人的資本時代到来も、現場では手探りな状態が続く
人的資本経営――企業が戦略的に人材投資し、従業員の能力を高めることで、持続的な企業価値の向上につなげる経営のあり方をいう。2020年9月に、経済産業省開催の「持続的な企業価値向上と人的資本に関する研究会」の最終報告書(通称:人材版伊藤レポート)が発表されたことで、「人的資本経営」が注目され始めた。今や人事の業界で、このキーワードを聞かない日がないほど、重要な考え方として認識されている。
一方で、「人的資本経営」というキーワードだけが先行し、その考え方や全体像が掴めないとの声も多く聞く。加えて、「人的資本経営」の実現にはその情報開示が不可欠だが、開示の対応方法ばかりに目が向きがちである。結果、肝心の「人的資本」を高めるための実践がおざなりになっている企業もしばしば見かける。
本書はこうした現状に対して、「人的資本」を高めるためのヒントを与えてくれる一冊だ。人的資本経営の戦略論や開示論ではなく、実践を意識した現場目線で書かれている。
人的資本経営の成功の鍵を握るのは現場のリーダー
人的資本経営の成功の鍵を握るのは、現場のリーダーである――本書はこう言い切る。そして、現場のリーダーに向けて本書が提案するのは、チーム経営責任者(Team Management Officer、略称TMO)という新しい役割だ。どういうものか。
TMOに期待されるのは、「チームの人的資本の最大化」だ。そのために、TMOにはチームの業務目標を達成するのはもちろん、メンバー一人ひとりの能力が最大発揮されるように成長をサポートし、常にチームを変革していくことが求められる。
本書ではこうした期待役割を果たすために必要な能力を7つ挙げている。チームの人的資本を伸ばす能力として「① キャリア支援力」「② 強み発見力」、チームの人的資本を活躍させる能力として「③ 仕事アサイン力」「④ チームビルディング力」、チームに人的資本を補充する能力として「⑤ 人材獲得力」「⑥ オンボーディング力」。そして最後に、チームの人的資本と経営戦略をつなぐ能力としての「⑦ 全体俯瞰力」だ。
さて、ここまで見ると、こう疑問に思った方もいるのではないか。TMOは従来の中間管理職と何が違うのか、と。その通り、「人的資本経営」をはじめ言葉は新しいが、これらの考え方は以前から存在していたものなのである。
ただし、従来と大きく異なるのは、能力開発や自律的キャリア形成支援などの「従業員の能力」を重視する姿勢だ。この違いは、テクノロジーの進化や国際規格の整備などによって、人的資本の価値を測る指標が数値化でき始めたためだ。これまで見えにくいものに対して何とか舵取りしていたところに、具体的な指標が定められたことは、日々悩ましい問題を抱える現場のリーダーにとって好機である。
これまでのマネジメントは、空気を読みながらせざるを得ない部分が多分にあった。しかし、今回人的資本を中心に具体的な指標が定められたことで、集中すべき領域が明確になり、リーダーはPDCAサイクルを回しやすくなったはずだ。もちろん数値ばかりを気にするのは間違いだが、これまで経験や勘で何とか対応していた部分が可視化され、マネジメントが今よりもしやすくなったのは事実である。現場のリーダーがこれらをうまく使いこなせれば、チームとしての成果も加速度的に上げられるはずだ。この観点で、リーダーが「チーム経営力」を身につけられれば、人的資本経営は成功すると、本書は力強く主張している。
本書を羅針盤に、人的資本経営という新たな海への航海に乗り出そう
本書の終章には、人的資本経営の実践において、5つのありがちな罠が紹介されている。そのうち、「経営層だけでやってしまう罠」には大いに共感した。と同時に、この罠を回避するのはそう簡単ではないとも思う。
例えば、経営層を中心に計画を考えるも、現場では期待通りに実行されず絵に描いた餅で終わってしまう、という場合がある。これは人的資本経営に限らず、他の施策でもありがちな罠だ。この罠を回避するには現場の巻き込みを行うべし、と本書は述べているが、経験上、この巻き込みが何より難しい。
特に悩ましいのが、現場を巻き込むタイミングだ。計画策定から現場を巻き込むと、論点が拡がって話がまとまらなかったり、短期的な視点に留まってしまったりする。かと言って、計画を固め、実行の段になってから巻き込んでも、現場の理解度・納得度が高まらず本気で取り組んでくれない。
このように巻き込むタイミングの巧拙が計画成功に大きく関わる訳だが、現場のリーダーのための教科書なら、実行上でのより具体的な難所やその向き合い方まで踏み込んで教えてもらいたかったのが本音だろうか。世の中的に人的資本経営自体の実践事例が少ないがゆえに致し方ない部分もあるが、良書なだけに最後に少し物足りなさを感じてしまった。
人的資本の情報開示は、早ければ2023年3月期の有価証券報告書から各社に義務付けられるとの報道もある。この流れは不可逆で、今後益々加速していくだろう。まだ実感のないリーダーも、今後この波に巻き込まれ、戸惑う日が来るかもしれない。そのとき、本書の存在を思い出して欲しい。きっと人的資本経営時代の羅針盤になるはずだ。
『人的資本の活かしかた 組織を変えるリーダーの教科書』
著者:上林 周平 監修:田中 研之輔 発行日:2022/7/30 価格:1,760円 発行元:アスコム