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聞き届ける姿勢、寛容の心…ビジネスにも不可欠な日本的価値は?

投稿日:2015/06/25更新日:2019/04/09

日本的なるもの ~変わりゆく価値、普遍の価値~[2]

堀:今回の会議では二日間にわたり、経済、ビジネス、教育、あるいは文化といったさまざまな分野について議論を交わしてきた。そのなかで印象を受けたことの一つに、世界でも勝っている京都発の企業が、京都的価値を今も大切に持ち続けているという点があった。さらに言えば、本会議に参加した京都発の上場企業はすべて、上場後も本社を京都から移していない。「大きければいいということじゃない。儲かればいいということじゃないんだ。もっと大切な思想や価値がある」と、独自の価値を持っている。昨日は面白いお話を伺った。京都の人々には三つの怖いものがあるという。一つは祇園、一つはお坊さん、そしてもう一つがお茶の世界だそうだ。自分たちの人格が見られているから。他者に見られているなかで、自分たちの人格を磨いていくわけだ。そうした価値観を残しながら、一方では経営のノウハウやテクノロジーでイノベーションを起こしていくということだろう。

他方では残さないほうが良いものもあるかもしれないが、いずれにせよ次は「価値の概念」という抽象度の高い議論から、さらに具体的な議論に落とし込んだお話を伺ってみたい。下村大臣は現在、教育そして文化に関する政策を練っていらっしゃる。そこで、「この部分は残すべきだ」とお考えになっているものをぜひお伺いしたい。最終セッションということもあるので、後ほど、同様の質問を会場の方々にも振ってみよう。そのうえで、次の変革という議論に移りたい。

下村:「残したいもの」とは少しニュアンスが違うけれども、私は若い経営者の方々とお会いしたとき、「今はそれでうまく行っているかもしれないけれど、この先大丈夫なのかな」と、心配になることがある。「人を知っていないのではないか」と。相手の心を知っていないのではないかなという点だ。この点に関しては今の教育に問題があると思っている。典型的な例は記憶力中心の大学入学試験だ。それは公正・公平かもしれないけれど、それしか評価しない。人間の能力はおよそ200項目に渡って分析できるのに、日本の大学入試で問われているのはそのうちの5~6項目。もちろん、その分野も必要ではある。でも、実際に社会へ出たときに問われるのは暗記力や記憶力だけではない。まあ、官僚には必要とされるかもしれないけれど、官僚の分野だってそれだけでは使い物にならない。

今世の中にある職業の65%は30年後になくなっているというデータもあるが、現在の教育は、たとえば今の小学生が大人になったとき、社会で通用するものになっていない。今求められているのは主体的かつ積極的に困難な課題と向き合い、それを解決する力だ。そこで必要とされるのは、受身の教育ではなくてアクティブラーニング。いかに自ら学んでいくかが問われている。そこで、課題解決能力や創造的能力を、どのようにバックアップしながら育んでいくか。実際、会場の皆さまが今成功しているのは、学校教育のおかげではないのではないか。元々持っていたクリエイティブな能力を自ら引き出すことによって、ビジネスでも成功なさったのだと思う。

また、人に対する優しさや思いやり、そして感性も非常に重要だ。それがなければ部下もついてこない。うまくいっているときはついてくると思う。でも、何か困難にぶつかったとき、「それでも社長のために、幹部のために、皆一心同体でやっていきましょう」とはならない。それは社長や幹部だけの問題ではないかもしれない。ただ、とにかく相手に対する思いやりというか、「こういうことを言ったら相手がどう感じるか」「こういう指示をしたら部下のモチベーションはどうなるのか」といったことが分かっていないのではないかと思うようなことが、たまにある。

しかし、先ほど田坂さんもおっしゃっていたが、元々日本人は誰よりもそういう資質を持っていたし、実際、そのような教育も行っていた。また、そうした教育を学校だけでなく、家庭や社会や会社、あるいは人間関係のなかで行っていた面もあると思う。大切なのは、日本が本来持っているそうした教育、そして21世紀に新しく求められる能力をこれからどう育んでいくかだ。それが現在の教育に問われていると思う。そのために、今は大学入試を含めて56項目に渡る同時改革工程表をつくって改革を行っている。教育は国家100年の計であるから間違った方向にならぬよう注意しつつ、日本人がそれによって自己実現できるような教育を目指したい。しかも、今は「自分がダメな人間だ」と思ってしまっているような高校1年生が日本に84%もいる。しかし、せっかく生まれてきたのだから、「そんなんじゃない」と。「自分という存在が社会や国や家族に貢献している」という充実感を持って生きていけるような教育を、ぜひ実現したい。

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堀:会場の皆さんにも議論に参加してもらおう。「こういったモノや価値はぜひとも残していきたい」というお考えがあればぜひご発言いただきたい。

会場:「残したい心」に加えて、それを世界に発する力も強化しなければいけないのではないか。教育であれば、ディベートの力や論理的思考能力も重要だ。その二つでバランスを取ることが大切だと思う。

会場:大卒ではない方々が就く職業の価値も残すべきだと思う。こちらにいらっしゃる方々の大半は大卒だと思うが、実は多くの、特に現場の職業は元々学歴と関係がない。にも関わらず、我々は一律に学歴を上げるような形ばかり認めてきてしまったのではないか。高等教育は大事だが、一方では現場で働くことの価値というか、その職業の価値を大学や学歴と関係なく認めるような、そういった考えを広めていきたい。

会場:飲食店向けサービスに従事している私としては、日本の飲食店のレベルの高さというか、その素晴らしさを残していきたい。今は自信を持って飲食店で働いていると言えない社会が続いていると感じるが、私はそれを育て、守っていきたい。

会場:日本語の主なルーツはフィリピンやインドネシアといった太平洋の島々にあるという研究結果もある。その意味では沖縄から本土そして北海道に至る日本の全域にわたり、文化の根底に縄文の歴史があるのではないか。それらを大切にしていきたいという思いがある。また、その時代に営まれていた自給自足の価値、あるいは自然とともに生きる価値も忘れてはいけないと考えている。

会場:日本の伝統文化は残していかなければいけないと思う。ただ、それは形を変えずに残していくべきものなのか、あるいは時代に合わせて形を変えながら残していかざるを得ないものなのかという、そんな議論も大切だと感じた。

会場:こちらの会場にあるような仏像や寺院を文化財の形として残すだけでなく、「それらがなぜその時代に造られたのか」というものがたりを、日本がつくられてきたものがたりとともに残していきたいし、その思想や歴史を大切にしたい。

会場:二つある。まず、グローバル化とともに失われないよう、日本語をしっかりと残す必要があると思う。それと、もう一つは日本人の舌、つまり味覚だ。世界最高の舌を持っていると思うし、その味覚があるから美味しいものもできるのだと思っている。

会場:今はおせち料理が買うものになっているのが残念だ。造るものであって欲しい。女性の活躍は素晴らしいしことだし私も活躍したいが、そのなかで日本の家庭の味といったものが忘れ去られている面もあると思う。そこで、まずは食育というか、食べることから文化を守っていきたいと考えている。

会場:日本語の教育を残してもらいたいと思う。お話にもあった思いやりの心などを残していくためにも、まずは言葉を大事にしてもらいたい。

会場:「生かす」という考え方を大事にしたい。禅というのは、実は効率的だ。それは金銭や時間の効率でなく、物質的な効率。以前、修行で寺に入ったとき、掃除をするにあたって「ごみをどこに捨てたらいいですか」と聞いたら、「ごみなんてない」と言われたことがある。木の枝は火を付けられるし、葉っぱは肥料になるし、その下の土を轍(わだち)に入れたら轍がなくなるからだ。捨てることは誰でもできるけれど、日本が他の国と絶対的に違っているのは、それを「生かす」部分だと思う。そこにこだわりがあると思うので、そのコンセプトはぜひ次の時代に残したい。

会場:不登校児や発達障害の子ども、あるいは引きこもりとなってしまった方々の支援をしているが、先ほど大臣が大変重要な指摘をなされたと感じる。これから必要とされるのは人の心を知る能力だとは思うが、それをなかなか推し量ることのできない発達障害の方々も、社会には6.5%ほどいると言われている。大臣はその領域でも力を入れていらっしゃると伺っているが、そうした人々も、「こうすればこういう気持ちになるんだよ」と教えてあげればきちんと分かるようになるし、社会でもトラブルも避けられるようになる。従って、そういう人々を理解し、受容する心が大事になるのではないか。まさに和というものが残すべき価値になるのかなと思う。

会場:「日の丸タオル」というものをつくらせてもらっているが、文献を紐解くと日の丸はいろいろと誤解されていたりする。教育現場でも日の丸に対する考え方はあちこちで違っていたりするし、日の丸というものの統一感をぜひ残してもらいたい。

会場:余白というか、何もないところに意味を感じる心を大切にしたい。白いという意味でなく、音にしても絵にしても庭にしても、外国の方が「ない」と思うようなところに「ある」ということを見出すような心はぜひ残していって欲しい。

会場:寛容さをぜひ残していきたい。七福神のなかに中国やインドの神様がいるといった多様性のある国はなかなかないと思う。作家の塩野七生は、「ローマ帝国が長続きしたのはパンテオンにすべての神様が入っていたから」とおっしゃっていた。そこで自分たちが信じる神以外を排除したとき、ローマ帝国の終わりが始まったという。そういう謙虚さと寛容さをぜひ残していただければと思う。

堀:皆さまのコメントについてお二方はどのような感想を持たれただろう。

田坂:どなたのコメントも素晴らしいなと、感心しながら伺っていた。いくつか申し上げたい。まず、自然との共生について。日本人の自然の見方は、今の世界の平均的な水準よりも数段深いと思う。私は共生という言葉も嫌いではないけれど、それよりもさらに深い言葉として、日本人の自然観には「自然(じねん)」という言葉がある。これは仏教で「自然本位」といった使われ方をするが、英語で説明すると分かりやすい。共生をあえて英語に訳すと‘living with nature’。「自然とともに生きる」だ。一方、自然(じねん)は‘living as nature’。「自然として生きる」。日本人は自分たちが自然以外の何かであると、あまり思っていなかった。

欧米的な思想ではどちらかというと人間と自然を対立的に捉え、それを征服するところからスタートしている。だから、まず環境破壊を行って、やり過ぎたから「共生しなければ」という風に戻ってきた感がある。しかし、その点で日本の思想が持つ一番の深みは、「我々はどこまで行っても自然の一部であり、大いなる営みの一部として生かされている」という視点だ。これから世界の環境問題に処していくにあたって、そうした‘living as nature’の思想は大変重要な原点になると私は考えている。当面は共生で進むと思うけれど、我々はそれよりもさらなる深みがあることも忘れるべきではないと思う。

その観点でもう一つ。ディベートに関するご意見も出たが、グローバリゼーションのなかでディベートをどのように捉えるかという視点も大切だ。人間の深みとは、「どこまで深い世界を見つめ、どこまで深いレベルで対応しているか」になると思っている。私もディベートをするように言われたらやるときはあると思うし、論理的にどちらが正しいかという議論をする技術も決してマイナスではないと思っている。ただ、ディベートの怖さは、論理的に正しいほうが勝ちで論破されたほうが負けだという価値観だ。そうした水平面のなかでやっている限り、すごく寂しい世界になる。論理的に詰めなければいけないときはあるし、田中さんと鈴木さんで議論して、「AだからB。BだからC。だったらこうだよね」という論理的な展開力も絶対に必要だ。ただ、それよりもさらに一つ深い世界があることも理解したうえで、その技術を使えるかどうか。私はディベートの奥にディスカッションという言葉があると思っている。どちらが勝ったか負けたかというより、皆で話していくうち、「あ、いろいろな視点から意見が出て議論が深まったね」というやり方もある。さらに言えば、先ほど申し上げた弁証法というのはディアレクティーク。つまり、正反合なら自分の意見と正反対にある二つの意見が議論を行うことで、より高い視点に辿り着くという弁証法的対話もある。

それと、心理学的に言えば、「その人にとっての真実」という考え方もある。これは河合隼雄さんが臨床心理学などで使っていた言葉だ。少し極端な例だけれども、たとえば父親との葛藤で苦しむ方が、思わず、「あの父親は鬼だ、悪魔だ。あんなやつ死んだらいい」と叫んだとする。そのとき我々に求められるのは、善悪だけを基準にして「そんなことを言っちゃいけない」と抑圧することではない。その人にとっての真実を一度深く見つめることだ。「その人とすれば、今はそれが真実のように思えるんだ」と。それを受け止める力というのは、先ほどどなたかがおっしゃっていた寛容という言葉の一番深い世界になる。

実は、今申し上げたいくつかのことはすべて、日本ではビジネスの世界でずっと語られてきた。部下の話を深く聞く上司であれば、単に「なるほどね」で終わらない。「聞き届ける」。皆さんの周囲にもそういう、「この人に話を聞いてもらうとなぜか気持ちがすっとする」という上司の方がいらっしゃると思う。その方が魂のレベルで聞き届けてくれているからだ。こちらの叫び、つまり自分にとっての真実をまずは受け止めてくれている。そういう方は昔からいらした。先ほど大臣がお話ししていた教育についても、本来であればそういう深い世界で子どもたちの声に耳を傾ける力があるかという、心の成熟が教育者に問われているのだと思う。この辺に関しても日本には素晴らしい言葉がある。「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」。一体、誰が誰に教わっているのかという逆説があるわけだ。実は目の前にいる子どもの姿から親が学ぶということは、子どもの教育をされている方ならどなたでも経験していらっしゃると思う。

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下村:3点、簡単にお話ししたい。まずは日本語、あるいは日本的なものに関するご意見について。象徴的なお話として、今年5月、連休でマレーシアへ行ったときのお話をしたい。マレーシアではマハティール元首相、そして日本で留学経験のあるマレーシア人の方々とお会いした。私はそこで、かつて「ルックイースト」」とおっしゃっていたマハティール元首相が、「もう日本に見習うべきものはない」とおっしゃるのではないかと思っていた。けれども、実際には違っていた。両者とは別々にお会いしたのが、期せずして両者とも「マレーシアに日本の大学を招致して欲しい。また、そこでは英語でなく日本語で教えて欲しい」と言う。なぜか。先ほど田坂さんが仰っていた「有り難い」を含め、日本語そのものに「人が人としてどう生きるべきか」という教えや、人間関係における示唆があるからだという。学べば学ぶほど、それが分かるそうだ。今はそうしたことを海外のほうが評価しているというのがまず一つある。

それから二つ目は教育について。不登校や発達障害に関するご意見、そして学歴に関するご意見があった。私はこの分野で感じているのは、日本の近代工業化社会を支えてきた教育はこれまで大成功してきたものの、今は足を引っ張っているという点だ。現在の教育ではエジソンやアインシュタインのような人間が日本からは生まれてこないと感じる。しかし、たとえば不登校や発達障害ということで困難に直面している子どもは、ある能力では劣っているかもしれないけれど、ある別の能力は尖っていて大変優れていることがある。しかし、現在の日本の教育は平均で見なくてはいけないことになっている。すべての教科が万遍なく良くなければ大学にも受からないし、人からも評価されないわけだ。しかし、すべての面で能力が高いというのは神に近い存在であって、生きていくうえでそんなことは問われていない。

従って、これからは「ある部分では誰にも負けない」というものがあれば、それをいかに伸ばしてあげるかということが大切になる。今は平均的な教育によって17万人の小中高生が不登校となってしまい、さらに5万人以上の高校生が中途退学をしてしまっている。これは不幸だ。幸せにする教育というのは、不登校児やフリースクールに通う子ども、あるいは学歴の低い子どもが人生にチャレンジできる教育だ。実際の人生は学歴で決まるわけではない。本来であれば60~70代になってもアクティブにチャレンジしてがんばることができるかどうかによって、幸せも成功も決まってくると思う。そうした教育に変えていかなければいけない。

そしてもう一つ。生理的・合理主義的な整合性から脱却しなくてはいけないという思いもある。なぜ、石山寺のような場所で会議を行うのが良いのか。紫式部はなぜこの場所で源氏物語の着想を得ることができたのか。「スポーツ・文化ダボス会議」では、議論だけでなくコンサートなども行いたい。たとえば雅楽には機器では取れないけれども、人間の脳には分かるような音感があり、それが癒しになったりする。音楽だけでなく空間そのものが、恐らくそうなのだろう。見えないエネルギーやパワーがあって、それが我々にインスピレーションを与えている。それは神仏のご加護と言うのかもしれないし、地場という風に表現するものなのしれないが、とにかく、そういう場を大切にするという視点も日本ならではのものだと思う。

※開催日:2014年10月18日~19日

→日本的なるもの ~変わりゆく価値、普遍の価値~[3]は6/26公開予定

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