日常のビジネスシーンに潜む数々の“落とし穴”。なかでも、営業先でのプレゼンや得意先へのメールなどコミュニケーションにおける転ばぬ先の杖を中心に、グロービス経営大学院で教鞭を執る嶋田毅が紹介する新連載。第4回は、数値目標の共有がうまくいかなかった、出版社編集長・神野氏の例を見てみよう(この連載は、ダイヤモンド社「DIAMOND online 」に寄稿の内容をGLOBIS.JPの読者向けに再掲載したものです)。
前回までは、プレゼンテーションの時に起こりがちな、『聞き手の関心を外す』という「落とし穴」を取り上げてきた 今回から3回にわたっては、「指示」に関する落とし穴を取り上げる。
まず、今回のテーマは「数字」。ビジネスパーソンにとって、数字を用いて判断をしたり、コミュニケーションしたりすることは、極めて日常的なことだ。しかし、そこに使われている数字は本当に意味があるのだろうか?数字だけが一人歩きし、「なぜその数字を用いたのか」という根拠があいまいになっているケースも少なくない。
【失敗例】「これまではこの数字でよかったのに・・・」
神野氏は、30代の若さながら、中堅のビジネス系出版社Bizプレス社の第六出版部で編集長を務めている。以前は、人文系学術書では老舗の紅葉出版に勤め、主に哲学書や歴史書、心理学関係の書籍などを扱っていた。もともと経済学部出身ということもあってビジネスに興味があり、また、老舗ならでは硬直した人間関係に嫌気が差し、転職したのである。
Bizプレス社は、比較的若い読者向けにスキルアップ系の書籍や自己啓発書などを発売している新進の出版社だ。神野氏がいる第六出版部は、主に「人物もの」を手掛けている。価格は高くても2000円程度。3ヵ月前に神野氏が自ら手掛けた、ベンチャー起業家の半生を描いた書籍が15万部のヒットとなり、編集長とはいえ、新参者の神野氏としては大いに面目をほどこしたところである。
神野氏の喫緊の悩みは、経営陣からの「費用引き締めの要請」である。原料高騰の余波から紙の価格が高騰し、収益性を圧迫していた。ただでさえ、WEBとの競争や活字離れがある。コスト削減が必須なのはよく分かっているつもりだが、あまり経費を切り詰めてしまうと、「貧すれば鈍す」となって縮小均衡に落ちいりかねない。一番いいのはヒット作の比率を高めることだが、一朝一夕にできる話でもない。さて、どうしたものか・・・。
神野氏の目を引いたのは、第六出版部の「返本率の多さ」である(書籍は「再販制」「委託販売制」をとっているため、小売店である書店が自らのリスクで商品を買い取るわけではない。書店の店頭で売れ残った書籍は出版社に返品される)。
ここ3ヵ月の第六出版部の返本率を見ると、概ね50%だ。以前勤めていた紅葉出版の返本率30%に比べると、著しく高い。Bizプレス社全体の返本率47%と比べても若干高めである。返本率が50%ということは、せっかく印刷製本した書籍が、結局半分は戻ってくるということである。
なんと無駄なことだろうか。前職時代には、上司から「返本率が40%を越えるような編集者は会社を去ってほしい」とまで言われていた。神野氏の頭には、この「40%」という数字がこびりついていた。
神野氏は、部内会議で部下にこう言い渡した。
「うちの部の返本率の高さは危険水域だ。これから出す書籍については、平均40%をめどにしたい。本当は前の会社で基準にしていた30%といいたいところだが、いきなりは難しいだろうから、まずは40%を目指そう。本当はこれだってまだまだ危険水域だが・・・」
「えーっ?!」
スタッフからはいっせいに声が上がったが、出版業界の厳しさは部下たちも認識しているので、表立って反論する人間はいない。
「じゃあ、大変だとは思うが、皆この数字を強く意識してほしい」
それから1年弱――。第六出版部の書籍の返本率は、神野氏が檄を飛ばした効果もあってか、40%を切り、38%にまで低下した。しかし、神野氏は浮かない顔であった。
「確かに返本率は下がったが、それ以上に出版点数や売上げ部数が減ってきている。企画から出版までのリードタイムも長くなっているし・・・」
その頃、部下の木村は仲間にこう漏らしていた。
「まあ、言われれば、上司の言うことだから頑張るけど、どうも40%とか30%という目標数字が腑に落ちないんだよな。前の会社ではこうだったといわれても・・・。本を売る上では書店での露出も重要だし、販売機会ロスを避ける上でも、ある程度の店頭在庫は必要なのに・・・」
【解説】なぜ神野氏の取組みはうまくいかなかったのか?ある条件下で有効な数字=常に有効な数字 ではない
さまざまなノウハウや判断基準は、自分1人だけのものにするのではなく、組織内に横展開してこそ意味を持つ。それまでに有効であることが判明した方法論やノウハウ、時には失敗事例などを形式知化、パッケージ化し、新たな市場の攻略、経営管理などに使うのだ。
そうした横展開の際、「数字」は非常に大きな武器になる。テキスト(文章)情報に比べると客観性が高く、受け手の判断のブレが小さくなるからだ。記憶や印象にも残りやすい。逆に言えば、数字はそれだけメッセージ性が強く、使い方によっては毒にもなりやすいということだ。
今回のケースでは、神野氏は前職での経験から印象に残っていた「40%」という数字にこだわり、それをそのまま転用して部下に指示を出した。しかし、そもそもこのアプローチは正しかったのだろうか?
あるところで有効であった判断基準の数字が、そのまま他でも使えなかった、という経験をお持ちの方は多いはずだ。例えば、東京で有効だった値付けの基準は、必ずしも名古屋や大阪でも有効とは限らない。営業部門で有効だった業績連動型の人事考課制度が、開発部門では逆効果をもたらすかもしれない。
Bizプレス社の第六出版部も同様だ。紅葉出版で合理的であった数字が、今回も有効であるためには、いくつかの「前提」が必要だ。例えば、
・顧客層が似通っている
・商品ラインや価格帯が類似している
・出版を取り巻く環境に大きな変化は起きていない など
実際には、商品ラインも異なるし、顧客層も異なっている可能性がある。また、紅葉出版では、教科書需要などの固い売上げが見込めていたにもかかわらず、Bizプレス社には浮動票的な読者層しかいないのかもしれない。
だとすれば、必要以上に返本率を下げようとすることは、編集者の挑戦心やスピードを殺ぎ、それが出版点数の停滞につながった可能性もある。また木村がぼやいているように、世の中全体の出版点数が増える中、店頭での存在感が下がり、競合商品の中で埋没する結果になったのかもしれない。
いずれにせよ、その数字が有効となる前提を理解しないままに、自分自身が印象に残る数字をそのまま使ったところに大きな落とし穴があった。特に、今回のケースのような、40%や30%といった「切りのいい数字」は一人歩きしやすく、もともとの前提から切り離されやすい。
「数字の一人歩き」という 落とし穴を避けるには?
今回のケースのような「数字の一人歩き」という落とし穴にはまってしまう原因には、例えば以下がある。
■置かれた環境(前提)の違いに無頓着、無関心
■面倒くさがりゆえに、出来合いのものを使ってしまう
■仮説検証マインドが弱い
最初の2つはあまりにプリミティブなので、ここでは3つ目の「仮説検証マインドが弱い」について説明しよう。
ビジネスにおいては、自然科学の法則のような「絶対的な正解」はない。どれだけうまくいった戦略や施策も、極論すれば「仮説」にすぎない。仮説であるから、当然、さらなる活用に当たっては、(求められる程度は状況によって変わってくるが)何かしらの「検証」が必要になる。
その際、何がこれまでと共通で、何が違うかを、まさに仮説として持ち、検証しながら走っていくのである。結果として、過去のやり方がそのまま有効な場合もあるだろうし、大きな変更が必要になるかもしれない。仮にやり方が変わらなかったとしても、そうした検証・検討を経た場合と、まったく経なかった場合では、大きな違いがある。
個人レベルだけではなく、組織として仮説検証マインドを持つことも重要である。対話を増やしたり、人の行き来や交流を増したりすることも、単純だが有効である。このようなコミュニケーションを通じて、形式知化されたものの前提条件や行間が共有されるからである。
市場をはじめ、経営環境は常に変化している。より変化の最先端を行く情報が見つかったら、それを組織にスピーディに還元することが重要だ。成功体験を無批判に受け入れるのではなく、健全な批判精神を持ちながら、新しい現実に対し、的確に迅速に応えて行くことが求められているのである。
追記:なお、数値分析を用いていかに相手の行動や態度変容を促すか、というテーマに関しては、筆者のグロービス経営大学院の同僚である田久保善彦氏が主に執筆した『ビジネス数字力の鍛え方』(グロービス著、ダイヤモンド社刊、7月3日発売)に詳しい内容が載っている。筆者もプロデュース、編集に携わっているので、ご興味のある方はぜひご一読いただきたい。
次回も引き続き、『指示の落とし穴』について、別のケースをご紹介します。