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【特別座談会】アフターコロナの社会的包括を考える~(後編) 安部敏樹×若新雄純×ぼそっと池井多×山中礼二

投稿日:2020/12/31

ひたすら生産性の高さを競ってきたビフォーコロナの日本社会。私たちは働くこと、生活することのリアルを見つめずに人をラベリングし、価値を測ってきた。社会に広がる分断の真相を見きわめ、本当のソーシャルインクルージョンに結びつけるには。ニート・ひきこもり問題に通じる3人が語り合う。(全2回、後編)(文=西川敦子)

*本記事は、2020年7月22日にZoomオンラインで行った対談を書き起こし編集したものです。

「未来志向」が人の序列を決める

山中:「コロナ禍により日本社会において何が起きているのか」という私からの問いに対し、ぼそっとさんからは「分断はコロナによって生まれたものではなく、実は以前から起こっていた」という指摘がありました。安部さんは、「単純にラベルをつけることで本質が見えにくくなっている」と。若新さんはどう思われますか。

若新:残念ながら今のままだと分断は進むでしょうね。ラベルはどんどん減らされ、物事が単純化されて、実はいろんなラベルがあることに人々が気付けない社会になるのでは。象徴的なのが政治家のフリップ芸。フリップをバンと出して、「新しい言葉はこれです」ってやるでしょう。あれで国民は安心しちゃうんですよね。AはAです、BはBですって分けられると理解しやすいし、それ以上考えなくて済むから。実は分断って楽なんです。

逆につながることはすごく大変。相手をちゃんと知って自分との違いを理解し、いろんな価値観があるんだということを丁寧に見ないといけない。僕たちは小学校のときから「合格か不合格か」と分断されつつ育ってきたじゃないですか。それじゃ社会が豊かにならないんだという事実について、コロナ禍を機にもう一度考えたほうがいい。

山中:なるほど、「分断は楽」ですか。ぼそっとさん、いかがですか。

ぼそっと:「つながることはいいことだ」と一般的に言われる傾向がありますが、ひきこもりとしてはそうとは言い切れないと思います。というのも、「つながってください、つながってください」と言われるのが嫌でひきこもりになっている人が多いわけですからね。あえてつながらないことにも価値があるのでは、と思います。

たしかに、分断という言葉には寂しい響き、ネガティブな印象があります。なぜなら、AとBが分断されたときに、それはただ水平に分断されるだけではないからです。大抵、資本主義の力によって優劣がついてしまう。分断が階層になってしまうわけですね。

若新:すごくわかります。僕自身も「ずっと横にずれていたい」と思うから。横にずれることは落ちることだという思い込みが社会にはある。だから「ずれているけど、落ちてない」という自分でありたい。これは僕のロック魂ですね。みんな一人ひとりずれているし、そのずれを自由に表現していいはず。個性や違いを包括するのがインクルージョンなのに、横にずれると「いけないことですよ、将来心配ですよ」と先生に叱られる。

安部:横にずれている人がいっぱいいたほうが多様性があって、絶対面白い。

若新:あと先生や親は「将来、将来」って言うじゃないですか。

山中:「将来のためにも横道にそれてはいけませんよ、いい大学や会社に入れませんよ」と?

若新:そう。でも、正社員になるということは、「今のパフォーマンスを未来に至るまでずっと続けますよ」と保証することでしょう。だからこそ企業は受験勉強をクリアしてきた人とか、少々ブラックな仕事にも耐えられそうな体育会系の人なんかを「長期的に運用できる人材」と見るわけで。働く側は、「え、え?ずっとこれやり続けなきゃいけないの?それより今の価値を見てよ」って思いますよね。

僕もよく「若新さん、よくそんな不安定な働き方をして平気ですね」って言われるんです。最長でも1年契約の仕事しかしないから。でも僕からすると「今年もちゃんとできた、来年また頑張るぞ」というあり方はまったく自然なんです。

安部: 未来にニンジンをぶら下げて、人としての優劣を競う社会が行き着く先はちっともハッピーじゃない気がする。これは人間社会の外側と内側、どちらの問題に最適化するかが変わってきた証拠だとも思うんですよね。例えばマンモスを獲って生きていた時代は、人間社会の外側に脅威があった。それは飢えであったり、外敵であったり。そういうときは外部の脅威に対して人間社会は一致団結するしかない。そうじゃないと群れ全体が滅びちゃうわけです。だからこそ社会が求めるものに人が適応していくしかなかったし、それが人類の長期的な生存確率を上げた。だけど今は人類の外側に脅威があるのではなく、内側に脅威がある。人類の課題がすなわち地球の課題になっている。そうすると人間社会が求めるものに個人が最適化し続けていくことが、結局人類の長期的な生存確率を上げる営みに繋がっているのか。個人的には疑問ですね。

若新:僕は今日、気づいちゃったな。分断をつくるのは未来志向だよ。未来の能力を保証できる人は正社員となり給料も増えていったけど、そうでない人は日雇いになった。人材の価値に時間軸を入れたことで人の優劣が決まり、分断が生まれたんじゃないかな。もっと一人ひとりの“瞬間”を見てあげてほしい。「明日は職場に来られないかもしれないけど、今日は頑張っているね」という目線で。人間は生ものでアンドロイドじゃないんだから。

安部:未来志向にはメリットもあるんですけどね。未来志向で、お互い納得できる未来の虚像をつくれば、利害が合わない人同士が衝突を避け、合意形成することができる。一方、将来性で人間の優劣を測り、分断してしまうところは、未来志向のデメリットの部分といえますね。

ぼそっと:先ほど申し上げたように、分断は本来、水平的な動きのはずなんだけれども、資本主義的な意味でいう生産性が問われたとき、序列になってしまうという点がすごく重要なのです。上下の序列になるのでなければ、分断っていうのはいいことですらあるわけですね、ひきこもりである我々からすると。

上下の序列に変わってしまう手前の段階の「分断の価値」について考える必要もあるのではないでしょうか。ひきこもりは「外へ出たい」「いや、出たくない」という葛藤の産物であったりしますが、ひきこもっていたいからひきこもりになっている者は、「つながりこそすばらしい」というスローガンが連呼されるとゾッとするのです。

安部:そうですよね。分断とつながりという二極で語られていますけれど、本来グラデーションなのではないかと。私と若新さんだってつながりと分断の真ん中あたりにいるからいい関係でいられるけれど、多分毎日一緒だったら大変なことになる(笑)。

めざすは「包括される分断」

山中:みなさん、ありがとうございました。では、最後の問いです。今までの議論を踏まえて、「よりインクルーシブな社会をつくるために私たちはどうすればよいか」この論題を、前提から否定していただいても結構ですし、言葉の定義を論じていただいても結構です。

ぼそっと:ひきこもりにとっては重要なテーマですね。最近、ひきこもりの長期化、高齢化が社会問題として注目されていますが、必ず取り上げられるのが孤立死の問題なんですね。「孤立死を防がなくてはいけない」ということが至上命題として、ひきこもりの長期化が議論されています。「あの人は誰にも構ってもらえないまま死んで、腐っちゃったんだね。かわいそうに。ああはなりたくないね」とみんなが思っている。

だけど「孤立死はいけない、かわいそうだ」と誰が決めたのでしょうか。人と関わりたくなかったのに、ある日突然、支援だのサポートだのと称して部屋に踏み込んできた見知らぬ人たちに担ぎ出され、病院へ入れられてチューブに繋がれて、気心知れない病院のスタッフにびくびくしながら死んでいく。――そんな死に方より、「ああ自分はこうやって静かに最期の時を迎えるんだ」と思って一人の空間で息を引き取り、腐っていくほうが幸せ、という人もいるかもしれない。インクルーシブであるべきだという前提で、すべての孤立した人たちに向き合うことが果たしていいことなのだろうか、としきりに考えます。

若新:インクルーシブとは、境界をなくすことでは僕はないと思うんですよね。だから境界は世の中からなくならないと思う。僕、田舎の山奥で生まれたんですけど、地元ではとにかく変なやつと言われ続けていました。ところが、東京では「若新さん、変だね」と言われても、むしろホッとするんですよ。変な自分が受け入れられて、変なところを問題と捉えなくて済むようになったんですね。

普通になって馴染んだからじゃなく、違うものとして存在できるようになったから社会に包括された。分断の垣根をなくして、「みんな一緒だね」と言うのとは違うんですね。一人ひとりは違うし、それでいいよねと尊重しあう。いわば「包括される分断」ですね。お互いのずれを愛せる社会が来るといい。

安部:まずはお互い序列をつけず、フラットな敬意を持つことを意識することが前提ですね。気が合ったら楽しくやればいいし、合わなければ無関心でいたってかまわない。繰り返しになりますが、そのためには自分の中のラベルや被害者性・加害者性、マイノリティ性に気づく必要がある。即身成仏、すなわち「生身のまま宇宙の真理に達することができる」と唱えた空海も言っていますよね。究極的には誰もが小さな仏になるべきだと。何か悪いことがあると「社会に問題がある」と思いがちだけれど、問題を起こす要素は自分の中にも潜んでいるとわかると、本当の意味でインクルーシブになれるのかなと。

若新:みんな自分の良心に期待し過ぎなんですよ。だからコロナ自粛になると、「自分は我慢しているのに、あいつはなんだ」とか思っちゃう。フラットになれない。僕がニートと関わってきて教わったことというのが、くしくも親鸞聖人が言っていることとほぼ同じなんです。「人間は皆アホ(悪人)であり、自分自身もアホ。それでいい」と感じること。誰もがそんな完璧じゃないし、優れているわけじゃない。当然、自分だってアホなんだと思えば、社会的に価値を出さねばと頑張らなくてすむ。プレッシャーから解放され、得意なことやできることに集中できる。だいたい他人を助けてあげなきゃなんて考えたら、上から目線になって、上下関係のある分断が生まれてしまいますよ。だから僕は今、自分のアホさをテレビなど公共の電波でちゃんと説明するようにしています。

ぼそっと:安部さんの加害者性、被害者性のお話、それに若新さんの親鸞のお話など、響くものがありました。私がやっているひきこもりの当事者活動って、支援者の方々がやっている支援と表面的には同じに見えるしれませんが、根本的に違うところがあるんです。支援者がやると上から手を差し伸べることになって、「やはりつながるのはいいね」ということになってしまう。でも、私はひきこもり当事者ですから、自分と同じように、同じ平面で困っている人たちと情報交換したいから活動しています。親鸞の「悪人正機説」みたいなものでしょうか。自分にも問題がある、自分も困っているからこそできる。そこらへんが大団円のように結びついたかな、という気がしています。

安部:自分が当事者であるっていう前提からスタートしたほうが社会は豊かになると思います。どこかであなたは支援者側のつもりになっていませんか、あるいは傍観者になっていませんか、と問いかけたい。その度合いは違っても、本当は誰もがあらゆる社会的な課題に対して当事者性を持っているはずなんですよ。たとえばひきこもりの当事者性ということでいえば、この4人の中ではぼそっとさんが圧倒的に高そうですよね。だけど僕や若新さん、山中さんだって当事者性があるかもしれない。だからみんなお互い必要なとき、それぞれができることで、無理せず支援しあう社会になったらいいと思います。

若新:僕は安部君が言う「社会」と僕が言う「自分」は表裏一体だと思っているんですよ。そして表裏一体であるならば、ベクトルは自分に向けたい。人生を充実させ、心地よく生きるためにも、あらためて「愛すべきアホ」になろうと、今日は決めましたね。すべての人がどこかで欲深さや醜い気持ちを持っていることを、まずは僕たち一人ひとりが理解する。そこから一歩ずつポジティブな社会をめざして進んでいけばいいと思います。

ぼそっと:「アホ人正機説」ですね。(一同爆笑)

(前編はこちら

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