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日本統治時代の台湾を巡る旅~2)台南・八田ダム・高雄の風景

投稿日:2012/10/11更新日:2024/11/18

台湾二日目。早起きして、タクシーで台北駅へ。そこで、予約済みのチケットをピックアップして、台湾高速鉄道に搭乗した。外観及び中身とも、新幹線そのものだ。ツイッターするためにiPadを載せたトレイも、日本のとまるで同じだ。これから台南駅まで1時間40分。福岡から鹿児島みたいなものだ。

台湾高速鉄道が静かに走り始めた。板橋駅まで地下を走り、その後地上に出る。団地風の建物が立ち並ぶ中に、椰子の木などの熱帯風植生の緑が、顔を出す。熱い烏龍茶をすすりながら、ヘッドホンでクラシック音楽を聞く。両脇に広がる景色を、車窓から眺める。五感をフル稼働中だ。桃園駅に到着。

新竹駅を過ぎると、田舎の風景に変わる。緩い丘陵に自然が残り、平地には田園風景が現れる。日本統治時代に、日本は農業指導に力をいれていたと言う。「武士道」で著名な新渡戸稲造も、後藤新平に招かれて台湾に駐在し、指導に勤しんでいたという。ちなみに今年は新渡戸稲造生誕150周年にあたる。


新台南駅に到着した。駅中は、モスバーガー、セブン-イレブン、回転ずしと日本風だ。タクシーで30分ほど走り、在来線の台南駅前のホテルにチェックインした。遅めの朝食を取り、一休みしてから、一泳ぎだ。プールは屋外。ちょっと水が冷たいけど、10月でも外で泳げるのは、新鮮な喜びだ。外出着に着替えて、ガイドさんと待ち合わせて、出発。せっかくの機会だから、台湾のことを多く吸収したい。

台南は、1624年からのオランダ統治時代、鄭成功時代、清の時代と日本統治時代まで、台湾の首都だった。「台湾の京都」とも言われている。まず向かったのは、その首都の中心地、赤嵌楼(せきかんろう)だ。オランダがつくったバロック風のお城を鄭成功が中国風に改築し、行政を司った場所だ。

そして、現存する世界最古の「孔子廟」へと向かった。中国本土の孔子廟は、文化大革命で破壊されてしまったので、今は台湾でしか見られないという。

その横には、日本がつくった武道館が威風を伴い立っていた。台南にも、日本統治時代の建物が数多く残っていた。州庁舎、警察署、婦人会館、博物館等が、今も使われていた。日本統治時代の建物は、赤レンガに白い石のツートーンで、とても品があり綺麗だ。これら明治の洋館風の建築様式を、「近代和風建築」として、もっと活用してもよいのでは、と素人ながら思ってしまう。

孔子廟の前の公園に、米軍が戦中に落とした不発爆弾の碑が立っていた。その当時、高雄や台南にも、米軍がよく爆撃にきていたらしい。お父様が中曽根元首相の部下だったというガイドさんの王さんが、そう説明してくれた。高雄港の船舶も200隻撃沈された、と。その当時の高雄は、重化学工業の集積地だった。石油化学コンビナート、セメント工場、肥料工場、造船等だ。

一時間ほど車に揺られて、烏水頭ダム(別名八田ダム)に着いた。烏水頭ダムは、1920年から10年かけてつくられたビッグプロジェクトだ。そのダムのお陰で、農耕に不適切だった嘉南平原の土地が、水田に変わったのだ。台南市、嘉義市、雲林県にまたがる広大な地域(15万ヘクタール)が農地になった。烏水頭ダム水系の灌漑水路の長さは、何と台湾本島を20周するほどだという。「ダムの結果、美味しい米が取れるようになったんですよ」と嬉しそうにガイドさん。台湾の稲作量が5倍以上となり、100万人以上が恩恵を受けたのだという。その大規模プロジェクトを指揮したのが、八田與一技師なのだ。

八田與一記念館にて、ビデオを見た。八田與一は、石川県出身で、東大を出た後に、台湾総督府に職を得て、その後半生、この地の役人として献身的に働いた。31歳の時に日本に戻り、妻となる外代樹とお見合いし結婚し、2人で台湾に住んだ。八田が貢献したのは、灌漑用水の整備で、最終的に行きついたのが、烏水頭ダムの計画だ。

八田は、このダム計画を進言し、当時のお金で5400万円かけてつくった。その当時の日給は一円の時代だ。この費用の3分の2を日本政府が賄い、残りを台湾総督府が賄った。10年間で、134名の死者を出した大規模な工事だ。

烏水頭ダムの慰霊碑を拝む。殉職者への慰霊文を八田與一が書き、日本人・台湾人分け隔てなく、亡くなった順番で、名前が刻まれていた。日本人の名前も多く含まれていた。バスがひっきりなしに、やってくる。台湾人ほぼ全員が知っているというこの日本人を、何人の日本人が知っているのだろうか。

八田與一は、1942年に東南アジアの水利調査を命じられ、大洋丸に乗船していた時に、米海軍の魚雷によって、死亡した。1945年9月1日に、妻の外代樹は、興一が生涯かけてつくったダムの放水口に身を投げて、帰らぬ人となった。二人のお墓は、ダムを見下ろす地に現地の人々により建てられた。

墓所に車で移動した。お墓は、ちょうどダムを見下ろせる小高い位置に建てられていた。二人の墓の前には、八田與一の銅像が立てられていた。この銅像は、芸術的価値があると思われるほど、独創的なポーズだ。地べたに座り、片足を前に出し、右手で頭を支え、考えているポーズになっていた。突っ立っているポーズが多い中、とても人間的な銅像だ。

銅像そしてお墓には、現地の方からと思われる花束が積み重なっていた。僕は、その前で合掌し、銅像を見ながら立ち止まり、思いにふけっていた。八田與一の顔を見ている、八田與一が、僕に訴えかけているようだった。「それで、君は何をするんだね」、と。

写真1.八田與一氏の銅像。花束があふれていた。

今、この地には、八田路と言う道の名前がある。日本人の名前を冠する道路が、台湾にあるのだ。戦前の日本の功績をこの目で見ることの重要性を改めて認識した。そして、車は高雄に向け、走りだした。

車の中で、ガイドさんに尖閣問題について聞いてみた。ガイドさんは、「台湾の親日意識は、全く揺らいでいない。あの漁船は、台湾の会社が1500万円寄付して、やらせたものだ。大陸からの取引があったのではないかと疑っている。台湾人は皆迷惑に思っているし、あまりニュースになっていない」と。

確かに、昨晩現地での「交流」のために訪問したクラブのお姉さんに、尖閣問題のことを聞いたら、「ニュースをあまり見ないから知らない。何かあったの?」と逆に質問を受けた。台湾人からすると、あれは中国大陸からのさしがねだ、という認識のようだ。

どうやら、いまだに本省人と外省人、北部と南部とでは意識が違うようだ。「南部は本省人が多く親日的だ。馬総統は、外省人だ。台北は、外省人の塊みたいな場所だ」と。「南部は、皆独立を求めている。李登輝先生は、尊敬されている」、と答えが返ってきて、北部では、逆の答えが返ってくる。

片側三車線の高速を走り、高雄へ。両側は、鬱蒼と茂った熱帯風の濃い緑がおおっていた。雨がぱらついてきたが、空はまだ明るい。平地に入ると、住宅街が目に入ってきた。遠くには工場の煙突が見える。高雄は日本が投資してつくった一大工業地帯だ。

高雄市街に入った。280万人の巨大都市だ。この都市は、日本統治時代前は、台南の補助港でしかなかった。日本統治時代に、一大都市として成長した。蓮池の龍虎塔から半屏(はんぴょう)山をみると、その山の高さに負けずと劣らない高い煙突がある。日本海軍が製油所をつくり、今も使われているのだという。煙突の上から炎が見えた。

海軍宿舎だった場所の横を通過する。今も住宅街として使われるこの地には、当時海軍の兵士達が住んでいた。中曽根元首相もここに住んでいたと言う。寿山(ことぶきやま)の麓にあるセメント工場跡地を通過する。ここは、戦前は浅野セメントだった。戦後は蒋介石に没収され、台湾セメントになった。

旧高雄駅を訪問する。今は博物館として改装された駅は、70年前の姿そのままだ。古いセメント製の金庫もそのまま設置されていた。ホームの方に出ると、蒸気機関車が展示されていた。旧線路の跡は、公園として整備されており、家族連れが犬を遊ばせ、子供達が凧を上げ、ボール遊びをしていた。

写真2.旧高尾駅のレール跡地で遊ぶ子供達

線路の上に腰掛けると、70年前の情景が浮かんでくる。蒸気機関車の「ポー」と言う音までが聞こえてきそうだ。ここが台湾縦断鉄道の終着駅だ。その駅の横に、高雄港が整備され、産業促進がなされた。都市計画は、総統府が中心に担い、八田與一の様に、人生をかけて台湾のために尽力した優秀な役人がいたのだ。

遠慮気味にガイドさんに聞いてみた。「台湾人は、日本の統治時代のことをどう思っているのでしょうか」と。「ありがたく思っていますよ。これだけの鉄道を敷き、港湾を整備して、産業の礎を築いたのですから」との返事が返ってきた。あたりは夕暮れ時だ。子供達が楽しそうに線路をまたぎ遊んでいた。

旧高雄駅を後にして、フェリーに乗り、旗津島に向かう。日本がつくった埠頭から小さな艀(はしけ)のようなフェリーが、ゆっくりと離れる。真ん前に陣取り、高雄の黄昏時を楽しむ。あたりにはまだ明るさが残るが、全ての建物には灯りが灯っていた。5分少々で、全長十数キロの細長い旗津島に着いた。

1673年に建立した、台湾最古の道教のお寺(廟)をお参りする。歩行者天国の喧騒を抜けて、海鮮料理に舌鼓を打つ。ここでは全ての食材を自らが選び、調理してもらう。エビ、あさり、蒸し魚、ワラビの炒め物等だ。台湾製のパイナップル味ビールの瓶を、自らが取り出し、飲みほした。

食後に、旗津島を横断する。と言っても全長15km、幅は300m程度の洲なのだ。向こう岸の海岸にたどり着いた。砂浜に入り、台湾海峡の水に触る。暖かい。ガイドさんによると一年中泳げるのだと言う。昼間のプールよりも圧倒的に暖かい。

砂浜には、爆竹が鳴り響き、屋台や出店が立ち並ぶ。毎日がお祭りの雰囲気だ。子供達に遊び道具のお土産を買い、来た道を戻った。フェリーに乗り、台湾本島に戻る。夜景と潮風を楽しみ、車に乗り、台南のホテルへと向かった。

高雄の旧州庁舎(現裁判所)の前を通過し、高尾市街へ。高雄は、札幌の都市計画を模したので、碁盤の目の様に、南北・東西へとまっすぐに道が走る。双方とも1から10路と名がついているし、道幅も広く、走りやすそうだ。

台湾を縦断する高速1号線に乗る。片側4車線だ。並行して走る高速2号線にも3車線あると言う。まさに、台湾の動脈だ。台湾はインフラが整っているし、低い法人税(20%未満)、加速度償却等の優遇税制があるために、製造業が強い。

明日は新竹を訪問し、今の台湾を視察する予定だ。ガイドさんにホテルで別れを告げて、明日に備えて、早めに就寝することにした。

2012年10月10日

自宅にて執筆

堀義人

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