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かものはしプロジェクト 村田早耶香代表 −想いをかたちにする力(講演)

投稿日:2012/12/17更新日:2019/04/09

彼女の命の金額はそのとき自分の着ていたワンピースと同じだった

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皆さま、こんばんは。特定非営利活動法人かものはしプロジェクト(以下、かものはし)の共同代表を務めております村田と申します。今日は、これほどたくさんの方にいらしていただいたこと、本当に嬉しく思っています。

冒頭でご紹介いただきました通り、私は19歳の頃からアジアで売られる子どもたちの問題を無くすための活動してきました。少し若めに見えるそうなのですが…、皆さま一斉に顔を上げてご覧になりましたね(会場笑)。1981年生まれで、現在31歳になります。その人生のなかで12年、この活動に携わっています。今日はひとりでも多くの方に、この売られる子どもの問題について知っていただきたいと思っております。

先ほどまで名刺交換をしていたのですが、本会場にはご自身で団体を立ちあげた方ですとか、これから「東南アジアで活動していこう」、「社会起業していこう」とお考えになっている方ですとか、色々な方がお見えになっていることを知りました。今日はそういった皆さまに私の経験から何かご提供出来ることがあれば、あるいは何かご参考にしていただけることもあればとも思っています。

まずは私が現在の活動をはじめることになった経緯と、そのときの思いについてお話しさせてください。きっかけは当時通っていた大学の授業で知った、売られていく子どもたちの話でした。

私はフェリス女学院大学という横浜の女子大に通っていまして、1年生のときは本当に普通の大学生活を送っていました。授業に出て、サークル活動をして、ときどき講演会にも出るという、そんな大学生活です。女子大でしたので服装にも気をつかって、ショッピングにもしばしば行っていました。

ところが2年生になって、国際問題の授業でミーチャという売られた子どもの話を知ります。これが最初のきっかけですね。配布された新聞記事によると、12歳の彼女はタイの非常に貧しい農村で暮らしていました。お父さんには仕事がなく、お母さんはすでに病気で亡くなっています。しかし彼女にはたくさんの弟や妹がいて、皆、学校に行っておらず、毎日お腹をすかせている状態でした。そこでミーチャが働きに出たら、家族全員が助かるという状況だったんですね。ですから親孝行な彼女は働きに出たのですが、その先で騙され、買春宿に売られていきました。14歳のときです。

それからは毎日、殴られながらお客さんをとることを強要されるという生活だったそうです。自分の意思に反して閉じ込められ、強制的に働かされる。自尊心を深く傷つけられた挙句、彼女はエイズを発病してしまいます。そして最終的にはエイズホスピスのなかで20歳のときに亡くなりました。スクリーンでご覧いただいている写真を撮られた9カ月後に亡くなっていて、体重はこのとき30kgぐらいしかなかったそうです。

記事のなかで、彼女は日本人が行ったインタビューに答えています。「私には本当は夢があって…、学校へ行って勉強というものをしてみたかったなあ」と話していたそうです。「もし勉強することが出来たら、私みたいな子どもを売る人を捕まえる警察官になれるから」と、そう話していた彼女が亡くなったという記事でした。当時の私と1歳しか違わない人がこんな風に売られてしまう。これほど親孝行な子がこんな風に深く傷つけられて亡くなってしまった訳です。

その話を聞いていた当時の私といえば、本当に普通に暮らしていた訳ですね。実はちょうどその日、私は大学の授業をさぼっていました。6月で強い雨が降っており、その日は一限の語学と二限の経営学をさぼってから三限の国際問題に出席していました。そんな、本当にありきたりでぐうたらな私が年間およそ100万円を親に出して貰いながら大学まで行っている一方、親孝行な彼女は生まれた国が違うだけで勉強も出来ずに亡くなっているという、そういう現実を知ったのです。

彼女が売られた金額は日本円でたった1万円だったそうです。「私がさぼった語学と経営学の授業1回ずつに支払う学費をもし寄付にまわしていたら、彼女は助かったかもしれないんだな」ということに、そのとき気が付きました。しかも私がそのとき着ていたワンピースはちょうど1万円で買ったばかりのものだったんです。このワンピース1枚と彼女の命が同じ値段だったということ。そんな、本当に不条理な現状があることを知りました。

当時の私は、もともと国際問題を勉強しようと思って進学していたことに加え、ミーチャと歳が近かったということもあってこの問題を放っておけない気持ちになりました。それで図書館へ行って調べてみたのですが、そこでミーチャのような子が世界中に毎年200万人も出ているという記載に出会いました。そのとき読んでいたのはユニセフという国際機関が出している本でしたから数字も比較的、信頼出来るものだったのですが、それほどたくさんの子どもが毎年被害に遭っていることが分かった訳です。

文献には本当に酷い人権侵害がたくさん載っていました。たとえばタイで被害にあった16歳の女の子は、自身の境遇から逃げ出そうとしたのですが結局捕まえられて、見せしめに指を切り落とされてしまいました。あるいは毎日殴られながらお客さんをとらされた女の子は、最終的には保護されたのですが、「もう自分には価値がないし、一生結婚も出来ないし、穢れてしまったから親に合わせる顔がない」と考え、絶望の中で自ら命を絶ってしまいました。そういう酷い話をたくさん読みました。

逃げ出す手段もないまま1回30ドルで売られ続ける子どもたち

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あまりにも酷い話ばかりだったので、「本当にこんなことがあるのかな」と、当時の私は多少、懐疑的にも考えました。ひょっとしたら支援が欲しさに誇張して書いているのではないかとも思ってしまったんです。ですから現実を見るために、私はお金を貯めて現地へ行くことにしました。生まれて初めてスーパーで試食販売のバイトをしてお金を貯めて、NGOの方に連れて行って貰いました。最初に訪れたのはタイで、そのあとカンボジアにも行って状況を見てきました。

そして実際に行ってみた結果、本に書かれていたような話が現実にあることを知りました。私の話だけではなかなか伝わらない部分があると思うので、ここで少し、会場の皆さまにも買春宿の映像を実際にお見せしたいと思います。一部、ショッキングな箇所もあるかと思いますが、現実に起こっていたことをお伝えしたいのでご覧いただきたいと思います。カンボジアにある買春宿の映像です。映像自体は『NBCニュース』というアメリカのニュース番組が撮影して放送したものです。

----以下、映像とともに----

今、隠しカメラでNBCのカメラマンが撮影をしています。お客さんのフリをして入ると16歳ぐらいの子が出てきたので、「もっと小さい子を買いたい」と言ったところ、出て来たのが画面に映っていたようなすごく小さい子どもたちです。ひとりは5歳、もうひとりは9歳です。これほど幼いにも関わらず、大人相手に体を売らされています。ひとりおよそ1回30ドルで売られています。そこに警察官が乗り込んで、子どもたちを救出し、買った人を捕まえていったという映像ですね。

この様子が撮影されたのは2003年ですが、カンボジア国内で被害者となっていた子どもは当時およそ1万5000人いたと言われています。18歳未満だけで国内にそれほどいたんですね。ほとんどの子どもが騙されて農村から連れてこられています。「都会に行けば良い仕事があるよ」と言われ、貧しい家庭の子どもたちがこのように売られてきていたということです。

騙されて連れてこられる訳ですが、一旦買春宿に到着すると鍵の付いた部屋に閉じ込められてしまうので自力で脱出することはほぼ不可能になります。出ていくためは3通りの方法しかありません。ひとつは先ほどご覧いただいた通り、救出にきた警察官に保護して貰う。もうひとつがエイズに感染し、そして発病してしまうことでお客さんをとれなくなる。そしてもうひとつが、たまたま見張りがいないときや鍵が開いているときに自力で逃げ出すか、です。ただし、自力で逃げ出しても捕まって連れ戻されると酷い虐待を受けます。見せしめのために皆の前で裸にされて、殺害されてしまった子どももいます。

こういった酷い人権侵害が起きている訳です。子どもを買いにやってくる人々のなかには、先進国では子どもが買えないからという理由でやってくる人たちが多くいます。

今映っている子は14歳です。先ほどのような大変貧しい生活のなかで隣国のベトナムから売られ、買春宿で働かされていました。「カンボジアのプノンペンにあるカフェで働いたらお金を稼いで家族を養えるよ」と言われていたんです。ところが実際に行ってみると、カフェだと言われていた場所は買春宿で、そこから逃げ出すことも出来ずお客さんをとらされていました。「家族を助けるために苦しみに耐えました」と話すその子にどれほどのお客さんをとらされていたのかを聞いてみても、「もう多過ぎて分からない」と言っています。

----以上、映像とともに----

初めてご覧になって、「こんなに小さな子が売られているんだ」と驚いた方は多いと思います。実際にこれほど小さな子どもたちまで売られていて、まだお客さんをとるような年齢の体でもないためにオーラルセックスをさせられています。カンボジアでは5歳ぐらいから子どもが売られています。

カンボジアは20年近く内戦状態にあり、ご覧いただいた映像が撮影された当時は貧困ライン以下の人々が国民のおよそ35%を占めていました。貧困ライン以下の生活というのは、1日1食べられるかどうかですとか、屋根のある家で生活出来るかどうかですとか、人間的な生活がなかなか送りにくいレベルを指しますが、そうした人々が全体の3分の1近くを占めていたという状況です。そういった貧困のなかで、「農村から都会に行けば良い仕事がある」という言葉に騙され、連れてこられている子どもがたくさんいるんですね。

そして誰が買っているのかというと、その多くが先進国である自分の国では買えないために、法律が整備されていないカンボジアなどの国にやってきているという人たちです。なかにはカンボジアの人が買う場合もあります。エイズが大変な勢いで広がっていたために「なるべく若い子を買ったほうがエイズにかからないだろう」と、13〜14歳という若い子が好まれて買われているという状況もありました。ですからより低年齢の子どもが被害に遭いやすい状況になっていました。

現地へ行って、あるいは文献を読んで痛感したのは、被害に遭った子どもたちは身体的にも精神的にも大変傷つけられるということです。毎日虐待を加えられながら働かされるので、体にたくさんの傷があったりもします。体の傷は保護して治療すれば消える場合もあるのですが、エイズにかかってしまっていると発病して亡くなるケースがあります。また、幼いときに殴られながら買春を強要されるという経験をすると、深く大きな精神的トラウマが残ってしまうんですね。ケアをしてもなかなか回復せず、最悪の場合、保護されたあとに自ら命を絶ってしまう子どももいます。愛情表現の仕方が分からなくなってしまったままの子もいました。

たとえ大きな国際会議でも提案するだけでは現実は変えられないことを知った

こういった子どもが売られる問題は「現代の奴隷制」と呼ばれています。国連のILO(InternationalLabourOrganization)も「最悪の形態の児童労働」という表現をしています。

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こういった状況を現場で見ながら、私はとにかく、「どうにかしたい」と思いました。先ほどのような映像をご覧いただいたことで空気がすごく重くなっているようにも感じますが、実際のところ非常に重く、大きな問題です。ですから私自身、「どうにかしたい」と思う一方で、「本当にこんな問題と立ち向かえるのか」という気持ちもありました。

ただ、やはり被害に遭った人たちと実際に話をしてみて、「どうにかしてこれを無くしたい」という気持ちが抑えられなかったんですね。「まだ自分は未成年だし大学生だけれども、日本に生まれたからにはきっと何か出来るのではないか」と思いました。売られている子どもたちの値段は1万円ですとか、高くても10万円ぐらいです。それならば自分がそのぶん、日本でアルバイトをして稼いだりすることも出来ます。あるいは「寄付を集めて現地に送れば、少なくとも何人かを助けることが出来るのではないか」ですとか。とにかくそんな気持ちで活動をはじめることになりました。

それで最初は関連するセミナーに出たり、本や資料にあたって勉強するというところからはじめました。そうしてセミナーに何回も出ているうち、顔見知りも少しずつ増えてきました。で、そのなかに外務省の方がいたんですね。ちょうどその頃、2001年12月に横浜でこの問題をなくすための世界会議が開かれることになっていました。そこに各国外務大臣クラスの人たちが集まり、話し合いをするという予定だった訳ですね。で、そこで決まったことがそれぞれの国で法律に反映されたり、予算の配分に反映されるということになっていました。

ですからもしその会議で話し合いが前に進めば、問題を解決するにあたって非常に大きな前進になるのではないかと思いました。で、その会議には日本の若者も参加出来るということを知って、私もぜひそこに参加して、話し合いを前に進めたいと思いました。もっと政府のお金をこの問題の解決に使って欲しいですとか、もっと先進国で性教育を実施して欲しいですとか、そういった提案を盛り込んでリーダーの人たちに聞いて貰い、実際に動かしたいと思ったんです。そこで出席者に立候補したところ選んで貰えまして、2001年、19歳で参加ができました。

会議にはさまざまな国の外務大臣が来ていましたし、NGOの方や各国際機関の方も集まっていました。そのなかで提案を出し、最終的には国連の文書にして貰ったという訳です。自分としてもそこで出来る限りのことをやろうと思っていましたので、大学の授業で250人近い若者の声を集めて意見をまとめ、それを同会議に持って行きました。それで「日本の若者はこれほど、この問題をなくしたいと思っています」といった話をしたり、アピールをしたりして、当時の自分に出来る限りのことをやっていきました。もうほとんど寝ずに準備を行ったうえで会議場へ赴いて、体力の限りを尽くして参加してきたという感じです。

ただ、一番上のレベルにおける政策決定の場でどれほど提案しても、世の中は変わりませんでした。提案をして聞いて貰うこと自体は出来ました。それで「子どもと若者が頑張ったね、良かったね」と言っては貰えたのですが。しかし提案をしただけでは駄目なんですね。実際に予算の配分が変わったり、法律が改正されたりするところまで政府にお願いし続けないと、世の中は結局変わらないということが分かりました。同時に、それには大変な時間がかかることも知りました。

また、日本の若者代表として参加していた私ですが、そのときまで、これほど日本人として批判を受けるとは思っていませんでした。日本の若者として参加をすると、「世界で一番児童ポルノをつくっているのは日本だ」という風に名指しで批判されたんです。また、アジアで一番、加害者を送り出しているのは、経済の状態が最も良い日本であるということも言われました。ですから日本人として参加をしてすごく恥ずかしい思いをしたという気持ちもあります。

日本で海外でこういった問題への活動を行なっている団体の数も少なかったんですね。ですから会議が終わったあとに「今後はどういった活動していきますか」という話をしても、実際にそれを進めていく人も団体もなかなか見つけられない状況でした。私もそれから半年ほどかけて色々な団体を訪れ、売られる子どもの問題を無くすための部署をつくりましょうですとか、プロジェクトをはじめましょうといったお願いをしていきました。しかし、当時大学生であった私の提案はなかなか通りませんでした。

それで、「1年かけてこれほど活動してきても既存の団体では出来ないというのであれば、もう自分で団体を立ちあげたほうが早いかな」と思うようになりました。それまでは1年近く、どうにかしてこの問題を無くしたいと思いながら色々な人に話をし続け、行動し続け、自分に出来ることをひとつとつやってきた訳ですね。本を読んで勉強するところからはじめ、色々な講演会や世界会議にも出席して、ボランティアも行ないました。そいうことをやってきて1年経った頃、今の仲間と出会い、新しい団体をつくることになります。

2人の事業パートナーとの出会い、勘当も経て起業へ

私がそのとき出会った2人の仲間は、東京大学でビジネスの勉強をしていました。皆、当時は大学生で、彼らも私がたまたま参加していたセミナーにいたんです。2人とも最初はまったく違う分野の勉強をしていたのでなかなか共感し合えなかったのですが、私はすごくしつこかったんですね。思いだけは強かったので、「とにかくどうにかして子どもが買われている状況を無くしたい」という話をし続けていました。そうしているうちに2人ともだんだん興味を持って聞いてくれるようになり、ある日、2人から「団体をつくらないか?」という提案を貰いました。

当時の2人は色々と勉強していたなかで、「社会起業」というものに興味を持ちはじめていたんです。ビジネスの良い部分を使って社会問題を解決するという、そんな起業の形があるということを私もそのときに知りました。で、彼らのほうは「自分たちもそういったことをやりたいのだけれども、自分の人生をかけてやりたいというテーマがまだ見つかっていない」と言うんです。

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私は逆で、テーマは見つかっているけれども、どうすれば良いかを模索をしているという状態でした。色々と会議にも出席したし、NGOでボランティアにも行ったけれど、それでも問題はなかなか解決しなかった。ではそれでどうすればこの問題を無くせるのかと考えるなかで、私も「ビジネスというものはすごく大きな力を持っているから勉強していこうかな」と思うようになっていました。そんなときに二人と出会ったという訳です。そこで社会起業という概念とともに、ビジネスの良いところを活用しながら子どもが売られる問題を無くしていく。そんな起業をしないかと2人から提案されました。

当時の私はまだ20歳になったばかりでした。ですから、もっと人脈を広げて、お金を溜めて、経験を積んで、そして20年後の40歳になったら自分の団体を立ちあげよう、ぐらいの長いスパンで考えていたんですね。しかしその話をしたら、二人から「人脈がないのなら人脈のある人に紹介して貰えば良いし、お金がないのであれば少しずつ色々な人から集めたら良いし、経験がないのであれば似たような経験をしている人からアドバイスを貰えば良い」という風に説得をされました。「今足りないところについては周りの人に力を借りれば、それだけ早く子どもたちを助けることが出来るんじゃないのか?」と言われたんです。

もちろん、「リスクがあるかな」、あるいは「大丈夫かな」という不安はありました。ただ、私としてもどうにかしてこの問題を解決をしたいという風には思っていたので、それなら出来るところまでやってみようと考えるようになりました。それで20歳のとき、今から10年前の2002年7月に、「かものはしプロジェクト」という団体をつくりました。これが団体設立の経緯です。

なぜ「かものはし」なんていう変わった名前になったのかと言いますと、私はもともとこの動物が好きだったんですね。しかも、ちょうど「カンボジアと日本の架け橋」という音が「かものはし」という読みに少し似ていたので、「じゃあ、これにしよう」と。会場の皆さまから納得感を得られている印象がまったくしないのですが(会場笑)。で、「プロジェクト」という言葉を足したのは、早く問題を解決して早く解散したいという気持ちがあったからです。プロジェクトというと短期間で終わるイメージがありますよね。それでかものはしプロジェクトという名称で10年前に立ちあげました。

私はそのあと大学を卒業して現地へ行くことになるのですが、その間、親に一度勘当されています。私の父親はボランティアがすごく好きで、私もそんな父の影響でこういった活動をはじめていた部分があります。ただ、父とすれば実際に自分の娘がカンボジアへ行ってゼロから事業を立ちあげるとなると、失敗したら後戻り出来ない訳ですし、「もし拉致でもされたら」といったことを考えてしまったようです。

それで、「もしやるのなら家を出ていきなさい」と言われて、一度は諦めそうになった時期もあります。しかし最終的にはそれも乗り越えることが出来ました。なぜ父が反対していたのかを考えたのですが、私を心配して守ってくれていたのだというのがよく分かりました。そこで私はとにかく一カ月、自分の貯金を使ってカンボジアに滞在することにしました。そのなかで「私は本当にこれがやりたいのか」ですとか、「本当に人生を掛けてやる意義があるのか」ですとか、そういったこともよく考えました。

そこで5歳の被害者に会って、「やっぱり5歳の子が売られているのはおかしいよな」と思った訳です。そして帰国したのち、父親が最も機嫌良くしているときを見計らって説得を試みました。もう「うん」と言うまで離さないということをやったんです。そして22歳のとき、当初は「勘当する」と言っていた家族全員をなんとか説き伏せて改めてカンボジアに渡航し、そこでゼロから事業を立ちあげることになりました。

父親の説得もかなり大変でしたが、やはり一番大変だと感じたのは現地で事業を立ちあげたときですね。私は知り合いもまったくいない状況のなかで、最初のひとり暮らしをカンボジアのプノンペンでスタートさせました。どのような段階でも「これは大変だよな」とは思っていたのですが、その後はもう先に進めば進むほど大変なことが湧いて出てくるようになります。

当時はNGOを立ちあげた方の著作を読むなどして、まったく何も分からない状態から勉強していったのですが、それでもよく分からなかったので色々な方にお話を聞きました。日本人が運営するNGOの現地駐在員の方にも頻繁に相談しています。どうすれば事務所を立ちあげられるのかですとか、とにかく色々なことを伺いながらひとつひとつ物事を進めていきました。

カンボジアでの始動、悩みながらの事業モデルの転換

私たちが最初に考えていた事業モデルは、ITを使って売られる子どもの問題を無くすというものでした。これは日本で考えていたモデルです。具体的には、売られそうな12歳前後の子どもを保護して、職業訓練所でまずは読み書きや基礎学力を身に付けて貰います。そして英語とパソコンの教育を行って、卒業したあとはNGOや企業に就職するというものですね。そこを卒業してプログラマーになるような子が何人か出てきたら、日本企業からも仕事を請けます。ウェブサイトをつくる仕事のなかにコーディングという部分があるのですが、その外注を請けるという形ですね。それをカンボジアにある職業訓練所の人たちが担当して、納品を行うという事業モデルを考えていました。

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事業の基点として、さらに前には実はタイを想定していました。当時、子どもが売られる問題の状況としてタイが最も酷いという文献が多かったんですね。進学率で言うとタイでは8割が中学3年生を卒業するという状況でしたから、タイ人の学力であればこのモデルには可能性があったと思います。ただ、よくよく調べていくとカンボジアのほうが酷い状況にあるということがその後分かったので、私たちは活動場所を途中でカンボジアに変えることにしました。

ところが実際に現地に出てみて、カンボジアではこの事業モデルが若干合わないということを感じ始めることとなります。それでも一度はこのモデルで決めて、ITの仕事をはじめみたんです。実際、その結果としてクライアントがついた子もいますし、IT企業で働けるようになった子もいました。何よりこの事業モデルで寄付や助成金をいただいていたので、「まずはこれでやっていこう」ということで現地に入り、仕事を続けていくことになりました。

私自身は大学を卒業したあと6月に現地へ入り、12月にパソコン教室を立ちあげています。そこで、元々ストリート・チルドレンであったり、貧困層出身であったり、かつて買春宿で働いていたりというような孤児院の子どもたちに職業訓練を行ってきました。まずワードやエクセルを教えてから、だんだんレベルを上げていって、最終的にはウェブサイトのデザインが出来るところまで指導していきました。その結果として、なかにはNGOから仕事を請けて、子どもたちが実際にデザインをして納品するというところまでいった案件もあります。

その一方で、当時は日本におけるIT事業のほうも少しずつ伸びていました。2006年ぐらいからは年間でおよそ4000万円を稼ぐことが出来るようになっていたんですね。で、それとともにカンボジアにおける職業訓練所の受け入れ人数も120人まで増やしていきました。そんな風にして大変順調に活動を進めていったのですが、苦労して建てたその職業訓練所をどうするかというところで、私たちはそのあと団体分裂の危機を迎えることになります。

ちなみにその120人におよぶ子どもたちのなかでは、元々ゴミ山に住んでいたナルン君という子が海外留学までするようになったというケースも出てきていました。プノンペンにはゴミ山があって、そこに捨ててあるペットボトルなどをズタ袋一杯に集めると15円ほどで売れるんですね。ナルン君は保護されるまで、そんな仕事にしていました。しかし彼は保護されたあと、孤児院からパソコン教室へ通うようになりました。

彼は勉強への意欲が非常に高い子でした。朝は5時半に起きて孤児院で勉強し、午後は学校へ行ってパソコン教室にも通うという生活をしていました。それで成績も一気に上がっていき、学校で一番の成績をとるようになりました。彼はそのあと飛び級をして、最終的にはシンガポールへ特待生として留学していきました。彼はいつも中古のパソコンをいじっていて、「将来はエンジニアになりたい」と言っていました。ずっと居残りをして勉強を続けるような子だったんです。そのほかにもITのスキルがあったため、孤児院出身ながらインターナショナルスクールの事務員として採用された18歳の女の子も出てきてました。そのような成功事例も出てくるようになって、事業モデルとしては一応回りそうな感じがしはじめていたんです。

 

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しかし、その事業をはじめてからおよそ1年後に危機が訪れます。これは特に現地で感じていたことなのですが、売られている子どもたちの状況と、私たちの支援を受けている子どもたちの状況とのあいだにギャップが出てきていたんですね。買春宿に売られてきている子どもたちの多くが農村の貧しい家庭出身です。彼女たちのほとんどは、まったく教育を受けていないか、あるいは小学校を途中で辞めているというような状態でした。

一方、孤児院に来ている子どもたちはどうかというと、保護されている時点ですでに売られるリスクはかなり低くなっている訳ですね。孤児院を抜け出さない限り、買春宿で発見されるということはほとんどない状態でした。もちろん、そのような保護された子どもたちに教育を行なって成長して貰うことにも大きな社会的意義はあります。かつ、それが事業モデルとして回せるようになってきていたという状況もありましたし。

ただ、当時は「果たして私たちはこれを続けていくことで、本当に売られる子どもの問題を防止出来るのだろうか」という疑問にぶつかってしまったんですね。元々の活動場所として考えていたタイとは就学率が大きく異なるので、被害者の学力も大きく異なっていました。ですから「この事業モデルをこのまま続けていって本当に良いのか」という疑問が、特に現地スタッフから出てくるようになりました。

実際、私が現地へ行って彼らスタッフと話していると、その事業モデルに対する不満が少しずつ出てくるようになっていました。それを私自身が上手にマネジメント出来なかったんですね。事業方針をうまく転換していけば良かったのですが、日本側に話してもなかなか伝わりません。現地駐在の代表が本社に話をしてもなかなか理解して貰えないというのは企業さんでもあるかと思うのですが、それと同じ状況に陥っていました。で、私自身、戦略を考えるのがあまり得意ではなかったということもあって、その辺をなかなか上手くマネジメント出来ていなかったんですね。それが次第に「リーダーシップが上手く取れていない」といった私自身への批判も出てきて、団体と私に対する批判の両方を受けるようになっていきました。

それで、「事業モデルをとるのか、それともミッションをとるのか」という話になり、団体のなかで分裂がはじまりました。「社会的な意義があるのだからやったほうが良いのではないか」という意見と、「私たちはあくまで子どもが売られる問題をなくすために活動しているんだから、それをやらなければ意味がないじゃないか」という意見がぶつかるようになりました。ですから私たちは一度、全メンバーを日本へ呼び寄せて話し合いを行いました。その結果として、ミッションを重視して、今までの事業モデルをすべて捨てることになったという訳です。

そこで2007年、それまで手掛けていたパソコン教室をすべてやめて、2008年からは新しく農村支援の事業モデルをつくろうということで合意しました。この辺については話が少し込み入り過ぎてだんだん眠くなってくるかなと思うのですが(笑)。とにかく状況は5年単位で変わっていくということがやってみてよく分かりました。ですからミッションを達成するためには柔軟に事業モデルを変えていくことで問題解決を図る必要があるということで、皆が合意をしました。

そういった議論のなかで、団体が一度分裂しそうになっていたんですね。私自身、「事業モデルをとるのであれば団体から出ていこうかな」と思ったときもあります。逆にITで入ってきた人たちからは、「今まで努力して形にしてきた自分たちのやっていることをやめるのか。どうするんだ」という意見が出てきました。それでも最終的に合意をして、IT部門は日本で資金を集めるために続けていこうという形になります。そんな風にして一度は事業モデルを変えていったのですが、最終的には誰も辞めることなく皆で合意を交わし、前に進むという状況をつくることが出来ました。

ただ、私自身は当時、自分らしいリーダーシップというものを模索しながら大いに悩むこととなりました。「戦略を考えられないのに代表をやっていて良いのか」と考えてしまったんです。でも、そこで共同創業者の二人から強く引き止めて貰いました。「皆、誰の思いで集まっているのかといえば貴方の思いに集まっている訳だから、貴方が代表じゃなかったら子どもが売られる問題の防止を進めることは出来ない」という風に説得されたんです。「だから今は辛いと思うけれど俺たちを信じて一緒にやって欲しい」と。それで、一度代表を降りようと思っていた私も続けようと決めました。

で、そのあと新たに構築していったのが農村支援の事業モデルでした。貧しい家庭のお母さんやお姉さんが雑貨をつくり、それを観光客に販売するというものです。買春宿に売られている子どもたちは、その多くが農村の貧困家庭出身です。つまり元々農業をしていた家庭なのですが、貧しいために農地を売ってしまい、結局は農業が出来なくなって出稼ぎに行くしか収入源がなくなってしまったという、そんな状況にある家庭がほとんどでした。

 

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特に片親の世帯はお母さんが出稼ぎに出てしまうと子どもだけになってしまいます。そういった世帯で長男や長女が売られていってしまうんですね。しかし、そういった家庭のお母さんやお姉さんが農村で働けるようになれば、家族で一緒に暮らすことが出来ます。また、収入が入ってくるので子どもたちが働かずに済んで、学校に行くことも出来るようになります。それが可能になる事業モデルに変えていったという訳です。

そこからも事業としては紆余曲折、色々なことを経ていますが、ある農村には私たちの雑貨工房が根付いていきました。現在はそこで130人の女性が働いており、同地域からは危険な出稼ぎも発生しない状態になっています。

“供給”を農村での工房経営によって絶つ

ここで、現在カンボジアで行なっている活動内容を少しご紹介させてください。私としては、子どもが売られる問題を無くすためには需要と供給の両方を無くす必要があると考えています。需要というのは子どもを買いたいという人で、供給というのは売られてくる子どもたちの数ですね。で、まず供給を減らすため、先ほどお話しした通り、農村支援ということで工房経営を行なっている形です。

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私たちの工房に来ているのは貧しい家庭の女性たちですが、なぜ雑貨かというと、近年のカンボジアでは観光客数が年々増えてきているためです。カンボジアでは現在、観光産業、農業、そして縫製産業が三大産業として成り立っています。そのなかでも観光業は今すごく伸びているんですね。観光客数も年々増えており、現在は年間250万人ほどカンボジアを訪れます。しかしそういった観光客の方々が買っていく雑貨では、タイ産やベトナム産が7割を占めています。

しかし、そこでカンボジア産の雑貨を自分たちの工房でつくることが出来たら、農村に仕事をつくることが出来ます。ですから今は農村でも手に入る素材を使って雑貨をつくっている状態です。カンボジアでは現在、だいたい3000円あれば4〜5人構成の家庭が一カ月生活していくことが出来ます。現在、私たちの工房で働いている女性は実際に3000円以上の収入を得ており、十分に食べることも出来ていて、かつ、その子どもたちも学校に行くことが出来るようになっています。

ここで私たちが雑貨工房をつくったときの映像も少しご紹介させてください。

----映像ナレーション----

今年8月、カンボジア北西部のシェムリアップで、民芸品工房の完成式が行われました。工房をつくったのは日本のNPO法人、かものはしプロジェクトです。現金収入を得るには出稼ぎをするしかなかった村に、初めて働く場が出来ました。14人の女性がここで働きます。かものはしプロジェクトは6年前に設立。児童買春の原因となっている農村の貧困問題をビジネスを通して解決をしようという社会起業家です。20代の3人の若者が立ちあげました。工房で働く女性たちは、6月から3カ月間、ミシンの使い方などの職業訓練を受けてきました。村には電気が通っていないため、足踏みミシンを使います。日本の中古品です。かものはしプロジェクトの活動は、村の生活を少しずつ変えはじめています。ヴァン・ケンさん、25歳。15歳から6年間、都会へ出稼ぎに行き、家政婦として働いていました。小学校は1年生までしか行っていません。ケンさんは病弱な母親と二人の甥、合わせて4人の生活を支えています。わずかな田畑しかなく、いずれ甥たちが出稼ぎに行かざるを得ないと考えていました。今では工房の給料で家族を養うことが出来ます。

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今ご覧いただいた映像は工房をつくったときのものです。NHKさんが紹介してくださったなかの一部ですね。で、最初は14人ではじめたのですが今では130人にまで増えています。被雇用者の多くは、およそ20万人が暮らしている同地域の最貧困となる人たちです。子どもを働きに出さないと生活出来ないような世帯ですね。そこで、工房に通える範囲で暮らしている女性たちのなかから、最貧困の人たちを雇用していくことにしました。

こちらの地域では小学校の就学率が100%になりました。最底辺の暮らしをしている女性たちが収入を得たことで子どもたちも働かずに済んで、小学生ぐらいの子どもたちは働きに出ないで済むという状況になってきました。この工房があるシェムリアップ州は世界遺産のアンコールワットで有名なのですが、残念ながら農村部は貧しく出稼ぎが多いです。農村部は非常に貧しく、稼ぎに出る世帯が非常に多いので、こちらの州に工房をつくって活動しています。

農村における最貧困家庭の生活は、日本の方々が想像しているよりもはるかに酷い状況にあります。たとえば写真に映っている女性、皆さまから見て何歳ぐらいに見えますか?いかがでしょうか。(会場から「16歳ぐらい」との声)…、16歳ぐらい。ありがとうございます。実際は28歳です。この写真を撮ったときの私と同い年でした。ただ、私より身長がかなり低いですよね。私の身長はあまり高いほうではなく、154cmぐらいです。ところが同い年である彼女の身長はそれよりかなり小さかった。なぜこれほど小さいかというと、成長期にきちんと食べることが出来なかったので必要な栄養を摂れず、体が大きく育たなかったためです。

 

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こんな風に、最貧困の地域には実年齢よりもはるかに小さく見える子どもたちがいます。ある家庭は親がいない3人姉妹の世帯で、近くの川で魚を獲ってきたり、周囲に生えているヤシの実やココナッツ、あるいはマンゴーを採って食べていました。それで食いつないでいたのですが、1日1食だけ。量も質も良くなかったため、体が大きく成長してくれなかったんですね。

このほかにも、ある家庭では13歳の子どもがいるものの、壁が所々剥がれている家に住んでいて、ご飯はやはり1日1食。味の染みたゆで卵をご飯と一緒に、家族3人で分けあって食べているという、そんな環境でした。そういう人たちが働きに来ることで収入を得て、十分な食べ物を得ることが出来るようになってきた訳です。そしてお腹一杯食べることが出来たうえで、子どもたちは学校に通えるようになってきている、というのが現在活動している村の状況です。

家庭によってはこれほど困窮しています。最底辺の生活をしている人たちは、そこからなかなか貧困を脱することが出来ないような状態になっているんですね。たとえばマイクロクレジットという世界的に大変浸透しているファイナンスが、カンボジアにもあります。ただ、農村をまわって調べてみると、お金を借りることが出来る家族と出来ない家族がいるということが分かりました。借りることが出来る家族はトラクターを買ってそれを貸すというビジネスを行ない、次第に貧困から脱却していきます。その一方で借りることが出来ない家族というのは、たとえば父親が働いていないですとか、借金があってそれを返さないといけないですとか、そういった状況に陥っているんですね。あるいはお金が入っても髪を染めたり洋服を買ったりして、すぐに浪費してしまう。家庭内暴力のある家庭もあります。そういった人たちはお金を借りてもなかなか返すアテが見つからない状況にありました。

マイクロクレジットも利用出来ない最貧困の人たちにはさまざまなケアが必要です。たとえば家庭内暴力があればDV專門のNGO、あるいは村長さんと一緒に入っていって問題解決をする必要があります。状況に応じたさまざまな支援が必要で、私たちとしてもそういった人たちへのサポートを行いつつ現在の事業を進めているという状態です。

たとえば、お金が入るとすぐ使ってしまうという問題に対しては、貯金するという習慣自体を浸透させたいと思っています。ですから、我々の経営しているコミュニティファクトリーでは本人が1日5円ずつ銀行口座に貯金を行い、同時にかものはしからも同額を寄付するという仕組みをつくりました。これを実施したところ、現在では100%の人が貯金をするようになっています。これで何かあったときの保険にもなる訳ですね。カンボジアにはセーフティーネットもないため、家族が病気を患うとすぐにお金を借りてしまい、結局借金が返せないという状況に陥ってしまう人が多いんです。そんなときにすぐお金を出せるようにしていくことで、状況も少しずつ変わってきました。

また、私たちの工房では毎日1時間ずつ、識字教育を行なっています。工房に働いている人々の半数は、当初は読み書きがまったく出来ない状態でした。そこで識字教育を毎日行なっていった結果、今では全員が識字出来るようになっています。そうした社会的サポートも行いながら貧困からの脱却を進めているという状態です。農村では色々な問題が起きるので、私たちとしてはそれらをひとつずつ解決しながら、働き続けられるようなサポートを行なっています。

 

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ここで、そんな風に働きはじめたことによって生活が変わった人たちを少し紹介させてください。たとえば20歳のトゥイという子(上の写真)が私たちの工房へ働きに来ているのですが、両親がいないために彼女が弟二人の面倒も見ています。それで、今までは周辺の川で獲った魚などを食べていたんですね。しかし収入を得るようになったことで、現在はきちんと3人とも食べることが出来るようになり、弟二人は小学校へ通えるようにもなりました。そういった生活の変化が起こっています。

弟が大学へ進学したという子も出てきました。ヨーンという23歳の子には高校に通っていた弟がいたのですが、彼は経済的理由で大学進学を諦めていました。しかし工房でヨーンに定期的な収入が発生したことで、彼らは銀行からお金を借りることが出来るようになりました。弟は現在、大学で会計学の勉強をしています。大学進学率が7%という国ですから貧困層から大学進学を果たすというのはかなり珍しいのですが、これはすごく良いケースです。

そして“需要”を取り締まり強化支援により絶つ

私たちはこのようなファクトリーを経営していて、現在はそれがどんどん大きくなっています。ただ、このファクトリーでも守ることの出来ない子どもはいるんですね。労働法の関係で15歳未満は働かせることが出来ません。ですから15歳未満の守ってくれる大人がいない子どもに関しては、孤児院で保護し、そこでサポートを行なっています。

タイとの国境沿いにあるポイペトという町にも売られやすい子どもたちが集まっています。街中にはその辺で寝ている家族もいますし、非常に治安の悪いスラムでは多くの人が昼間から賭博に明け暮れたいたりします。また、町を歩いていればストリートチャイルドに「お金をください」と声をかけられたりするような町なんですね。このポイペトにも孤児院があるのですが、私たちはそこを支援することで、一度売られてしまった子どもたち、あるいは売られやすい状況にある子どもたちを保護しています。

さらに言えば、買う人を減らすことが出来れば売られる子どもも減る訳ですよね。ですから私たちは需要を無くすために警察の支援も行なっています。具体的には、カンボジアの警察官がきちんと加害者を捕まえられるようにするための研修やサポートの実施です。本来であれば国がきちんと取り締まりを行うべきなのですが、これまでは国に予算がないため警察官が自腹で摘発をするような状況が続いていました。本来であればそこに予算をつけて欲しいとのですが、しかし国の収入を見てみると、だいたいその半分が外国からのODAで借りているお金か、もしくは支援して貰っているお金で占められているんですね。ですので、国の収入が少ないために予算がつけられず、摘発をあまり行わえないという状態になってしまっているんです。

ただ、やはり需要を減らしていくためには、現場で働く警察官に新しく出来た法律の内容などを理解して貰い、実際に摘発をして貰う必要があります。現在はそのために色々な機関がお金を出して、カンボジアにおける法執行の領域をサポートしています。私たちもユニセフと一緒にお金を出しています。現在は現場で働く警察官が研修を受け、実際に加害者を捕まえられるような仕組み作りや訓練のサポートをしているという状況ですね。

 

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たとえば、今までは12歳の女の子が外国人とホテルに入っても誰も通報しないという状態でした。ですから警察官に、18歳未満の買春は犯罪であり、しかも女の子たちは被害者であるという認識をきちんと持って貰う訳です。また、ホットラインも設置して、あちこちのゲストハウスやホテルで告知を行いつつ、すぐに通報出来るような仕組みをつくりました。私たちはその運営費用を出したりしています。

また、たとえば16歳の女の子が買春宿から保護されると、今までは彼女も牢屋に収監されるのが普通でした。警察側に「買春に関わっていた悪い女」という意識があったため、牢屋に入れて監視するという状態になってしまっていたんですね。彼女たちは本来であれば被害者であり、毎日殴られながらお客さんを取らされている訳です。その子たちを牢屋に入れてしまっており、しかも買春をしていたということで警察官が虐待しているケースもかなりありました。そこで彼女たちは被害者であるという認識を持って貰い、保護施設に入れて貰えるような説明も行なっています。

このほか、実習を行なって現行犯逮捕が出来るようにしたり、証拠品をきちんと抑えることが出来るような訓練もしています。これまでは書類がきちんと作成出来ていないために、裁判をしても有罪判決となるのは半分ぐらいでした。せっかく捕まえても有罪判決が出なければ再び同じような犯罪に走ってしまいます。ですから有罪判決がきちんと出るよう、現行犯逮捕あるいは証拠品押収もきちんと行えるような訓練をしています。

これは国主導で進められていたのですが、途中から私たちも参加してサポートをはじめたという活動ですね。たとえば2001年の統計を見てみますと、国全体でも加害者の逮捕数は82件しかありませんでした。1万5000人近い被害者がいるのにたった82件しか捕まっていなかった。この頃は、先ほどご覧いただいたNBCニュースのように10歳未満の子も買えるような状態でした。

 

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しかし、それがだんだん捕まるようになってくると、買春宿も18歳未満の子を雇わなくなってきます。昔は10歳の女の子を農村から1万円で買ってきて、10万円で買春宿に売って、その子が100万円近い利益をあげていたんですね。ですから買春宿のオーナーはなるべく若い子を買って高く売らせていました。平均年収が7万円しかないカンボジアで、彼らはそれで年90万円ほど稼いでいたんです。ものすごく儲かるビジネスだったのでたくさんの人が手掛けていました。

けれど子どもを雇っているせいで営業が出来なくなってくると、彼らもだんだんと子どもを雇わなくなってきたり、場合によってはビジネスを鞍替えしたりしていきます。昔は買春宿だったところが現在はコーヒーショップになったりしているんですね。そんな風に変わってきているので、どんどん摘発を行ったうえで子どもを保護していくことが重要になると思っています。実際のところ、それが少しずつ行えるようになっており、現在では年間およそ720件の逮捕を数えるまでになってきました。

現在では買春宿に行っても10歳未満の子はほとんど出てこない環境になっています。「警察に摘発されるから子どもは売れません」と話す買春宿も増えてきました。残念なことに14〜15歳の、化粧をしたら大人にも見えるような年齢の子どもたちは未だに売られているのですが、被害者の数自体はだいぶ減らすことが出来るようになっています。

これらのプロジェクトが上手くいった背景として、現在の警視総監が大変やる気のある方で、LEAP(LawEnforcementAgainstProhibition)という人身売買を防止するためのプロジェクトで陣頭指揮を執っていることが挙げられます。また、ほかにも若くでやる気のある人々が中心になって動いているという影響もあるでしょう。私たちとしても国と一緒に動くことが出来るので、効果が非常に出やすい状況であると言えます。こういったプロジェクトでは、ユニセフ、ワールド・ビジョン、あるいはかものはしなどが一緒に活動しています。

カンボジアでの成果を経て、活動は南アジアへ

そういったさまざまな活動もあって、現在、カンボジアの被害者数はだいぶ減ってきました。カンボジアにある買春宿の多くは内戦が終わったあとに出来ており、そこに売られてくる子どもや女性はピーク時で1万5000人にまで増えていました。正確な数値は分からないのですが、現在はおよそ1000人ぐらいにまで減っているのではないかと言われています。買春宿で「一人、二人…」と数えることは出来ませんので数字はあくまで概算ですが、18歳未満の子どもはそれぐらいまで減っているのではないかという見方も出てきています。

現在は買春宿へ調査に行っても、子どもがほとんど出てこない状態になりました。街中でもホットラインの番号が設置され、「子どもが売られることは犯罪です」といったポスターを貼っているところのほうが多くなってきています。買いにくいという雰囲気を含め、簡単には子どもを買えない状態になってきました。最初にカンボジアへ入った頃は「本当に難しいな」という印象を私も持っていたのですが、10年間活動をしてきて、現在はだいぶ状況が変わってきていると感じます。

今後もさらに、1000人をゼロに減らしていくための活動を進めていく訳ですが、私たちはこれらの活動をそれぞれの段階に分けて捉えています。カンボジアでどこまでやるかについては、二つのステップに分けて考えているんですね。昔のカンボジアでは警察がまったく捕まえないのでNGOが摘発をしなければいけないというような状況でした。それで被害者もたくさん出ていたのですが、現在はそうした環境もだいぶ改善されてきました。ですからこれからは、現在の状況を持続的なものにしていくための支援が必要になってくると私たちは考えています。

その一方で、NGOも政府もきちんと摘発を行えていないという国はまだあります。ですからカンボジアに関しては状況を持続的に良くしていくためのサポートをしていく訳ですが、緊急支援が必要な国では政府やNGOによる摘発のサポートを計画しています。

世界の状況を調べてみますと、特にインドやバングラデシュといった南アジアが酷い状況にあります。こちらの地域では人口が多いということ、被害者に対する社会的差別が非常に根強いということが、問題の背景として存在しているんですね。一度買春をしてしまうと社会復帰が大変難しくなります。エチオピアやケニアにも同様の問題はあるのですが、被害者に対する社会的差別は、アジアのほうがより社会復帰が難しい状況です。ですから私たちはまずアジアから進めていこうということで、インドとバングラデシュに活動を広げていきたいと思っています。

 

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インドというと経済発展をしていますし、「BRICsの一員じゃないか」と感じる方はいらっしゃると思います。たしかに街中には高層ビルが立ち並び、電機屋さんには本当にたくさんの製品が売られています。しかしその一方で最貧困層も存在しており、そこで暮らす人たちはカンボジアの農村で過ごす貧困層とほとんど変わらない生活を送っているんですね。実年齢より体が小さく、テントのようなところに住み、お金が足りなくなると娘が買春をするといったような状況に陥っています。

人口が非常に多いインドですと、その被害者も100万人近くいる可能性があると言われています。インド人の貧困層、ネパール人、あるいは隣国バングラデシュから子どもたちが売られてきているんですね。私も実際にインドへ行って被害者の保護施設を訪れたのですが、18歳未満の子どもたちが普通に出てきてしまう状態でした。私はそこで13歳になるバングラデシュ人の女の子や17歳になるネパール人の女の子と会いましたが、皆、本当に酷い状況で売られています。

成果を出していくためには、まず法執行のバリューチェーンをきちんと動かしていくことが不可欠になりますね。すでに法律自体はあるのですが、捜査、裁判、そして被害者の社会復帰という一連の流れにおいて、ところどころ足りていない部分があるためです。

特に私たちが問題であると考えているのは、裁判をしても有罪判決があまり出ていないという部分です。現在は、裁判をしても20%ぐらいしか有罪判決が出ていない状態になっているようです。そういった状況も併せて考えてみますと、被害者がきちんと証言台に立って証言するということが現在は難しい状況であることが分かります。

被害に遭った人が裁判で戦っていくには長い年月が必要になります。しかし「自分が被害に遭ったこと皆に知られてしまう」と恐れる人や、法廷で戦っていけるような精神的ケアをきちんと受けていない人が多いんですね。ですから被害者のケアをしている団体の支援、あるいは法律家をつけたうえでの裁判支援などが必要になってきます。もちろん警察官がきちんと捕まられるようなサポートですとか、出身地に戻った被害者のケアといった支援も必要になります。

また、インドに関しては非常にたくさんのNGOがすでに活動しています。非常に優秀なインドの方々が自分たちの力で団体をつくり、活動を大きくしているんですね。それらの団体がそれぞれの地域では頑張っています。ただ、都市によってはそういった活動がまったく生まれていなかったり、各団体で連携が上手くいっていなかったりといった実情が現地へ行って分かりました。

ですから被害者を保護する団体の施設に、たとえば子どもたちをケアをする団体のノウハウをいれていくですとか、保護された施設の子どもたちが裁判を行うとき、こんどは法律家のサポートを付与していくですとか、そういった支援が今後は必要になってきます。私たちはそんな風に各団体を支援しながら、さらには繋げていくというやり方をインドで進めていきたいと考えています。

どんな酷い問題も時間をかけ丁寧に進めれば解決はできる

長々とお話をしてきたのですが、私たちは現在、こういった活動をカンボジアとインドで進めてきております。ですから今日の話をお聞きになって、「この問題についてなんとかしたい」という風に感じてくださった方がもしいらっしゃいましたら、ぜひ色々な形でご協力いただきたいと考えています。資金的な支援というやり方もありますし、そのほかにもボランティア、あるいは本の寄付という方法もあります。ですから今日はその辺のアプローチについても若干ご説明をさせてください。

まず資金的な支援についてですが、私たちは現在、個人の方から月々1000/3000/5000円の会費をいただき、現地での活動に使わせていただいています。日本で集まる寄付は現地で非常に大きな成果に繋がるんです。たとえば月1000円の支援があればカンボジアやインドでは二人の警察官を育成することが出来ます。それできちんと加害者を捕まえることが出来るようになる訳です。そして月3000円であればひとりを農村で受け入ることが出来て、かつその子が働くことで家族全員が食べていけるようになります。さらに月5000円であれば二人の子どもを孤児院で受け入れることが出来て、かつその子たちがお腹いっぱい食べて、そして学校へ通うことが出来ます。そんな風にして子どもたちを守りながら、彼らが持つ将来への可能性を広げることが出来ます。

会場にいらした皆さまの多くは現在働いていらっしゃる方だと思いますが、1000円というとだいたいランチ2回ぶんですし、3000円であればだいたい飲み会1回ぶんかなと思います。そのぶんを支援にまわしていただくことで、現地の状況を変えることが出来ます。ですからもし可能であれば会員として応援していただきたいと思っています。本日会場でお配りしている用紙に寄付会員になる旨をご記入いただいて、待機している私たちのスタッフたちにお渡しいただけたら申し込み出来ます。もちろんウェブからの登録も可能です。1日で計算すると、月3000円であればだいたい100円ということになります。皆さまは毎日ペットボトル飲料をお買いになると思うのですが、その1本よりも安い値段で現地を支援することが可能になります。

また、先ほどインドにおける活動もご紹介しましたが、現在はインドで予算が足りないので、「もう少しお金が溜まったら開始しよう」と考えているプロジェクトがあります。それはインド全体で問題解決をするために色々な団体と協力してやっていこうという大きなプロジェクトなのですが、予算の都合でそこに資源を投入することが出来ていません。そこにもし資金を投入出来たら一気に問題解決を図れるかもしれないと考えています。それと同時に、現在も売られていく子どもたちをどうやって守るべきかと考えると、すごく歯痒い思いもしています。そこで仲間が増え、動いてくださる方が増えていけば、インドでも活動を広げることが出来ます。ですからもし良かったら、ぜひ私たちの会員として応援していただけたらと思っています。

本を寄付するという方法もあります。今日はグロービスの学生の方もたくさんいらしていると思うのですが、皆さま、本をたくさん読まれますよね。そのなかで読み終わって必要のなくなった本を5冊集めていただいたら、クロネコヤマトで取りに来て貰い、その買取金額を寄付するという仕組みがあるんです。これからちょうど大掃除ですし、必要のない本も出てくるかなと思いますので(会場笑)。ぜひ不要になった本を集めていただき、この「ほんのかけはし」の申し込み用紙に記してからお電話をしてください。全国どこでも引き取りが可能です。こういった気軽に参加出来る方法もありますので、ぜひご検討いただきたいと思っています。

時間が過ぎてしまいましたね…、今日は長々とお話をしてきたのですが、私たちは10年活動してきて分かってきたことがあります。この問題がどれほど酷い状況にあるかということも、今日お伝えしたかったことのひとつではあります。ただ、私たちは10年間の活動を通して、「時間をかけてきちんと進めていけば、酷い問題であっても解決出来るんだな」ということが分かりました。はじめてカンボジアに入った当時はNGOで人権活動をしている方が何人も暗殺されたというニュースを目にしました。新聞ではどこそこのNGO職員が亡くなったですとか、被害者を保護しているシェルターが襲われたですとか、そういった報道を毎日のように読んでいたんです。

ですから当初は、「これはかなり厳しいな」と思っていました。当時は買った人が買ったことを自分から堂々と話したりしていたぐらいで、それでもまったく捕まらないという、もう本当に混沌とした状況にありましたから。ですから「この国が変わるには、もう30〜40年必要なのではないのか」と思っていたんです。活動をカンボジアからさらに広げられるかどうかも分かりませんでした。

しかし状況は大きく変化してきています。貧困率も下がり、加害者の逮捕数も確実に上がってきています。カンボジア政府も態度もだんだん変わってきていて、今までずっと通らなかった法律がようやく通ったりするような状況となってきました。国はこの10年で大きく変わりました。

ですから私は今日、「色々な方が動いてくださればこの問題は解決出来て、被害に遭う子どもたちは減らせます」ということもしっかりとお伝えしておきたいと思ってきました。そのためにも今日のお話を聞いてくださり、「これはなんとかしなきゃ」と思った皆さまから周りの人に伝えたり、ご自身でも寄付をしていただいたり、あるいはボランティアをしていただけたらと思っています。カンボジアの工房でも皆さまを歓迎していますので、いつでも足を運んでいただけたらと思います。では、私からのお話は以上です。ご清聴、誠にありがとうございました(会場拍手)。

講演者

  • 村田 早耶香

    特定非営利活動法人かものはしプロジェクト 共同創業者

    2001年 「第二回児童の商業的性的搾取に反対する世界会議」(横浜会議)に
          日本の若者代表として参加する
    2002年 かものはしプロジェクトを設立
    2004年 フェリス女学院大学国際交流学部卒業
    2005年 日経WOMAN主催「Woman of the year 2006」リーダーシップ部門を史上最年少で受賞
    2006年 日本青年会議所主催、人間力大賞・参議院議長奨励賞受賞
    2007年 過去にケネディやキッシンジャーが受賞した、傑出した若者に贈られる賞
          国際青年会議所主催TOYP(The Outstanding Young Person)受賞
    2011年 社団法人日本看護協会とジョンソン・エンド・ジョンソン グループ日本
          法人各社主催、ヘルシー・ソサエティー賞を受賞し、皇太子殿下と東宮で謁見
    2012年 全国日本商工会議所助成連合会主催 第11回女性起業家大賞優秀賞 受賞

モデレーター

  • 村尾 佳子

    グロービス経営大学院 教員

    関西学院大学社会学部卒業。大阪市立大学大学院創造都市研究科都市政策修士。グロービス・オリジナル・MBAプログラム(GDBA)修了。高知工科大学大学院工学研究科博士後期課程修了(博士(学術))。大手旅行会社にて勤務後、総合人材サービス会社にてプロジェクトマネジメント、企業合併時の業務統合全般を経験。現在はグロービス経営大学院、並びにグロービス・マネジメント・スクールの事業戦略、マーケティング戦略立案全般、そして大阪校、名古屋校のマネジメントに携わる。教員としては、「マーケティング・経営戦略基礎」、「リーダーシップ開発と倫理・価値観」、「企業家リーダーシップ」などのクラスを担当する。また複数のNPOに理事として関与しながら、NPOの育成にも携わる。共著に『グロービス流キャリアをつくる技術と戦略』、『27歳からのMBA グロービス流ビジネス基礎力10』、『27歳からのMBAグロービス流勉強力』、『27歳からのMBA グロービス流リーダー基礎力10』、『志を育てる』(東洋経済新報社)、『東北発10人の新リーダー復興にかける志』(河北新報出版センター)がある。

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