南米チリの砂漠の町で観光開発の支援をしていた際、現地で日本の知人に会う機会があった。外資系企業でいいポジションにつき、都内のど真ん中にあるタワーマンションに住む彼女は、高級ブランドのバッグを手にこう言った。「宝くじに当たったら、今の仕事をやめて何か別のことをしたい」。返す言葉が見当たらなかった。同年代の倍ほどの年収を稼ぎ、多くの人が憧れるような暮らしを送っているように見えても、本人が仕事に満足しているとは限らないのだ。
彼女のように、現代の多くの人々は自身の仕事が無意味なものだと感じているのではないか。過去200年の間に世界は様変わりした。技術は進歩し、平均寿命は延び、経済的にも豊かになった。一方で、格差はますます広がっている。勝ち残ることに忙しく、自分にとって意味のあることが何かなど考えている時間もエネルギーもない。うつ病はかつてないほど増えた。一体何が起きているのだろうか。
現代の真の危機は、より良い世界を思い描けなくなっていることだと著者は言う。人々がより良く暮らせる社会を目指すには、今までとは違う地図が必要だ。著者は、膨大な事例や文献を丁寧に読み解き、社会の常識に疑問を投げかけて、新しい道を提案している。それがベーシックインカムだ。
著者のブレグマンは1988年オランダ生まれ、ピケティに続く欧州の若い知性として注目を集める歴史家・ジャーナリスト。本書は、ブレグマンがオランダの独立系オンラインメディア「デ・コレスポンデント」に発表した記事が元になっている。2014年に出版化されるとまずオランダ国内でベストセラーとなり、アマゾンのプリント・オン・デマンドを利用した英語版が発表されるやたちまち話題を集め、すでに20カ国で出版が決定したという注目の1冊だ。こうした分野になじみがないという人も心配はいらない。興味を惹く事例をふんだんに使い、今の社会が抱える問題をわかりやすく示している。
例えば、第2章ではベーシックインカムの有効性を示す事例がいくつか紹介されている。2009年にロンドンで行われた実験では、13人の路上生活者に3千ポンド(約43万円)の現金が無条件で支給された。1年半後には7人が住む場所を手に入れ、全員が将来に向け生活を立て直す足がかりを得ていたという。アルコールやドラッグであっという間になくなってしまうのではという大方の予想を見事に裏切る結果だ。
貧しい人が間違った判断をすることはよくある。貧しくない人々は「愚かだから貧しいのだ」と考える。これに異を唱えるのが第3章の「欠乏の心理」だ。人は、差し迫った不足があるとそこに気を取られ、長期的な視野を失う。自分をコントロールすることが難しくなり、判断を誤る。今日の食事、明日寝る場所、次の仕事など、貧しい人々は常に不足に悩まされている。するとメモリ不足のコンピュータのように、思考は低下してしまう。ある研究者によると、貧困はIQを13~14ポイントも低下させるという。驚きである。
ビジネスパーソンが知っておきたい内容も多く含まれている。例えば第5章では、GDPが何を測る指標なのかを成り立ちとともに解説し、GDPでは測れない価値について問題提起する。第6章では、日本でももっぱら話題となっている労働時間の短縮について論じ、私たちの生活にどう役立つのかを示している。
仕事が生み出す価値について疑問を投げかけた第7章も面白い。ブレグマンによると、現代の仕事の多く、とりわけ高額の給料を得ている職業ほど「富を移転するだけで、有形の価値をほとんど生みだしていない」という。ストライキを起こしても、誰もさほど困らない仕事に多くの頭脳が費やされているというわけだ。その上、多くの人が自身の仕事はたいした価値はないと感じているとなると、今の社会はどれだけ多くを浪費しているのかと思わざるを得ない。
私たちは既存の競争ルールや社会の仕組みを、手のつけられない「所与のもの」として捉えがちだ。今の仕組みの中でどうやって勝ち、生き残るかを考えるのに忙しく、仕組みそのものを変えることまでは思い至らない。だが、このところのさまざまな環境変化を見ていると、ルールや仕組みそのものを変えるべき局面が近付いているようにも思える。本書は、ベーシックインカムの提案を入口に、環境変化に翻弄されるのではなく、自ら新しいあり方を考えるための方法を示しているとも言える。
こうした著者の主張を手っ取り早く知りたいという方には、ブレグマン自身による、切れ味のよいTED talkもおすすめだ。現状を変えることに関心がある人はもちろん、今の社会が抱える問題の構造を知りたい人にもおすすめの1冊だ。
『隷属なき道 AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働』
ルトガー ブレグマン(著)、野中 香方子(訳)
文藝春秋
1,500円(税込1,620円)