だと考えています。

どうして、そう申し上げるのか。私も経営の世界を歩んだ人間ですが、私自身、歳を重ねるにつれて「重い」と感じるようになった言葉があります。それは、経営者に関する格言ですが、若い頃、その言葉を聞いたとき、日本語の意味は分かりましたが、その言葉に込められた叡智の意味が分からなかった。それは、「経営者が大成するためには、三つの体験のいずれかを持たねばならぬ。戦争か、大病か、投獄か」という格言です。

これが語られたのは戦前ですから、どれも生きる死ぬの話です。当時の「投獄」と言えば、ご存知のように小林多喜二が思想犯で捕まり、拷問で殺されるような時代でした。「戦争」。言うまでもなく、生きる死ぬの話です。「大病」。当時は結核です。そういう体験をした人間だけが、経営者として、政治家として、リーダーとして大成していくのだという言葉を、若い頃に聞きました。

若い頃は、その言葉を「ああ、なるほど」という程度の気持ちで受け止めていたのですが、やはりこういう格言は重い。本当にその通りです。なぜなら、私が若い頃に薫陶を受け、謦咳に接した優れた経営者の方々は、振り返ると、どなたもその体験をお持ちでした。

その一人がダイエー創業者の中内功さん。この方については、「晩年の経営が云々」などと評論家的にはいろいろ言われます。ただ、私にとって、それはどうでもいいこと。それよりも、中内さんがどのような覚悟で経営に取り組まれたか。それが胸に響く。例えば日本経済新聞で連載された中内さんの『私の履歴書』の第1回を読むと、もうそれだけで背筋が伸びます。

私は中内軍曹として、敗戦を迎えた。
自分の目の前で、多くの戦友が死ぬのを見た。
突撃の一言で、勇敢な人ほど死んでいった。
私は卑怯未練で、生き残った。
その無念の思いが、いまも私を、流通革命に駆り立てている。

経営に取り組むとき、これほどの覚悟を定めていた。この亡くなっていった仲間に対する思いを胸に、一人の経営者として、流通革命という見事な仕事を成し遂げて行ったわけです。

もう一人、私が薫陶を受けた方に、小松康さんがいらっしゃいます。住友銀行の元頭取で、「Banker of the Year」という国際的な賞も受賞した方です。しかし、何よりこの方は、腹が据わっていた。なぜ、あれほど腹が据わっていたのか。その理由を知り、「なるほど」と思ったことがあります。小松さんは、私がかつて在籍していたシンクタンクで会長を務められていたのですが、あるとき、会長室に入った私は室内に飾ってある写真に気がついた。それは、太平洋戦争の写真で、米軍の戦闘機に攻撃されて煙を上げている日本の軍艦の写真でした。

そこで、「これは、日本の軍艦が攻撃されているのですね」と伺ったら、会長は、一言、「ああ、俺は、それに乗っていたんだよ」。ご承知のように、巡洋艦の「那智」です。この船は、その直後、撃沈されます。その水兵だった若き日の小松さんは、船が沈んだあと、死を覚悟して波間に浮かんでいたところ、たまたま通りかかった味方の船に救われて、九死に一生を得たわけです。

もちろん、このお二人以外でも、生きる死ぬの体験をされた経営者ということであれば、いくらでも挙げることができます。京セラやKDDIの創業者である稲盛和夫さんは、若い頃に結核を患いました。セゾングループ創業者の堤清二さんも、そうです。伊藤忠商事会長だった瀬島龍三さんは戦争と投獄を同時に体験されています。シベリア抑留11年。生きて帰れるなど、誰も思わない世界です。そういう体験をした方々が、たしかに戦後、見事な経営の世界を築いてこられた。政治家にも、そういう方がたくさんいらっしゃった。

なぜ、リーダーには死生観が必要なのか

では、なぜ、経営者や政治家、リーダーには、死生観が必要なのか。その理由は、ただ一つです。例えば、経営者であれば部下や社員の人生を預かる。たとえ従業員10人の会社でも、10人の人生を預かります。政治家であれば地域住民の方々、ときに国民の人生を預かる。言葉を換えれば、命を預かる。されば、リーダー自身が、「命」というものに対する深い眼差しを持っていなければ、本来、リーダーを務めるべきではない。私はそう思っています。

ただ、こういう話をすると、おそらく何人かの方は、「たしかにそれはそうだが、今は戦争がある時代ではないし、やるべきでもない。投獄も、今は生きる死ぬの話ではない。大病というのは今もあるが、こうした時代に、どうやって死生観を掴めば良いのか」と考えられると思います。

たしかに、それは大切な一つの問い。しかし、実は、戦争がなくても、大病を患うことがなくても、死生観は定められます。いや、先輩たちが命懸けで築いてくれた、この有り難い平和な時代だからこそ、三つの体験を超えた新たな死生観の定め方を、我々リーダーが身を持って示すべきでしょう。

では、どうするか。そのためには、人生における「三つの真実」を、目をそらすことなく、見つめることです。それを本気で見つめるならば、死生観は定まります。

「三つの真実」とは、

「人は、必ず死ぬ」
「人生は、一度しかない」
「人は、いつ死ぬか分からない」

その三つです。

この誰も否定できない真実を、直視する。そうすれば、自ずと死生観は定まります。

この「三つの真実」。それは、誰もが知識としては知っている。しかし、知ってはいるが、誰も、その真実を見つめて生きようとはしない。むしろ、この「三つの真実」を、見つめないようにして生きていく。そのことを、ある文化人類学者が、こう述べています。「人類のすべての文化は、死を忘れるためにある」と。少し極論とは思いますが、鋭い指摘でもある。

なぜなら、死を見つめることには大変な心の苦痛が伴うからです。そのため、その真実から、我々は目をそらしてしまう。だからこそ、昔から、ラテン語で「メメント・モリ(memento mori)」という言葉が語られてきた。「死を忘れるな」「死を思え」という意味の言葉です。ただ、これも知識や教養としては知っていても、本当に、日々死を見つめて生きることができるのかと問われれば、それがなかなかできない。やはり、心が苦しくなる。

ただ、皆さんも良く知っている人物で、それを行じた人がいる。スティーブ・ジョブズです。彼の、あのスタンフォード大学卒業式でのスピーチ。あの中で、ジョブズは、「“今日が人生最後の日だとすれば、自分はこの仕事をやりたいと思うか”と問いながら生きてきた」と言っています。このメッセージは、大げさに聞こえるかも知れませんが、彼は、本当にそうして生きてきたのでしょう。それが、彼が、あれほどの才能を開花できた理由でもある。しかし、彼は、このスピーチの中で、こう付け加えています。「今日が最後の日だと思って生きていくならば、いつか、それが真実になる」と。その通り。我々は、百年生きても、いつかそれが真実になる。そのことも、彼は、はっきりと述べています。

そういう覚悟で生きていくことは、決して楽ではないが、そのような生き方をした方は、やはり、いる。見事な人生を歩まれていると思える先輩方のなかには、そうした死生観を定めている方がいる。されば、我々も、そういう先輩方の生き方を、しっかりと見習うべきではないかと思います。

その生き方をされた方をもう一人紹介するとすれば、仏教者の紀野一義さん。この方は、「仏教学者」でなく「仏教者」。仏教を「学」にする方は多いが、真に行じる方は少ない。この紀野一義さんとは、縁あって、ある雑誌で対談をさせて頂いたことがありますが、見事な方でした。凄まじい戦争体験をされた方ですが、この方は、戦争に行く前から腹が据わっていた。それはなぜかと思い伺ってみると、若い頃に、ある修行をしていたとおっしゃるのです。この方は、寺の生まれだったのですが、若い頃に修行をしようと考えたそうです。では、何をしたか。

「明日、死ぬ。明日、死ぬ。明日、自分は死ぬ」

そう思い定め、今日を生き切るという修行をしたそうです。だから、若い頃から腹が据わっていた。

ただ、天は、一人の人物を育てようとするとき、どこまでも逆境や試練を与えることがある。その後、紀野さんは戦争に行きましたが、次々と仲間の船が撃沈されるなか、奇跡的に生き残った。さらに、戦争が終わった後、台湾で、炎天下、何百発もの不発弾を処理する。信管の抜き方を過ったらその場で終わりという体験です。そうした数々の生死の体験を超え、生きて戻ってきた。だからこそ、この方は、仏教者として見事な生き方を貫き、多くの人々がその薫陶を受けたわけです。

例えば、この「明日死ぬ」と思い定めて今日を生き切る修行、皆さんも、一日でいいからやってみてはどうですか。しかし、これが、なかなかできない。「明日死ぬ」と思い定めたつもりでも、心のどこかで、「そうは言っても、これは仮定の話だから」という心の逃げが生まれる。本気でそう思い定め、一日を生き切るというのは、なかなかできない。だから、天が私のような未熟な人間を育てようとするときは、本当に生きる死ぬの病気を与えた。本にも書いた、34年前の生死の体験です。しかし、生きる死ぬの体験が与えられなくとも、死を見つめて歩むという生き方を通じて自身を鍛えていくという見事な方はいらっしゃいます。

ただ、最近はそういう方が少なくなった。残念ながら、最近は、経営者や政治家の方を拝見していても、重要な立場にいるにもかかわらず、腹の据わっていない方が少なくない。しかし、この場に集まられた方々、一人のリーダーとしてこれからの日本を率いていく方々は、腹を据えて死生観を掴んで頂きたいと思います。

これは、決して、上から目線で申し上げているのではありません。百歳まで生きても修行は続きます。その意味で、私も皆さんと共に、その修行を続けていくつもりです。しかし、皆さんが、腹を据えて死生観を定めるならば、大いなる天は、皆さんを、必ず導く。一人のリーダーとして、必ず導く。それが人生です。

先ほど、天は、我々を育てようとして、厳しい体験を与えると述べました。それがゆえに、かつて戦国武将の山中鹿之介は、「我に七難八苦を与えよ」と祈ったと言われる。この話は、知識としてはどなたも知っていること。では、皆さんの心の中に、「さらに厳しい体験を通じて、成長していきたい」という祈りのような思いがあるでしょうか。もしあるなら、天は見事なほど、我々に「逆境」を与えてくれます。

私自身も、人生において、いくつもの逆境を与えて頂きました。そうした逆境を与えられた瞬間は、「なぜ、こんなことが・・・」という思いが心に浮かびますが、まもなく、心の奥深くから、「ああ、有り難い。これは、天が自分を育てようとしてくれている」という思いが湧き上がってきます。もとより、この場に集まられた経営者や政治家、リーダーの方々は、高い志をお持ちでしょう。そして、その志が高ければ、苦労も困難も、失敗も敗北も、そして挫折も、当然やってくる。その逆境のなかでこそ、皆さんは成長していかれる。その成長を求め、リーダーとしての道を歩んで頂きたい。

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