2004年、長野県白骨温泉の一部ホテル・旅館が入浴剤を混入していたという事件を覚えているだろうか。その後全国各地の温泉地で“温泉偽装”が発覚し、水道水を沸かした風呂で入湯税を徴収するなど、悪質な例も多数公表された。あれから4年―沈黙を守ってきた白船グランドホテルの若女将に嶋田淑之が迫った(この記事は、アイティメディア「Business Media 誠」に2008年2月15日に掲載された内容をGLOBIS.JPの読者向けに再掲載したものです)。
事件後、姿を消した白骨温泉の「なぜ」?
「人の噂も75日」という。しかし75日どころか、4年経った今でも、人々の記憶に生々しく刻印されている出来事が存在する。2004年、白骨(しらほね)温泉での入浴剤投入発覚を発端として、全国に波及した「温泉偽装問題」である。入浴剤はキッカケに過ぎなかった。水道水を沸かした湯を温泉と称し入湯税まで徴収していた有名「温泉地」を始め、日本全国の温泉施設における驚くべき実態の数々が明るみに出て、我々に強い衝撃を与えた。
あれから4年。テレビの旅番組では、何事もなかったかのように、全国各地の温泉が紹介され旅情を誘っている。その中には、偽装発覚で問題になった温泉地が多数含まれているし、当時「相当に悪質」と言われたところもある。その一方、偽装問題発覚の発端となった北アルプスの秘湯・白骨温泉だけは、この4年間、民放キー局の旅番組からは、ほとんど姿を消してしまい、全国の書店で買える旅行ガイドでもその扱いは限りなく小さくなっていた。
なぜ白骨温泉だけが姿を消さざるを得なかったのか? その要因の1つは温泉偽装に関する人々の記憶に、「白骨温泉=温泉偽装」という公式ができてしまったことである。
「たらちねの」と言えば「母」、「あしびきの」と言えば「山」が出てくるように、「温泉偽装問題」と聞くと、反射的に「白骨温泉」「入浴剤投入」というフレーズが枕詞のごとくになってしまったのである。
しかし、仮にそうだとしてもである。白骨温泉に比べてはるかに悪質な偽装を行っていた温泉地が「復権」して人気を博している。また事件後、場所によっては「より巧妙な偽装が行われている」とすら言われているのに、今なお白骨温泉だけが、あたかも事件の全責任を負わされたかのような扱いになっていることに、筆者は割り切れないものを感じ続けていた。入浴剤を投入しなかった宿もあるというのに……。さらに、肝心の白骨温泉自体が、事件後ほとんど情報発信していないことも釈然としなかった。
4月中旬の白骨温泉。温泉地がにぎわうはずの週末の昼間でも、外を歩いている人は少ない
事件発覚以来ずっと釈然としなかったものを感じていた。そこでたびたび白骨温泉を訪れ、白骨の自然や湯を愛し親しんでいた筆者は、この4年間の「モヤッとした想い」をクリアにすべく、今回、同温泉の取材を思い立ったのである。
取材に応じてくれたのは、白船グランドホテルの若女将・齋藤ゆづるさん。2004年7月、田中康夫長野県知事(当時)が抜き打ちで踏み込み、見事(?)、入浴剤を発見するという、ドラマチックな映像が全国に流されたことによって、一躍その名が知られた。その直後の「若女将・涙の記者会見」と併せ、あたかも“白骨温泉の偽装の象徴”であるかのような立場になった女性である。事件後、ほとんど取材に応じることもなく、沈黙を守ってきた若女将は何を語ってくれるのだろうか?
2008年4月、例年より早い春の訪れを感じさせる白骨温泉。4年ぶりに再会した若女将やホテルのスタッフたちは、今なお逆風渦巻く中で懸命に生きていた。ひたすら明るく振る舞うその表情や仕草には、むしろ苦悩の深さが感じられる。あれから4年。白骨温泉の人々は、一体どんな日々を過ごしてきたのだろうか。
白船グランドホテルの外観
文人たちに愛された北アルプスの名湯・白骨温泉
白骨温泉は長野県松本市から、松本電鉄の電車と、1日2本しかないバスを乗り継いで2時間強。青緑色の独特の色合いが美しい梓川の、目もくらむような渓流をさかのぼってゆくと、北アルプス・乗鞍岳の山麓(標高1400メートルほど)にある。
長野県松本市から電車とバスを乗り継いで、約2時間で白骨温泉に到着する(Google Mapsより)
途中バスは、映画『あゝ野麦峠』でその名を馳せた野麦峠や、全国的な人気観光地の上高地、スキー場やキャンプ場として知られる乗鞍高原などの近くを通り抜けてゆく。道沿いには「熊鍋」と書かれた看板を掲げたひなびた食堂も何軒かあり、山深く分け入ったことを実感させられる。白骨を抜け峠を越えれば、そこはもう岐阜県で、人気温泉地の奥飛騨温泉郷となる。
白骨温泉一帯は、梓川のせせらぎ以外に音はなく、夜ともなれば星は降るように美しい。「温泉街」といえるほどのにぎわいは一切なく、宿のほかにはお土産屋などが2~3軒あるのみ。歩いている人も滅多に見かけない。ニホンカモシカやニホンザルと出会うことも少なくない。付近には「竜神の滝」や「冠水渓」、特別天然記念物「噴湯丘」など見所もあるが、観光地と言えるほどの華はない。辺りに漂う硫黄臭だけが、わずかに、ここが温泉地であることを思い出させてくれる。宿の数も、わずかに10軒強であり、それらが傾斜のきつい山や谷に張り付いている。
白船グランドホテルの近くにある特別天然記念物「噴湯丘」(上)と「竜神の滝」(下)
この温泉、鎌倉時代には既に湧出(ゆうしゅつ)していたと伝えられ、戦国時代、武田信玄も傷病兵の湯治に使っていたと言われる。温泉宿として本格的に開かれたのは、江戸時代(元禄年間)、齋藤孫左衛門による。地理的に閉ざされた環境ゆえに、この温泉は今も齋藤姓が多く、地縁と血縁の結びついた独特の閉鎖性を形作っている。
名称的には、「白骨」(しらほね)とも、「白船」(しらふね)とも呼ばれていたが、大正時代に中里介山の長編小説『大菩薩峠』の中で白骨温泉として紹介されて以降、この名称に落ち着いたという。
中里介山に限らず、明治以降、河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)、若山牧水(わかやま・ぼくすい)、斎藤茂吉、与謝野晶子、三好達治など実に多くの文人たちによって愛されたことは注目される。文人ばかりではない。白骨(はっこつ)を連想させるこの名称は、人々に強烈なインパクトを与え続け、良くも悪くもこの温泉を突出した存在にする一因となり続けたのである。
泉質は硫化水素泉であり、1981年に書かれた『乗鞍岳麓 湯の里白骨(白船)』(横山篤美)によれば、「湯は無色透明で微酸味を帯び、硫化水素の臭気を放つ。しかし槽中にあるものは、硫化水素の酸化によって粉状硫黄を沈殿するので白く濁っている」とある。
要するに白骨温泉は、基本的に無色透明な硫化水素泉だが、湯船の湯は空気と接触することにより酸化し、白濁化する。その白濁化の度合いは、その時どきの気候や、湧出する源泉のコンディションに左右されるということになる。しかし、この白濁化こそが、世間に「白骨=乳白色の湯」という固定観念を育み、後に悲劇を生むことになるのである。
西麻布の広告マン夫人から温泉若女将へと転身
白船グランドホテルの若女将・齋藤ゆづるさんは、1960年、東京・目黒で生まれた。射手座のAB型。「小・中学校は地元の公立、高校は都立。インテリアデザイナー、もしくは広告関係の仕事に就きたかったので、地元の短大の生活芸術科に進みました。そのころは本当に、温泉の若女将になるなんて全然想像していませんでした」と笑う。
卒業後はグラフィックデザイン会社、コピーライターのオフィスなどで短期間働いた後、プリント基板を作る会社で基板のパターンをひく仕事に就き、1983年、寿退社。「主人は、大学を出た後、上場企業に5年間勤務してから転職し、当時、東京の西麻布の広告代理店に勤務していました」。今なお、スマートでダンディな男性である。
出産・子育てなど、専業主婦としての日々を送っていたゆづるさんに、やがて転機が訪れる。9歳年上のご主人が、父親の経営する白船グランドホテルの実務を行うことになったのだ(当時、常務取締役)。
ご主人の父親(齋藤邦男氏・故人)は、白骨温泉の老舗・新宅旅館の“惣領息子”(=跡取り)だったが、跡目を弟に譲り、自らは白骨を出て別の仕事に就いていた。しかし、やがて白骨に戻り、新宅旅館の隣に、新たに白船グランドホテルを建設してその経営者になっていたのである。
ゆづるさんのご主人は、白骨グランドホテルを継ぐものとして呼び戻されたということだ。ご夫妻は松本市に住み、毎日、車で往復3時間かけて白船グランドホテルに通勤した。しかし、日本経済がバブルで浮かれていた頃、東京の西麻布に居を構え、最先端のビジネス環境にいた齋藤夫妻にとって、あたかも時が止まったかのような、秘境の温泉地特有の前近代的で閉鎖的な環境は、決して馴染みやすいものではなかったろう。
「2年後、主人が病に倒れ、歩けなくなってしまったんですよ。それで松本を引き払って、東京に戻りました」
とはいえ、そのまま東京に居続けるわけにもいかない。ご主人の体調が落ち着いた1998年、今度は松本ではなく白船グランドホテルに居を構え、長男を東京に残して、まさに不退転の決意で温泉旅館の経営に当たることになった。そのために、夫妻は「旅館塾」にも通い、旅館経営のノウハウを学んだ。
「経営の実権は、義父が社長として握っており、義母が女将をしていました。ただ当時は、地元の名士として旅館の仕事以外のお役も多くあり、留守がちでした」。いきおい齋藤ご夫妻が日々のオペレーションの中核になってゆく。すべてが初体験となる旅館のマネジメント。しかし、何より大きな壁となってご夫妻の前に立ちはだかったもの――それは、経営学で「よそ者拒否シンドローム」(=Not Invented Here!)とも呼ばれる組織抵抗、心理的反発ではなかったろうか。
トップがワンマンの経営組織には、そのトップの性格を色濃く反映した「組織文化(=カルチャー)」が息づき、そこには強力な組織慣性が働いている。従って、新しい感覚を持った跡取り夫婦が乗り込んで現場のオペレーションをしようにも、そこに変化をもたらすことは難しい。スタッフたちには、オーナートップの方にしか目を向けていない人々もいたであろう。
そういう意味で、やりにくい面があったと推察される。「そうですね。でも、忙しかったせいで、そんなことを考えているヒマもなかったのがかえって良かったみたいです」(ゆづるさん)
「白骨バブル」の到来と忍び寄る危機
その間にも、確実に時代は動いていた。バブル崩壊後、平成大不況に日本全体が沈み、人々の心は疲れ、荒廃していた。それは、旅行に対する人々のニーズをも変化させた。まず企業の経営環境悪化に伴い、社員旅行などの団体客は急速に減っていった。それに代わって、夫婦や恋人同士、友人同士などの個人客が増えてゆく。
この流れは、団体客による宴会や温泉街での遊興に重きを置いていた熱海温泉(静岡県)などの伝統的大型温泉地を衰退させ、その一方、癒しを求める個人客による“秘湯ブーム”を巻き起こした。ただし、秘湯ブームとは言っても、あくまでも、女性を中心とした都市生活者の好みに合致した温泉地が人気を博したのだ。
例えば九州では、熱海タイプの別府温泉(大分県)に代わって、黒川温泉(熊本県)、湯布院(由布院)温泉(大分県)、妙見温泉(鹿児島県)などがブームとなった。黒川温泉は当時珍しかった「湯めぐり手形」を使った露天風呂めぐりが評判を呼び、湯布院は由布岳、金鱗湖(きんりんこ)など風光明媚な自然に包まれながら味わえる、軽井沢のようなオシャレ感・高級感が支持された。また妙見温泉は、ほとんど全室一軒家の離れという高級旅館が注目を集めたようだ。
同様に本州でも、秋田県の乳頭温泉郷(特に鶴の湯温泉)や、長野県の白骨温泉、岐阜県の奥飛騨温泉郷を始めとする温泉群が、そうした都市生活者のニーズに適合する“秘湯”として顧客の高い評価を得たのである。
白骨温泉のWebサイト
こうして“白骨バブル”は始まった。各旅行代理店の企画する白骨温泉ツアーは人気が沸騰し、新緑の頃から紅葉の季節まで、予約は極めて困難という状態が連年続くようになった。そして白船グランドホテルは、北アルプス・乗鞍岳中腹の大自然に囲まれながらも、大型かつ近代的な高級旅館として、同温泉の中でもひときわ異彩を放っていた。
「見晴らしのよい露天風呂+サウナ」、「各部屋に温水シャワー付き便座&風呂」などの最新機能、「プロが選ぶ観光・食事・土産物施設100選」の食事部門に選ばれた食事、大型観光バスが直接乗り入れられる利便性など、女性を中心とする都市生活者のニーズに見事に合致していたのである。そして何より、身も心も癒されそうな「乳白色の湯」というキャッチコピーが、人々の心をときめかせたのだろう。
観光経済新聞社(観光業界の専門紙として発行部数1位)では毎年、「人気温泉旅館ホテル250選」を全国の温泉から選定している。これに5回以上選ばれた宿に対しては「5つ星旅館・ホテル」の称号を与えているが、白船グランドホテルはその称号を得ており、この点からも、その人気沸騰ぶりがうかがえる。
失われた「乳白色の湯」
ゆづるさんは言う。「私たちは、乳白色の湯ということを自らウリにしたことは、実はないんですよ」。それはそうだろうと思う。温泉宿の若女将として、白骨温泉の硫化水素泉が基本的には無色透明であり、湯船で空気に触れることで酸化し白濁することも、気候や源泉のコンディション次第で、濃くも薄くもなり得ることも、誰よりもよく承知しているからだ。
しかし誰が言い出したにせよ、「乳白色の湯」というキャッチコピーが集客効果に一役買っていることは否定し難く、たとえ「リスキーかな」と思ったとしても、そのコピーをあえて拒否するほどの気持ちにはなりにくかったのだろう。それに、乳白色の湯というのは、そもそも白骨温泉全体のイメージなのであって、白船グランドホテルだけでどうこう言える問題でもなかったからである。
この危険な黙認は、やがて現実の問題となってゆづるさんの前に立ちはだかる。「実は、社長(義父)が風呂場の改装(拡張)工事を実施して以降、ほとんど白濁しなくなってしまったんです。白骨温泉では、宿ごとに源泉を持っています。それまで、白船グランドホテル所有の源泉と、社長の生家の新宅旅館の源泉とを混ぜて使っていたんですが、改装(拡張)に伴って、混合を止め、前者を露天風呂用、後者を内風呂用に分けるようになってからは、どういうわけか濁らなくなりました。主人は、改装(拡張)によって、源泉湧出量と風呂のサイズとのバランスが崩れたからではないかと推測していましたが、正確なことは分かりません」
実際、今見ても露天風呂はほぼ透明だし、内風呂は写真に撮ると、乳白色というよりは、むしろ青白色に近い。ご主人は「いくら何でも大き過ぎる」と、この改装内容には猛反対だったそうだが、それを押し切って決行された工事は、結局、2つの点で禍根を残すことになった。
1つ目。1999年当時、白骨バブルで沸き立っていた頃だが、各旅館とも、急増する客に対応するために改築・増築・建替えなどを検討あるいは実施していた。白船グランドホテルもまた、そうした設備投資の機運の中にいたようだ。しかし、冷静・客観的に考えてみれば、「秘湯ブーム」とは、文字通り「一時的な流行」であって、それが一段落した後どうなるかを見通す「鳥瞰図(ちょうかんず)的視点」が必要だったはずである。そして白骨バブルの崩壊後、そのツケが大きく重くのしかかってくることになった。
2つ目。これは上記の通り、湯が白濁しなくなったことである。すなわち、旅行代理店のパンフレットや観光ガイド本にあるような乳白色の湯というキャッチコピーと、現実との間に乖離(かいり)が生じたのである。その結果、とんでもないことが起き始めた。
「乳白色の湯」の呪縛、ついに入浴剤投入
「乳白色じゃないということで、お客様たちから苦情がたくさん寄せられるようになりました。私はそのたびに、『温泉は生き物なので色も時々刻々と変化するんですよ』というご説明をしましたが……」。白骨温泉を訪れる客は、何も乳白色という色に対してお金を払っているわけではなく、大自然や食事、泉質、各種もてなしの総体に対して払っているはずだが、数ある温泉の中、白骨温泉をあえて選択する際「1つの有力な判断材料」に、乳白色の湯というファクターがあったことは否定できない。
そんな客たちが実際に白骨温泉を訪れたとき、期待に反し湯が透明だったならば、だまされたような気持ちになることは容易に想像がつく。「温泉は生き物だから……」とどんなに説明しても、中には「夢が壊された」「せっかくの旅が台無しになった」などと、猛烈に抗議してくる人々もいただろう。
宿の現場としては、一刻も早い抜本的な対応策が必要だった。「そうした苦情や問い合わせがあまりにも多かったせいでしょうか、社長が気にするようになりまして、透明度の高い時には入浴剤(六一〇ハップ)を入れることになったんです。これによって確かにお客様からの苦情はなくなりました」
乳白色というより青白色に近い内風呂(上)、露天風呂の湯はほぼ透明(下)
内風呂の湯(上)はやや濁っているが、露天風呂の湯(下)はほぼ透明
当時の温泉法(1948年制定)は、源泉部分で湯温が25度以上、もしくは指定する19物質のうち、どれか1つでも規定以上含まれていればよい、という極めて緩やかなもので、ましてや湯船の泉質については、明確な規定はなかった。それゆえ着色のために入浴剤を入れても、それが直ちに問題になるようなことはなかったのである。
嘘も方便と言うべきか、当時としては、客とのトラブルを回避し得たことの安堵感が大きかったのかもしれない。確かに短期的には、1つの解決策として機能したのだろう。しかし日本社会をめぐる環境変化は急速に進んでいた。平成大不況に沈む中、日本の生活者には、「ホンモノ」「製造物責任(PL)」「ディスクロージャー(情報公開)」がかつてない広がりを見せ始めていた。企業行動あるいは製品・サービスに対する世間の見る目は、以前より格段に厳しいものになっていたのである。
それに加えて、終身雇用・年功序列制度の崩壊、リストラの横行による企業への忠誠心の喪失と、それに伴う内部告発の増加も、経営側にとって看過できないリスクとなってのしかかってきていた。こうした環境変化を考えたならば、入浴剤投入は、極めてリスキーな選択であったはずであり、そのことに気付くべきだったと思われる。
こうして「カウントダウン」は始まった……
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