恵那金属製作所 松岡達也氏「起業したのに30代で赤字の地方企業を継いだ理由」 

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MBAの真価は取得した学位ではなく、「社会の創造と変革」を目指した現場での活躍にある――。グロービス経営大学院では、合宿型勉強会「あすか会議」の場で年に1回、卒業生の努力・功績を顕彰するために「グロービス アルムナイ・アワード」を授与している(受賞式の様子はこちら)。2018年、「変革部門」で受賞した恵那金属製作所 松岡達也氏(グロービス経営大学院、2015年卒業)に、MBAの学びをどのように活かしたのか聞いた。(聞き手=橋田真弓子、文=石井晶穂)

知見録:受賞おめでとうございます。

松岡:ありがとうございます。研究科長の田久保善彦先生は、「グロービスの価値は卒業生が決める」とよくおっしゃっていた。今後、私たち卒業生がさらに活躍することによって、いただいたトロフィーの価値も上がっていくと思う。将来、私の子どもがトロフィーを見て、「お父さん、グロービスで賞をとったんだ。すごいね」と言ってもらえるように頑張っていきたい。

「起業」という目的に向かって会社を選ぶ

知見録:これまでの道のりを振り返ってほしい。

松岡:もともと大きな夢もなく、「普通に暮らしていければ」くらいの感じで生きていた。そんな自分を変えたのは、大学3年生のときの留学経験だ。1年間、休学してカナダのバンクーバーに留学した。そこでさまざまな人たちと出会い、「自分の視野ってこんなに狭かったのか」と実感した。気がつけば、大学卒業後3年以内に起業するという目標を立てていた。

新卒で入った空間プロデュース系のベンチャー企業では、年間360日くらい仕事をしていた印象。残業代もなく、今なら「ブラック企業」と言われるだろう。しかし自分は、起業のための投資と考えていたので、まったく苦にならなかった。むしろとても楽しかった。最終的には当時、任されていた新規事業を近い将来会社化する話まで出たが、目標はあくまで自分の会社をつくることだったので、転職の道を選んだ。

知見録:次に入社したのは、大手製薬企業だったとか。

松岡:ベンチャーでいろんな経験をしたので、次は大企業がどんなところか見ておきたかった。ところが、これが大失敗だった。外資系だったが社内の上下関係や食事会の雰囲気は日本より日本風に感じ、全く馴染めなかった。

早々に見切りをつけ、ITベンチャーのドリコムに転職した。まだ上場前で知名度も低く、年収も下がるので、大企業を辞めることを周りからは相当反対された。でも、自分の会社をつくるという最終的な目標のために必要な転職だったので、「わが道を行く」を貫かせてもらった。

知見録:給与や安定より、起業に必要な経験やスキルを身につけることが最優先だった。

松岡:入社半年で上場したが、上場前後の過程を経験することができたのは貴重だった。会社が上場し知名度が上がると周りの反応がこう変化するんだとか、ベンチャーでも優秀な人を集められるんだとか、新しい発見がたくさんあった。2年半ほど働かせてもらって、いよいよ自分の会社をつくることにした。

ランチに200円しか使えなかった貧乏時代

知見録:どんな会社を立ち上げたのか?

松岡:何をするかはあえて決めなかった。決めたのは「誰とやるか」ということだけ。やることはどんどん変わっていくと思ったし、変えていくべきだと思っていた。

当初は営業代行の仕事を請けていたが、それでは雇われているのと変わらないと思うようになった。そこで、自社製品の開発を始めたのだが、運悪くそのタイミングでリーマンショックが起こった。ただでさえ苦しい時期に大きな逆風を受け、その1年後にはあと3か月で倒産するというところまで陥った。

このとき、生まれて初めて「貧乏」というものを経験した。お金が使えない節約生活は何度も経験してきたが、お金がない、入ってこないというのは精神的に全く別物だった。ランチには200円しか使えなかったし、翌月の家賃が払えるかどうかという時期もあった。ただ、自分たちの給料を支払わなくても、従業員の給料はきちんと払っていた。そんな状況も社員のせいにしてはいけない、自分が売上をつくって利益を出せばいいんだと考えるようにした。そうしてマインドを変えていったら、最終的には危機を乗り越え、会社を軌道にのせることができた。

知見録:現在の会社にはどのようにして?

松岡:もともと妻の実家が経営している会社だった。結婚前から、「会社を継ぐ気はないか?」と義父から言われていた。しかし自分の会社をつくる夢があったので、そのたびに断っていた。会社をつくり、妻と結婚してからも、そのオファーは何度もいただいていた。

ところが妻と結婚して1年半後、義父がガンで亡くなった。義母が会社を継ぐことになったが、ピアノの先生をしていた義母は、ビジネスに関してはまったくの素人だった。社員が80人もいるのに、これからどうするのか。自分の会社も大変な状況だったので、義母が苦しんでいるのを横目で見て見ぬ振りの状態だった。

義父がかけてくれた忘れられない言葉

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知見録:とはいえ、お父様の死が事業承継のきっかけになったと。

松岡:起業してリーマンショック後のお金がなかったころは、新宿から出ているいちばん安い昼の高速バスで、岐阜県にある妻の実家に帰っていた。当時は、本当に痩せこけてしまって、顔に吹き出ものがいっぱいできているような状態。義父も経営者だから、私の様子ですべてわかったのだろう。「お金に困ったらいつでも言ってこいよ」と言ってくれた。実際に借りることはなかったが、その気持ちだけで本当に嬉しかった。

当時、義父はおそらく、自分の余命をわかっていたのだろう。自分が死んでも会社を残したかった。だから、私に後継者になってほしいと頼んでいたのだろう。それなのに死ぬ前には私の会社のことを応援してくれた。そんな義父の思いがつまった会社を潰していいのか。社員を路頭に迷わせていいのか。義母を自己破産させていいのか。ここで見て見ぬふりをしたら絶対、後悔すると思った。

知見録:それで2011年7月、入社を決断した。

松岡:最初は作業服を着て、工場で油まみれになって働いた。まずは経営よりも現場だと思った。会議にだけは出させてもらっていたが、経営状態はひどくなる一方だった。売上10億円に対し、借入が数十億円あり、利益も出てないのに毎月数千万円を返済するためにまた借入をしなくてはいけない。そんな状況だった。

知見録:そこからどう会社を立て直したのか。

松岡:当初は社員の反発もあった。30代の若造にあれこれ口を出され、古株社員は面白くなかったのだろう。義父も亡くなっていたので、後ろ盾も何もなかった。とても孤独だった。それでも誰の批判もせず、感情的にならず、自分がやるべきことを真摯にやり続けていたら、徐々にわかってくれる社員が増えていった。

ここには価値観を共有できる仲間がいる

知見録:そして2016年、会社の創業70周年のタイミングで社長に就任することになった。

松岡:2013年に社長交代の日を2016年と決めたが、実は2015年末、まだ社長だった義母が急性骨髄性白血病になった。その後、計画通り2016年2月の定時株主総会で義母は私に社長を譲り、その3週間後に亡くなった。

義母を守ることがモチベーションのひとつだったので、なんのためにこれまでやってきたのかと深く落ち込んだ。連帯保証を背負ってまで、継ぐべきだったのかと。そのときに考えたのは、やはり社員のことだった。創業家が望んでいたのは、今いる社員が安心して定年まで働ける会社にしてほしいということ。その思いを、自分が引き継いでいこうと決心した。

知見録:グロービスに入学したのは経営を学ぶため?

松岡:実はそうではなかった。中津川という知らない土地にやって来て、慣れない現場仕事をし、古株の社員からは嫌われる毎日。なのに、自分は大阪出身ということもあって、東海地方には知り合いがひとりもいなかった。価値観を共有できる仲間が近くにほしいと思っていた。そうでないと精神的におかしくなりそうだった。

グロービスの体験セミナーに参加したとき、「ここには価値観を共有できる仲間がいる」と思えた。それが入学の決め手だった。心の安定と、仲間を求めてグロービスに入ったというのが正直なところ。こんな動機で入学する人は、きっと珍しいかもしれない。

知見録:いえ、それもありだと思う。

松岡:だから、グロービスで経営を学びたいという気持ちは正直なかった。もっと言えば、起業した経験から「勉強して経営がうまくいくなら苦労しない」とも思っていた。ところが実際に学んでみると、「こんなことも知らずによくやっていたな」と思う自分もいた。結果的には、経営にもプラスになっていると思う。

当時は仕事が大きなウェイトを占めていたので、授業に出席する時間を取るのが難しかった。睡眠時間が2時間なんてざらだった。中津川から名古屋校まで鈍行で1時間半かけて授業を受けに行っていた。ときには夕方に早退させてもらい、新幹線で東京校へ行って振替授業を受け、深夜バスで朝5時に帰ってきて、そのまま仕事に行くこともあった。

大変な毎日だった。でも、途中で辞めてしまったら、仲間たちと本当の友だちになれないと思った。卒業まで一緒の時間を過ごすからこそ、絆は深まるのだと。結果、彼らとは卒業したいまもよく会っているし、むしろ卒業してからのほうが付き合いが深くなった気もする。おかげで精神的にもリフレッシュできている。

学びは対外的な信用にもつながる

知見録:いろんなコミュニティにも参加していたそうだが。

松岡:事業承継に携わる人だけが参加できる、「名古屋事業承継者の会」というコミュニティに参加した。また、同期で工場経営に携わっている人が何人かいたので、お互いの工場を訪ねて、いいところ、悪いところを指摘し合ったりもした。信頼できる限られたメンバーだけで、「決算発表会」もやっていた。そこではリアルな数字まで、すべて開示する。

その中では、私は完全に劣等生だった。ほかのメンバーは会社の業績もよくて、自身も非常に頭のいい人ばかりだった。自分が好きで選んだ道なので比較はしなかったが、すごいなと思いながら見ていた。

彼らにうちの会社の決算書を見せると、「いまからやめても遅くないよ」とか、「金融機関にリスケの提案書を出したほうがよいのではないか」とか、同情されたり、心配されたりした。恥ずかしかったが、ありのままの自分をさらけ出すことができたので、気分は楽になった。

知見録:ほかにグロービスが役立ったことは?

松岡:いちばん効果を感じたのは、金融機関に対してだ。最初は「東京から来た若造が」みたいな感じだったのが、グロービスのおかげでファイナンスについての質問にも対応できたし、MBAを学んでいるということで相手に安心感を与えることができた。実際、金利もかなり下がったし、対外的な信用という部分でグロービスにはすごく助けられたと思う。

ただし、社員や地元の人には、グロービスのことは言わないようにした。現場で働いてきた人からすると、少し偉そうに見えてしまうかもしれないので。社員や地元の人との距離を広げたくない。だから「ビジネス」という言葉すら使っていない。「仕事」という言葉を使う。逆になんて言えばいいのか迷うときもあるが、できるだけ平易な日本語を使うようにしている。

地域で輝ける社員を増やしたい

知見録:今後の目標について聞かせてほしい。

松岡:「今のままでいい」ではなく、「この場所で成り上がりたい」というマインドを持った社員を増やしていきたい。かつての社内には、「祖父も父も工場で働いていたから、自分も工場で働くんだ」とか、「どうせ俺は一生このままなんだ」といった後ろ向きなマインドがあった。社員には、努力すれば報われるんだという希望を持ち続けてほしい。だから私の会社の評価制度は、学歴、年齢、国籍、性別、一切考慮しない。

年収1000万円を稼ぎたいなら、努力しだいで実現できる仕組みも用意している。実際、わずか34歳で子会社の社長になった社員もいる。やる気のあるメンバーはどんどん上に行けるようにする。東京に出なくたって、いい人生が歩めるような場を提供していきたい。

知見録:事業についての目標は?

松岡:入社以来、当たり前のことをただ愚直にやってきた。赤字部門の垂れ流しをやめる。赤字のものは黒字にする。黒字のものはもっと黒字にする。その結果が出てきたと思う。いちばん大変だった時代は売上がわずか10億だった。それが現在、20億まで伸びた。2年ほど前から新規借入も行っておらず、完済出来る目処が十分に立った。明るい未来が見えてきたし、今後は新しい事業にも取り組んでいきたい。

とはいえ、地域から離れた場所に工場をつくったりするつもりはない。今いる社員が、今いる場所で、定年まで働けること。それが、私の目指す会社の姿だ。私がこの会社を継いだのは、創業家と社員を救いたいという一心だった。その初心を忘れずに、経営にとり組んでいきたい。

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