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登山家・栗城史多氏×世界陸上メダリスト・為末大氏 「NO LIMIT 〜最高峰に挑戦する人たちへ〜」前編

投稿日:2014/05/27更新日:2021/11/29

29731 栗城史多氏

為末大氏(以下、敬称略):(栗城氏を紹介する冒頭映像を観て)クレパスとか、ああいうものを見ていると「大丈夫なの?」と思う。たとえばエベレストにはどれぐらいの人が挑戦して、そのうちどれぐらいの人が失敗して命を落としてしまうのだろう。(05:18)

栗城史多氏(以下、敬称略):シーズンによって違ってくる。春はすごく人数が増えて、現地ガイドを含めると登山隊としては800人近くが入る。登頂できるのはそのうちの2割前後だと思う。残り8割は登頂できないか、登頂する2割をサポートする現地シェルパの方々だ。ただ、実際に何人かは毎年亡くなっている。かなり大きなニュースになっているけれど、今年は雪崩で17人ほど亡くなってしまった。エベレストの雪崩は巨大で、しかも日本で見るような雪の塊と違う。家一軒ほどもあるような氷河の塊が上から転がってくる。それが僕の目の前で止まったこともあるけれど、すごい爆風で、あれに巻き込まれると大変だ。残念なことに今年はそれで大きな事故になってしまった。(05:45)

あと、今は多くの人が来ることでエベレストが飽和状態になってしまっていることも問題になっている。それで、今は頂上近くに2時間待ちの渋滞ができているという(会場笑)。頂上自体は狭いのに、そこへ皆が一斉に登ってくる。今は天気情報の精度がかなり高くなっていて、だいたい2カ月の1シーズンで2回ある「この日だ」という日に、皆が一斉に登ってくるけど頂上近くは狭いから、体調が悪い人等、いろいろな人がいて詰まってしまう。去年は4名の方がそこで待ち過ぎて亡くなった。(07:17)

冒険の過程や学びを多くの人と共有したい(栗城)

為末:エベレスト登山で最も大きな死因は何になるのだろう。(08:00)

栗城:高山病が多い。高山病には2種類あって、一つは肺に水が貯まる肺水腫というもの。僕も一度なったことがある。あとは脳水腫。脳にも水が貯まる。8000mという高所の世界では酸素は1/3になるから体にかかる負荷もすごいけれど、一番怖いのは気圧だと僕は思う。気圧も1/3になる。そうなると、7割が水分でできている人間の体から水分がどんどん外に出ていってしまう。だから1日4Lほどの水を飲まなければいけないのだけれど、飲める環境ではない。それで水分が減っていくと脳が膨張して、脳に障害が起きる。そして、突然バタンとなってしまう、あるいは幻覚・幻聴が聞こえるようになってしまう・・・。僕は何の話をしているんですか?(笑)(08:05)

それで、そういう世界で僕は何をやってきたかというと、世界中で高所登山に挑戦してきた。エベレストには4回挑戦している。最近は春になると人が増えるから、登頂率が低くなる秋という厳しい時期に挑戦している。ただ、2012年秋のエベレスト挑戦で両手が重度の凍傷になってしまい、9本の指で第二関節から先を切断した。それと秋の登山以外にもう一つのチャレンジとして、2009年からは現地からの生中継登山ということを始めた。「冒険の共有」と僕は言っている。自分だけがそういう世界へ行って、それで何かを得て帰って来るだけでなく、「その過程や学びを多くの人と共有しよう」と。それでいろいろな方々に応援をいただいている。(09:10)

為末:昨日は「小指一本ぐらいの切断なら、まあ、痛くないだろう」なんて言っていたが。(10:09)

栗城:僕の場合、まず左手の5本を11月末に、その1ヶ月後に右手の4本を切断した。僕の場合はなんで切ったかというと、アメリカに細胞外マトリックス治療という再生治療がある。トカゲのように尻尾を切られても再生する能力が、実は人間にも1/10000ほどあるそうだ。その幹細胞は元々米軍などが研究に使っていたもので、最近民間でも使われ始めた。僕はそれを使うために切断した。この場合、切断の際に縫わないといけないからさらに深く切るという通常の手順でなく、切りっぱなしにしてそこに薬をつけるという手順になる。だから麻酔もあまり効いていなくて・・・。何が言いたいかというと、すごく痛い(笑)。1日5本はかなりきつい。それで、体験として「まあ、1本なら大丈夫かな」と(笑)。(10:14)

いつ一歩を踏み出し、いつ撤退するのか。そのジャッジが大事だ(為末)

29732 為末大氏

為末:本セッションのタイトルは「NOLIMIT」。ベンチャーのサミットだからベンチャーに結びつけたいと思うが、実際、幾つか共通点があると思う。目標に向かうという意味ではすべて同じだと思うけれど、そのなかでも特に栗城さんがご自身の体験から学んだことを聞きたい。まず、僕が登山で興味深く感じるのはジャッジの部分だ。いつ一歩を踏み出し、いつ撤退するのか。そのジャッジがすごく大事だという気がする。ベンチャーでも陸上競技でもそれは同じだけれど、ただ、我々は死なない。登山はそこを間違えると死んでしまう。ところが、登山では山頂という目標が目の前に見えている訳で、その意味では恐らく我々よりも明確に目標を感じると思う。だから「もう少し進むと登頂できる」と考えるケースもありそうだけれど、それで命を落としてしまう人もいるのかなと思う。どんな基準でその辺を判断するのだろう。(11:35)

栗城:すごく難しい。特に8000m峰の登山となれば準備も1年がかりになるし、資金も大きくなる。だから頂上近くまで登ると、どうしても「行きたい」という気持ちになる。ただ、高所登山では山頂に執着しないことが大切な要素の一つだ。実際、僕も何回か撤退している。「山頂に向かって頑張るぞ」という気持ちも大事だけれど、執着してしまったばかりに下山できなくなる等、いろいろなことが起きる。(12:53)

チベットにある8201mのチョ・オユーという山に挑戦したとき、「もう登りきって、あとは平らな場所を1時間ほど進めば頂上」という地点まで来たことがある。ただ、そこであたり一面が真っ白になって見えなくなるホワイトアウトという状態になった。8000mを超えるとよれよれの状態になる。そこで下山の方向を間違えたらもうおしまい。そのときに、僕は直感というか、すぐに「あ、このまま進んだら戻れないな」と感じた。もしかしたら行けたかもしれないけれど、その判断は本当に難しい。(13:32)

ただ、判断基準ということで言うと、僕は昔から登山の先輩に「挑戦していて楽しくなかったら下山しろ」と言われていた。苦しさ等でどんどん追い込まれて楽しめなくなってくると心の余裕もなくなり、それで良い判断ができなくなるということはいつも感じる。どんなチャレンジをするときも、どこかで心の余裕を持つ必要があると思う。肉体と心はすべて繋がっているから、心が満タンになってしまうとパフォーマンスも上がらない。なにかこう、笑うことができるような、あるいは気持ち的に切り替えることができるような精神状態でいるということは本当に大切だと思う。(14:11)

「頑張れば絶対にできる」といった心理が危険(栗城)

為末:そうした状況下で最終的に生き残る人と生き残ることができない人のあいだには、何か違いがあるのだろうか。(15:07)

栗城:これもすごく難しい。僕以上に実力のある若手はたくさんいるけれど、それでも亡くなってしまった方はいる。ただ、登山家や冒険家で死亡率が最も高いのは30代前半という統計もある。これは昔から変わらない。20代後半のうちに経験を積んでいるし、体力もまだあるから、「ここらで一つ大きなチャレンジを」となる。それで帰って来なかった人はすごく多いと言われている。(15:22)

僕も2012年に一度死にかけている。シシャパンマという8000m峰に標高差1800mぐらい、斜度60度ぐらいの南西壁という氷壁がある。僕は2011年もそこに挑戦して失敗していたから、そのリベンジということで再び挑戦した。その際、30mほど滑落したことがある。そのときは奇跡的に身体がクレパスにスポっと収まって親指骨折だけで済んだ。ただ、本当はそこで止めておけば良かったのだけれど、2カ月後にエベレスト登頂を予定していた。それで、資金も準備できていたし、「行こう」ということで、自分の精神状態もコントロールできないまま行ってしまった。それで現在のような状態になって帰って来ることとなった。それでも運が良かったとは思うけれど。(16:00)

僕がそうした経験から学んだことは、やはりコントロールできるということが重要という点だ。そこが効かなくなり、「頑張れば絶対に登頂できる」といった心理で次々挑戦してしまうのはすごく危険。これは山の先輩方も言っている。やはり自分をコントロールすることが大切で、生き残っている人はそれができているのかなと思う。(17:04)

為末:人間は思い込んでいるとき、自分では「思い込んでいる」と思っていない。常に「これは普通だ」と思いながら、少しずつ自信過剰になるのだと思う。僕もそれで数多くの大失敗をしている。逆に、「あ、僕は思い込んでいたんだ」と思ったときはすでに思い込んでいない訳だ。そんな風に自分を客観視して、ときには「あ、僕は今慢心しているな。欲にかられている」と判断するにはどうすれば良いのか。目標を目指しているのか、それとも目標に執着しているのか。その判断は本当に難しいし、頭で考えても分からないというのは僕も現役時代になんとなく感じていた。そうした生き残るセンスは先天的なものなのか、それとも後天的に得ることができるのだろうか。(17:33)

栗城:先天的センスという要素もあると思うけれど、僕自身にセンスがあるとは思えないし、大切なのは師匠や先輩がいることだと思う。そういう人達に自分自身を客観的に見てもらうこと。僕はそうした先輩方と一緒に国内の山を登ったりしているとき、たとえば「栗城君、なんだか最近、そういうおかしな癖がついているね」なんて言われてきた。人間は技術が向上するに従って単純作業等を簡単に済ませてしまおうとするけれど、その積み重ねが事故に繋がることはある。だからそういう癖を見てくれる人がいると、「あ、自分は今、こういう精神状態だからこうなっているな」と分かる。(18:31)

本当は自分の限界がもっと先にあるのに、そこへ行かないまま終わってしまう(為末)

為末:僕は現役時代、コーチをつけていなかった。だからコーチに言われて何か気付いた経験はあまりないけれど、20代後半のとき、母親に言われた一言ははっきり覚えている。陸上のことをまったく知らない母親に、「いつもと違う」と言われた。そのときは走っていた訳でもなかったと思うけれど、とにかく「何かがいつもと違う」と言う。それが糸口になって、「自分は今、もしかしたら変な方向に進んでいるのかも」と思ったことがある。自分の「いつも」を知っている人が変化を指摘してきた。そこで、人間というのはたとえば生活習慣等、ほんの小さなことからずれ始めるのではないかと学んだ。だから栗城さんのお話にもすごく共感できる。(19:24)

栗城:為末さん精神的な部分をどのようにコントロールするのだろう。(20:08)

為末:僕は現役時代、コーチとしての目線を比較的強く持っていた。ただ、自分の体が一番速そうだからということと、自分の体のことだから他者とコミュニケーションをとらなくていいという考えもあって、「これ(自分の身体)でやろう」みたいな。だから客観視する力はあったと思う。ただ、そういう人間の一番大きな弱点は思い込みきれないところ。僕らの世界は、本当に陶酔して「僕は世界一になれるに決まっている」と思いながら生きてきた人間には結構良い世界だ。そういう人間は一方向に突っ走っていくから、それを後ろからコントロールするコーチとタッグを組むと良い。日本人のオリンピアンがすごい結果を出すときはこのパターンが多い。だから、客観視する力が強い人間は方向性を間違えない、あるいは俯瞰できるという意味では良いと思う。けれども妄信することができない。「こっちの方向で大丈夫かな?」と、どこかで自分のことを疑っている。馬鹿になれないというか、とにかくそれが大きな弱点で、コンプレックスだった。まあ、そういう性格だから仕方がないとは思っていたけれど。(20:20)

その辺に関連してもう一つ。引き際が分かるということは、幾つかの外的条件を汲み取ることができるとともに、自分の限界も分かるという話だと思う。「この先の負荷に僕の身体は耐えられない。でも、ここまでは大丈夫」と分かっているから、踏み込むべきか否かがジャッジできる。でも、多くの人は「僕はここまでしかできない」と、自分の限界を過少評価する。だから本当は自分の限界がもっと先にあるのに、そこへ行かないまま終わってしまう。一方で、僕らのような職業を見てみると、若いときは常に精神的限界が肉体的限界を下回り、熟練してくると肉体的限界を精神的限界が上回る。だから本当にフルスロットルでいくと壊れてしまうこともある。そうした限界の探り方についてはどう考えたら良いだろう。(21:26)

栗城:自分の体に素直になることは大切だと思う。たとえば僕は高所登山の際、尿の濃さを見る。それがオレンジ色というか、ジュースのような色になっているときは、精神状態が良くても「どこか、体の状態が良くないな」という判断になる。ただ、体が高所に少しずつ適応してくると色も薄くなる感じがする。(22:38)

それともう一つ。先日、小野(裕史氏・インフィニティ・ベンチャーズLLP共同代表パートナー)さんという方と対談をした。この方は、ある日、WiiFitのゲームでマラソンをしていたときに突然、「外を走ってみよう」と思って外を走り始めた。それが高じて最近は南極や北極でマラソンをしているという、ちょっと普通じゃない方だ(笑)。そんな小野さんに面白い話を聞いた。100kmマラソンで完走率が一番高いのは50代だそうだ。何故か。若い人達は体力があっても精神はあまり強くないことがある。けれども50代はいろいろと経験しているから、精神的に自分自身をコントロールする、あるいは客観視するということができているのかなと思う。(23:22)

為末:「心を鍛える」ということを考えたとき、一つ思うことがある。飛躍的成長をするためには、「僕はここでおしまいだ」と思うところでもう一段強い負荷をかけられ、そこで「うぅ」となりながらも生き抜こうと思ったときにブレークスルーが起きることはある。そこで、「あ、実は自分の範囲はここまであったんだ」と気付くことも多いと思う。(24:22)

自分自身の限界は、自分自身が決めている(栗城)

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栗城:結局、人は自分自身で限界をつくってしまっているのだと思う。(25:11)

為末:面白いのは、本当にNOLIMITならその人はすでに死んでしまっているという点だ(笑)。要はその辺のセンスが大事なのかなと。(25:16)

栗城:僕は元々、何かの限界に向かってチャレンジできるタイプではまったくなかったし、実は高校を卒業してからも半年間ニートだった。じゃあ、何故山に登り始めたのか。僕は当時付き合っていた女性にふられたとき、「2年間付き合っていたけどあまり好きじゃなかった」と言われたことがある(笑)。精神的にも落ち込んでいた時期があった。ただ、その女性がたまたま冬山登山をする人で、「山ってなんなんだろう」と思って僕も登山を始めた。でも、それで楽しかったのかというと、当初はぜんぜん楽しくなかった。いろいろと挑戦できるようになったのは先輩のおかげだ。僕が入った山岳部には師匠となったその先輩の僕の二人しかいなかった。だからその先輩とあちこち冬山に行っていたのだけれど、先輩の口癖は「登頂癖をつけろ」。下山が許されない(笑)。すごく厳しくて、熱が38度出ても「山に行けば熱も下がる」なんて、訳の分からないことを言われながら無理矢理連れていかれたりしていた。(25:34)

そんな日々のなかでも本当に山を好きになったのは、北海道の冬山を1週間ほどかけて60km縦走したときだ。深いところだと腰の近くまで雪が積もっていた山を先輩と二人で縦走した。ただ、僕は初めのうち、「最後までは絶対に行けないだろうな。3日ぐらいで限界になって止まるだろう」と思っていた。で、実際に3日目で限界がやってきた。でも、先輩はそのとき、同じところをぐるぐる回っていた。つまり遭難していた訳だ。その先輩はものすごいリーダーシップを持っていて、「迷った」「もう駄目」といったことを絶対に言わない。僕はそこで「どう考えてもこれはおかしいな」と思い、下山を考えた。ただ、下山にもまた3日かかるから一人で降りることはできない。じゃあ、その先輩を信じて付いて行くしかない。それで結局、最後まで付いていった。(27:15)

それで最終的には目的地となる日本海側に辿り着いたのだけれど、そのときに僕はどうしたか。絶対にできないと思っていたのに、気が付いたら1週間後、ぼろぼろになりながらも着いていた。そこで泣いている自分がいた。びっくりした。悔しさや悲しさで泣くことはたくさんあると思う。けれども何かに挑戦して、それで感動して泣いたことはそれまで一度もなかったし、子供の頃はそういう涙を理解もできなかった。過去を振り返ってみると、僕は何か目標や夢を持っても、「自分にはきっとここまでしかできないだろう」と考え、いろいろな壁を感じていたと思う。けれども、「意外とそういうのは自分の頭のなかで勝手につくっていたんだ」と、そのときに気が付いた。僕の場合、それを気付かせてくれる恩人や師匠がいたのが良かったと思う。(28:11)

苦しみと喜びは振り子のようになっている(栗城)

為末:山下佐知子さんという女子マラソンのコーチにインタビューした際、面白い話を伺った。インタビューが一通り終わったあと、カメラが止まってから、「結局、山下さんの一番の能力ってなんなんですか?」と聞いたら、「私は女なのよ」とおっしゃる。「女は女の嘘が分かるの」と。走っている選手を見ながら、それが嘘の限界なのか本当の限界なのかを見抜き、本当の限界でないと思えば、「嘘ついてんじゃないわよ」と言って続けさせることがあるそうだ(笑)。だからぎりぎりまでできる。やはりリードする側の人間がリミットに近いところまで上手く引っ張っていくことは大事だと思う。(29:21)

ただ、それにはいくつか条件があるという気もする。そうした限界の手前で諦めようと思ったら、法律等いろいろなものを引っ張り出せば今の社会ではなんとでもできる。ただ、実はそのこと自体がリードされる側の、その後の人生における大きな飛躍の種を奪っている面もある。そうした、いわば成長のパラドックスというのは本当に難しいテーマだ。その瞬間は嫌だけれど、困難や危機ほど重要な成長の種はない。現代の社会にはそういうものを上手く排除できるようなシステムもあるし、たとえばそれを教育現場へ持ち込もうとするとさらに難しい気がする。(30:08)

栗城:僕は学生さん向けの講演もいろいろさせてもらっているけれど、そこでも苦しさのイメージを悪く捉えてしまっている人が多いと感じることはある。僕の場合、高所登山に挑戦する際の苦しさは喜びなのだと思っているし、勉強にもなると思っている。僕は頂上に着くとよく泣く。嬉しいからではない。それだけ苦しかったから泣くことができるということだ。苦しみと喜びは振り子のようになっている。「こんなに苦しいから最悪なんだ」ではない。それほど苦しいということは、そのぶん、喜びがその先に待っているということだ。だから苦しいまま終わらせてしまうのはもったいないと思う。(30:48)

為末:そこで僕はいつも悩む。まさにおっしゃる通りだと思うし、苦しみと喜びは一体だ。ただ、たとえば日本の部活動はそこで、「苦しければいい」という発想に飛躍する。「苦しい思いをしろ。そうすれば喜びがやってくる」と。たとえば野球には有酸素能力がほとんど必要ない。にもかかわらず、練習では何故か10kmジョギングが行われるという文化だ。苦しい思いをすれば甲子園で泣くことができるから。ここで大事なのは、どの辺に重きを置くかだと思う。どの辺まで道中のためにやっていくのか。どの辺まで、たとえば山頂へ登るためにやるのか。そういう難しさをはらんだ話だと思う。(31:41)

限界を定義する社会に影響されるのか、個人の思い込みに影響されるのか(為末)

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栗城:昔は登山界も根性論の世界で、一時期は問題になっていた。植村直美さんが活躍していたような1960〜70年代は本当に厳しいしごきの世界で、学生さんも何人か亡くなっている。山は皆それぞれにまったく違うから、その山に合ったやり方が一番重要だ。スポーツでも目的を明確にしてそれに合わせたトレーニングをすることが大事になると思うけれど、登山も同じ。たとえば僕はまず8000m仕様の体にする。僕は無酸素登山にチャレンジしているけれど、そのための体づくりは一般的な登山のアプローチと違うからだ。冒険の世界というと、「筋力をたくさんつけてパワーを上げるほうが良いのでは?」と思われるが、実は逆。少ない酸素と燃料でできるだけ動くことのできる、車で言えばエコカーのような体と筋肉にする必要がある。そうなると重要なのは体幹トレーニングや食事制限。身体の表面側に近い筋肉は動くために酸素を使うけれど、僕は酸素のない世界に行く。だから極力、外側の筋肉を落として内側の筋肉を鍛えるというやり方になる。昔の人達は恐らくそういうことをあまり考えていなかったから、スクワットを延々繰り返すようなトレーニングだったのだと思う。ただ、今はネット上で情報も増えているし、少しずつ体に適したトレーニングも増えると思う。(32:47)

為末:面白い事例がある。昔は陸上の中距離走に1600mが採用されていた。その頃は4分という壁があり、「これを切ったら人間は死んでしまう」と、当時の科学者は言っていた。1920年代前後の話だったと思う。そこでアメリカとイギリス、そしてオーストラリアの選手が4分という壁に挑んでいた。そしてその数年後、イギリスの(ロジャー・)バニスター選手が4分の壁を切る。すると、その翌年に23人も4分の壁を切ったことがあった。こういったことは心理学の世界でもテーマになっていて、「本当は何が人間の限界を決めているのか」ということがよく研究対象となっている。(34:48)

それと、もう一つ興味深い実験がある。アメリカに住む韓国系女性の方にインタビューを行うということで、彼女たちに「東アジアの食べ物はなんですか?」等、いろいろと聞いていく。すると彼女たちはそこで比較的、自分が韓国人であることに寄って立つそうだ。そこで髪の長さについて質問してみると、今度は自分が女性であることに寄って立つ。その後にアンケートをとると、当然、自分が韓国人であることを意識した回答が出てきやすくなる。そんな風にして、質問内容によって意識させるということも知らせず、女性が女性であることを意識させるような手法をアンカリング手法と言うらしい。興味深いのは、そうしたアンケートの後に行われる数学テストの結果だ。一般的にアジア系の人々は数学等の理系能力が高く、女性はそれが低いと言われているが、その点数に優位な差が出たという。(35:54)

僕は同様の実験を100mに置き換えても同じことが起きるのではないかと思っている。日系アメリカ人の子達に、たとえばアメリカ人ということを意識させることと日本人ということを意識させることによって、「100mのようなプリミティブな競技でも優位な差が出るのでは?」と。ただ、そうなると、「結局、人間の思い込みや限界ってなんなんだ?」という話になる。LIMITとはなんなのか。100mの記録は伸び続けている。それで、少し前までは9秒8が当たり前だったのに今は9秒5〜6になってきている。となると、我々が限界だと思っていた9秒8とは一体なんだったのか。限界を定義する社会に影響されるのか、個人の思い込みに影響されるのか。いろいろな要素があるとは思うけれど、そこにすごく大きな興味がある。(37:00)

誰かが最初にやると、人類は一気に進化する(栗城)

栗城:登山や冒険の世界にもそれはある。エドモンド・ヒラリーさんとテンジン・ノルゲイさんのエベレスト初登頂からもう数十年経ったけれど、当時は酸素ボンベがなければ登れないと言われていた。二人が登頂に挑戦した際はベースキャンプに300人ものサポートが入っていたほどだ。しかし1980年代、ラインホルト・メスナーさんという方が、それまで医学的に不可能と言われていた無酸素登頂に成功した。で、それ以降は8000m峰に無酸素で登る人達が次々出てきた。誰かが最初にそれをやると、人類は一気に進化するのだと思う。(38:09)

それともう一つ。変な言い方になるけれど、馬鹿になることも大切だと思う。オーストラリアには1週間ほど続くという極地マラソンがあって、そこに初めて参加して優勝したという人がいる。その優勝した理由が面白い。彼だけが1週間休まなかった。理由はそれだけ(笑)。ほかの人達は「この辺で休憩を取って、栄養を取って」と、科学的に考えていた。でも、その人だけは休まず進み続けて優勝した。その意味では、自分のなかで「こういうトレーニングをして、こうだ」というふうにいろいろ考えたものが、意外とリミットになっていたりするのかなとも感じる。(39:12)

為末:アメリカで空手を10年間教えた師範代の方に面白い話を伺ったことがある。空手の世界では礼儀が重要だけれど、アメリカで同じことをやったときに大変困ったそうだ。「何故おじぎをするんですか?」と聞かれた。これは難しい。「とにかくおじぎするものなんだ」と言っても、「理由が分からない」と言われる。だからそのときはいろいろと、「背筋が云々」等々、いろいろと嘘をついて(笑)、おじぎをさせていたらしい。しかし、それを続けていくとアメリカの子供たちもリスペクトする感覚を身に付けていった。そのお話は特徴的だと思う。その方が言うには、同じものを目指してはいるけれど、日本では「とにかくお辞儀をしろ。すると感謝の心が芽生えるから」で、アメリカの場合は「感謝の心を持て。そうすると自然と頭が下がる」になるそうだ。つまり、型から入る内的世界へアプローチと、心の世界から入ることで「そうなるから自然とそういう動きになるよね」という二つのアプローチに分かれると思う。栗城さんは両方をやっていると思うけれど、トレーニングにも科学的に理解したうえで行うトレーニングと、「もう、やっちゃえ。そうすると何か見えてくるから」という、“バカになる”世界があると思う。ただし、今の社会は後者の「ええい、やっちゃえ」といった部分が弱い。すべて説明しないと始められないような感じ。「とにかくやってみなはれ」というのも大切だと思うが、その辺はどうお考えだろう。(40:05)

栗城:「変態の人は自分が変態であることを分かっていない」というのはよく言われることだし(笑)、「自分はどうなのかな」とも思うけれど、山の世界にも型から入るという側面はあると思う。登山の技術には独学で勉強できないことも多い。やはり先輩方とともに登ることで、生きた技術が培われていくという面はあるのだと思う。(41:49)

どんな山でもどんなチャレンジでも、そこには学びや成長があるから楽しい(栗城)

為末:質問を続けたい。人が変わる条件は何だとお考えだろう。ニートだったこともある一時期の栗城さんと、世界で一番高いところへ登ろうとしている今の栗城さんは、多くの人にとって繋がらない。でも、ご自身のなかでは何かしらの繋がりがあると思う。その間に「自分が変わった瞬間」というものが、もしあればそれもお聞きしたい。会場にも「僕はあの日に変わったんだ」ということを体験している人が比較的多いと思う。ただ、それを再現させて、あるいは他の人に伝えていく作業がすごく難しい。(42:17)

栗城:単純に、失恋かなと(笑)。あと、体験的に「これが答えに近いのかな」と感じるのは、とにかく体を動かしてみること。意味もなく日本を横断して歩いてみる等、仮にそれが自分のなかで理屈として繋がらなくても、とにかく「この先に何があるのか」と身体を動かし続けるアプローチは有りだと思う。そうするうち、振り返ってみたら「あ、自分はこんなことになっていたんだ」という話になる。とにかく体を動かして、それで何かに挑戦してみるというのが答えに近いのかなと思う。(43:18)

為末:もう一つ。今回のような集まりには僕もいくつか参加しているけれど、そこでは「どうやって?」というHOWTOの議論になることが多い。ただ、最も根本にある、「何故成長したいと思うのか」、「何故目的を達成したいのか」という議論になることは少ない。きっと登山の世界でも大きなテーマだと思うが、それは突き詰めると「何故自分は生きるのか」という話でもある。「何故山に登るの?」というのはよくある質問だと思うけれど、そのあたりで何かお考えはあるだろうか。(44:19)

栗城:「そこに山があるから」という有名な言葉はあるけれど、自分が実際に何故登山をするのかとなると、なかなか難しい。僕に関して言えば、今はエベレストに無酸素で登り、それを中継するという目標や夢がある。ただ、そのあとはどうなるか。多分登山は続けると思う。どんな山でもどんなチャレンジでも、そこには絶対に学びや成長があるから。それが楽しいのだと僕は思う。それともう一つ。何かに挑戦すると、それを誰か見ている。それで、そこから派生していろいろな人と繋がることもできる。今日もそうだ。そんな風にして出会いが増えていくのは大きい。理由はその二つになると思う。その意味でも山は多くのものを僕に与えてくれたと思うし、そこに感謝している。(45:14)

※後編はこちら

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