【特別座談会】アフターコロナの社会的包括を考える~(前編) 安部敏樹×若新雄純×ぼそっと池井多×山中礼二

SDGsの取り組みが広がるなど、インクルーシブの重要性が叫ばれていた矢先、突然起こったコロナ禍。「世界は真逆の方向へと突き進み始めた」と感じている人は多いのではないか。人と人とのつながりはこのまま希薄化し、社会の分断が進んでいくのか。それともあらたに生まれた絆が未曾有の危機を乗り越える切り札になるのか――。新進気鋭の社会起業家、ひきこもり当事者が語り尽くす。(全2回、前編)(文=西川敦子)

*本記事は、2020年7月22日にZoomオンラインで行った対談を書き起こし編集したものです。

「生産性の暴力」が分断を加速する

山中:今回は「働くを考える」というテーマで、3人の登壇者にお話を伺います。1人目は一般社団法人Ridilover(リディラバ)代表の安部敏樹さん。2009年、東京大学在学中に社会問題を見学するスタディツアーというプロジェクトを開始。ボランティア集団としてリディラバを立ち上げました。現在は事業化されています。他にも「リディラバジャーナル」というメディアや、「リディ部」というオンラインサロン事業、企業や官公庁との協働事業などを手がけています。これまでも東京大学で社会起業をテーマとした講義を受け持つなどしていた一方、ご自身も同大学大学院博士課程で複雑系についてご研究中です。

2人目はNEWYOUTH代表取締役で、慶應義塾大学特任准教授の若新雄純さん。就労支援や教育事業を手掛けるLITALICOの共同創業者、元COOです。2013年、ニートたちとともに設立したNEET株式会社の代表取締役会長としても知られます。事業や政策の企画もしており、女子高生による町づくりプロジェクト「鯖江市役所JK課」をプロデュースするなど、組織のあり方に疑問をぶつけながら次々にイノベーションを起こされています。

最後にぼそっと池井多さん。VOSOTぼそっとプロジェクトのほか、GHO(世界ひきこもり機構)というコミュニティを主宰されています。「ひきこもりと老いを考える会(ひ老会)」や、子の立場・親の立場から互いの本音をぶつける「ひきこもり親子 公開対論」などのイベントも主催されていますね。さらに、ひきこもりの声を発信する情報発信メディア「ひきポス」の記者でもあります。ひきこもり当事者でもあるということなので、ここでもう少し詳しくご本人に自己紹介をお願いしたいと思います。

ぼそっと: ひきこもりになって今年で35年になります。23歳のときに大手企業から就職の内定をいただいたのをきっかけにうつを発症し、ひきこもるようになりました。そとこもりとしてアラブ、アフリカなどを転々とし、30代になって帰国したのですが、また家から出られなくなりました。精神医療を受けた時期もあったのですがうまくいかず、今に至っています。

山中:海外を積極的に転々とされていた間も、ひきこもり期間に含まれるのですね。不思議な気もするんですけれども。

ぼそっと:ひきこもりというのは、社会の主流秩序から外れた人たちなんですね。実家でひきこもっていると親がうるさいからとネットカフェ難民になっていたり、海外を放浪したりする人もいます。我々は「そとこもり」といいます。他に「うちこもり」といって家の中にこもっているタイプ、「がちこもり」といって完全に外界との接触を絶ってしまうタイプもいます。「がちこもり」と「うちこもり」は同じではなく、海外に滞在しながらも「がちこもり」している人がいたりします。

たとえば竹林を考えてみてください。地上からは想像もつかないくらい根っこが地下に入り組んでいますが、ひきこもりの世界にも大きな地下ネットワークがあり、それは国内に留まらず、世界中に広がっています。私は「地下茎コスモポリタニズム」と呼んでおります。ご紹介いただいたGHOなどの場から、地下の声を地上に向けて発信したり、地下の人同士、互いに情報交換したりしています。

山中:ありがとうございます。ひきこもりについて認識を新たにしました。ところで、今日はみなさんに3つのテーマについて語っていただきます。1つめのテーマは、「日本の職業社会をどう見るか」。一言で表現するとすれば、どんなキーワードを挙げますか?

安部:「生産性の暴力」でしょうか。日本の社会ってすごいじゃないですか。なにかといえば生産性、生産性って。たとえば障がい者かどうかもという判断も、働けるか否か、社会が求める生産性レベルを満たせるか否かで決めているようなところがある。しかも、生産性って時代によって要件が変わるんです。

たとえばコミュニケーション能力って、昔は必須の能力じゃなかったと思うんですよ。ところが今では人とうまく意思疎通できないことが問題になり、発達障害と呼ばれたりする。一方でテクノロジーが進歩し、義足のパラリンピックの選手がオリンピック選手の記録を超える日も近い、ともいわれています。

若新:不本意ながら、僕の言いたいことも安部さんの意見に近いですね(笑)。そもそも職業って、いい人生を送るための手段に過ぎないじゃないですか。それなのに日本社会では職業そのものを目的化している。たまたま合わない仕事をしているだけなのに、目的に向かって頑張っていないように言われるのは納得がいきませんね。

NEET㈱のメンバーに、プラモデルが大好きなニートがいるんですよ。腕前が評判になり、製作の受注も来たりして。ところがその話をすると、みんな二言目には「いくら稼げるの?」って聞くんです。2万円くらいだよ、と答えると「食っていけないじゃん」と。彼にとってはすごく満たされる仕事で、自分の存在意義を感じるための手段になっているのに。社会が勝手に「価値がない」と決めつけているんです。

安部:「おまえ、稼げないのかよ」と誰かに言われた言葉を、別の人に「おまえ、なんで稼げないんだよ」とそのままぶつけてしまう。収入の低い人を貶める考え方が、マクロ的に伝播して、一般化していくのが資本主義社会なのかな、という気がしますね。

人間誰しも被害者性と加害者性の両方を持っていると思うんです。自分自身も10代で引きこもりや路上生活を経験しているんですが、たまに学校にいくと嫌がらせをしてくる同級生がいました。今考えれば、彼は彼で何かしら家庭環境に問題を抱えていたのだろうな、と想像できます。他者を攻撃することで、自分が受けた被害の埋め合わせをしていたのでは、と。

そういった攻撃の代わりに、敬意や承認、感謝といった温かなベクトルが他者から向けられるとホッとするし、向けられた方も「生きていてよかった」と思えるじゃないですか。誰もが温かな承認を得られる社会は創れるのか?少なくとも、今の職業社会が進んでいく先にはなさそうですよね。

若新: なるほどね。特に日本って、働く人をギリギリの低賃金でこき使うことで、消費者が恩恵を受けている社会だからね。この前NEET㈱のメンバーに言われたんですよ。「若新さん、日本の牛丼屋では1杯400円払うだけで美味しい牛丼が食べられますよね。しかもテーブルも清潔だし、トイレだってそこそこ綺麗ですよね。どうしてだと思います?」と。彼曰く、従業員が時給1000円程度というかつかつの労働条件で働いているから回っているんだ、と。ニートの多くは大卒ですし、逃げたくなるのも当然ですよ。「仕事はあるんだから働け」という人がいるけれど、乱暴な話だなと。

安部:じゃあ、その400円の牛丼を食べているのは誰なのかって話ですよね。若新さんも僕も牛丼店に行くけど、他の店にも行くでしょ。だけど、安い牛丼の代金を支払うのが精一杯という人たちも世の中にはいる。となると牛丼を安く食べれなくなって困るのはまず経済的に厳しい人でしょう。資本主義に疑問を呈するニートの人が働かないことで、結果として資本主義で得をしている人ではなく資本主義の中で困ってしまっている人に皺寄せがいく。資本主義社会における被害者が消費という行為を通して他の被害者を苦しめ、結果的に加害者になってしまう。稼げない人同士が争うように設計されているのが今の社会だと思います。

若新:そこはまさに人間のリアルであり、生臭い部分だよね。だいたい食べていくこと、生活していくことのリアリティをちゃんと見ずにニートについて語る人が多すぎるんじゃないかと思う。

山中:つまり日本の職業社会は、生産性をベースとする資本主義のあり方が前提に置かれている。生産性の高さにかかわらず、すべての人が温かい思いを受け止められる社会にしなければ、というのがお二人の思いですよね。ぼそっとさん、感じられることがあれば。

ぼそっと:最初、日本の職業社会というテーマをいただいたときに、「どうしよう、私、ほとんど働いたことがないし、日本の職業社会を論じる資格がない」と思いまして、「ちょっと難しすぎます」と申し上げたんです。でも、皆さんのお話を伺っていると、日本の職業社会だけに限られた話ではないのかなと思いますね。「日本の」ではなく「近代の職業社会をどう見るか」について皆さん語られているような気がします。産業革命以降、働くことの意味が変わってしまった。近代以前にあった時間の豊かさに価値が置かれなくなり、あらゆるものが貨幣価値に換算されるようになった、ということではないでしょうか。

「単純なラベリング」に潜む危険

山中:なるほど。いい視点をありがとうございます。では2つ目のテーマについてお聞きします。「コロナ禍により日本社会において何が起きているのか」。

ぼそっと: 「分断とつながり」というキーワードが注目されるようになりましたが、両者は互いに反対方向を向いたベクトルではなく、同時並行的に進んでいるのでは、と思うんですね。あとメディアでは、コロナ禍でいろいろなことが始まったかのように言われますが、どれも前から潜在的にあったことで、コロナ以降、加速しているだけなのではと。

たとえば、ひきこもり当事者やその親御さんなどの「ひきこもり界隈」と呼ばれるコミュニティでも、「居場所(支援サロン)に行けなくなった」「親の会に集まれなくなった」といった問題が相次いでいます。「オンラインで集まればいいじゃないか」という人もいるのですが、多くの当事者や親御さんは経済的に苦しくガラケーしか持っていなかったり、インターネット環境をまったく持っていない。無理をしてスマホを買うにしても、何を買ってよいかわからない、とみんな慌てています。

山中:つながれる人とそうでない人が出てきて、分断も進みそうですね。ただ、いきなり出てきた問題ではなく、実は以前から起こっていたことなのですね。

安部:ぼそっとさんの言う通りですよね。「今、起こっている」とされる事象をちゃんと見つめなければ。よく「飲食店は大変なことになっている」というけれど、飲食店の中でも、経営難に陥っている店とうまくいっている店とがある。「コロナで大変な飲食店」と簡単にラベリングして終わるのでなく、もう一歩踏み込んで細かく見ないと。他者に対する関心の深さが、今こそ試されている気がします。

あらゆる問題はラベルをつけることで「社会問題」になるわけです。共通する特徴をもつ人々を集団として見ることで、初めて「サポートしていきましょう」という議論になる。だけど、個人としてはラベリングされると嫌な気持ちになるじゃないですか。じゃあどうやってラベルをはずせばいいか。僕は、自らラベルをたくさんつけていくことで、社会によってつけられたラベルの意味を軽くできるのではないかと思う。ひきこもりだけど、料理がうまくて、他にもいろんな特技があって――となると、もう「ひきこもり」というラベルは“one of them”になる。

ラベルを増やすことによって、「自分はある事象においては加害者だけど、別の事象では被害者なんだ」ということにも気付ける。自分のなかのマイノリティ性も見えてくるから、偏見を持たずに他人を見られるようになります。コロナのあと、私たちはラベルの数を増やせるのか?それとも減らしてしまうのか?興味がありますね。

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