吉田素文氏(以下、敬称略): あすか会議ではここまで、「我々は今、そして将来どうすべか」という議論をしてきたが、最後の分科会となる本セッションでは少し視点を変えて過去の話をしよう。現在と将来を考えるうえで歴史に学ぶ。そんなテーマで、出口さんと小坂さんという素晴らしいスピーカーにお越しいただいた。ただ、あまり漠然とした話も面白くないと思うので今回は中国というテーマを中心にお話したい。(01:08)
まず、会場の皆さまに質問したい。「私は中国に結構詳しい」という方はどれほどいらっしゃるだろう(会場少数挙手)。あまりいない。次に、「正直、中国ってそんなに好きじゃないんだよね」という方はどうか(会場複数挙手)。あ、結構いる。では、「自分はこの先、中国とまったく関係なく生きていける」という方はいらっしゃるだろうか(会場挙手なし)。いない。つまり、そういう位置づけの国なのだろう。我々の現在と将来に恐らく甚大な影響を及ぼしていくお隣の国だ。ただ、かなり多くの課題を抱えていて、難しい問題も数多く起きている。まずはその中国がどんな国であり、そういう国と我々がどう向き合うべきかといった議論をしたい。そのうえで最後に話を少し広げて、歴史から学ぶことの意義も伺っていこう。では、出口さんから。(02:04)
出口 治明氏
出口治明氏(以下、敬称略): まず、経済学者であるアンガス・マディソンの推計によれば、中国はアヘン戦争まで世界GDPの2〜3割を占めるぶっちぎりの大国だったというファクトがある。で、アヘン戦争後はがたがたになったけれど、現在はそれがまだ12.1%なので、元の状態にはまったく戻っていないことが分かる。(03:37)
で、中国の特徴についてはいろいろ言われるが、世界史のなかで最も中国らしいのは漢字と紙があったことだ。また、始皇帝という天才が2200年ほど前に現れ、すでに近代的中央集権国家をつくった点にもある。このようにエリート官僚が広い土地をコントロールしていた国は世界に存在しない。ほぼすべての国で、王様は地方領主の上に乗っていた。文書行政とも言われるが、そこが中国の非常に特異な点だ。(04:58)
また、中国には2000年以上前に孟子が現れ、人民主権の思想をつくった。悪い政治をしたら最初は天にいる神様が警告を発するが、「それでも言うことを聞かないなら人民は立ち上がって政権を潰していいというのが天の命令だよ」と。易姓革命と呼ばれる、そんな特異な思想をつくった国でもある。そしてもう1つ。中国の歴史は、北の遊牧民と揚子江をベースにした農耕民族による争いの歴史でもある。ただし、武力は遊牧民が圧倒的に強いのだけれども中国の農耕民は懐が大変深いから、すべて飲み込んで消化してしまった。恐らくこの3点が中国という国の特異性だと考えている。(05:54)
一方、近代の中国と日本に話を移すと、大きな分水嶺となったアヘン戦争の影響は徳川政権にもあっという間におよんだ。1840年に始まったアヘン戦争に中国は破れ、1842年に南京条約が結ばれたとき、徳川政権は薪や水を外国船に給与してもいいという方向に大転換した。それまで異国船打払令があったわけだから、日本は割と柔軟性に富んでいた。「世界がえらい動いている」と、すぐに対応している。(07:13)
その話だけで3時間ほどかかるから今日は大胆に飛ばすと(会場笑)、日中関係がおかしくなり始めたのは1915年だと思う。今年は第一次世界大戦勃発から100年が経つけれど、この大戦で日本は日英同盟を盾に取り、望まれない戦争を勝手に始めた。世界の目が欧州に注がれているこの際、鬼のいぬ間の洗濯とばかりに対華21ヶ条要求を中国に突きつけた。これは国辱的な要求だ。ここから日本と中国の関係がおかしくなる。あまり注目されていないが、日中関係において第一次世界大戦は大きな節目だったことだけは覚えておいたほうがいいと思う。(08:16)
ただ、中国が好きでも嫌いでも、お隣の国である以上はうまくディールをしていくしかない。僕が京大で国際関係史を習っていた故・高坂正堯先生が今も生きておられたら、「日本にとって今1番得なのはなんや」とおっしゃるだろう。TPPのGDP押し上げ効果はたしか0.5%前後だけれど、日中韓FTAなら1.5%。現実家であった高坂先生であれば、「じゃあ、早く日中韓のFTAを結んでがんがん儲け、そのお金で自衛隊を強くしたらどうや」なんて言うと思う。とにかく、個人は引っ越せるが国は引っ越せないのだから、リアリズムが何より大事になる気が僕はしている。(09:34)
小坂 文乃氏
小坂文乃氏(以下、敬称略): 私がご紹介する歴史は、出口さんに今お話ししていただいていた歴史の一部分だ。孫文という人は皆さんもご存知かと思う。中国では孫中山と呼ばれる人物だ。中山というのが実は中山(なかやま)さんという日本人名から来ていることをご存知の方はどれほどいらっしゃるだろう。中国ではどの都市にも中山通りや中山公園といった名前の場所があるほど、孫文は今でも中国で大きな尊敬の念をもって迎えられている。彼は、台湾をはじめとした全アジア、さらにはアメリカやヨーロッパにも足跡を残している。中華圏および全世界の中華ネットワークを考えるうえでも、私たちは孫文についてもっと学ばなければいけないと思う。(12:00)
なぜなら孫文は30年におよぶ革命生活のうち、10年間も日本との関わりを持っていたからだ。そのなかで最初に出会った日本人が梅屋庄吉だが、孫文はほかにも1500人近い日本人とさまざまな関係を持っていた。清朝が中華民国に変わる歴史の中心となった辛亥革命で指導的役割を果たした孫文に、実は多くの日本人が携わっていたと。ただ、その歴史は最近までほとんどの日本人に知られておらず、中国でも学者やごく一部の方々が知るだけだった。でも、これほど日中関係が取り沙汰される今だからこそ、日本人はその歴史を知らなければいけないと思う。120分ほどあればきちんとご説明できるが(会場笑)、今日はそれを10分ほどでお話ししたい。(13:09)
孫文の周りにいた日本人は主に九州の人々だ。私の曽祖父である梅屋庄吉も長崎出身。大陸に1番近いという土地柄もあったし、明治維新などをリードしていったエネルギーが九州人にあったのだと思う。梅屋は長崎で1861年、明治元年に生まれた。明治元年の長崎をイメージしていただくと分かると思うが、当時は唯一、世界とつながっていた場所だ。中国に最も近い場所でもあった。そこに生まれた梅屋庄吉が孫文と出会い、「アジア人同士手を組んで、強いアジアをつくろう」ということになる。(14:08)
2人は1895年、香港で出会った。1894年に始まった日清戦争に清が破れたことで、孫文は、「革命の好機が訪れた。腐敗した清朝を倒して新しい国をつくろう」と考えた。清の敗北が孫文の革命に拍車をかけたわけだ。梅屋庄吉と孫文が出会ったのはその頃。長崎出身の梅屋庄吉は当時、香港を舞台に写真ビジネスで大きな成功を収めていた。それで香港における日本人の顔役的立場になっていた彼と革命を起こしたいと考えていた若い孫文が出会い、互いに共感を抱いた。梅屋はまた、日本の兄弟である中国がアヘン戦争以降、人としての尊厳を欧米に奪われていたような状況にあったことも憂いた。「それが日本に及んだら?」という気持ちもあっただろう。(14:59)
そして孫文の思想に共鳴した梅屋は、「君は兵を挙げよ。我は財をもって支援す」と約束する。そして、孫文を財政面で支えるというその約束を生涯守り抜いた。ちなみに梅屋は写真ビジネスを経て、次はシンガポールで映画ビジネスに出会う。テレビも何もない時代、唯一の娯楽でありニュース番組の役割も果たしていた映画ビジネスはドル箱だ。それで梅屋庄吉は大変な財を築いたのだけれど、それを湯水のごとく孫文の革命に投じた。そういう日本人だった。(16:16)
梅屋はアジア全体を視野に入れて、その平和を理想に掲げていた。だから中国の革命家だけを応援したわけではなく、たとえばフィリピンの革命家であるエミリオ・アギナルドとも親交を持っていたし、インドの革命家と孫文を引き合わせたりもしていた。また、当時は孫文と、映画『宋家の三姉妹』で有名になった宋家三姉妹の次女である宋慶齢が、梅屋の家で結婚している。ちなみに当時の梅屋がどんな映画をつくっていたかというと、白瀬矗の南極探検隊にフィルム隊を送り込み、その記録を実録映像として残している。これは日本最古のドキュメンタリー映像として早稲田大学やNHKアーカイブスに今でも残されている。また、日活の前身をつくったのも梅屋庄吉だ。(16:59)
当時、中国と日本の革命志士たちは松本楼に集っては革命談話を交わしていた。梅屋は1911年の辛亥革命に関しても湖北省武漢というところにフィルム隊を送って実録映像を撮っている。中国近代史における大変重要な出来事を記録した実写フィルムのなかでも最も古いもので、大変貴重な映像だ。これは今、中国のあちこちにある辛亥革命および孫文関係の記念館でも、日本人の梅屋庄吉が撮影したものとして投影されている。(18:08)
では、革命の支援とはどういったものだったのか。必要なものは武器だ。梅屋庄吉は独自のルートで武器を次々と革命軍に送っていた。また、第一次世界大戦の頃から戦争で飛行機が使われるようになっていったため、清朝が倒れたのちに中国で力を持っていた袁世凱との戦いにおいて、孫文は飛行機を使いたいと考えた。梅屋庄吉はそのリクエストにも応じて飛行機の訓練学校を滋賀県四日市につくり、飛行隊を訓練した。実際、中国の空を初めて飛んだ飛行隊は、その学校で訓練を積んだ中国人パイロットたちだ。ちなみに現在の人民解放軍で空軍トップを務める許さんという方が日本にいらしたとき、私がこの話をしたら、「自分たちのルーツはここにあったんですね」と言って大変喜んでおられた。中国の方は歴史を語ると、良い意味でも悪い意味でもすごく反応するということを覚えておかれると良いと思う。(19:01)
で、孫文を語るうえで欠かせないもう1人の人物が宋慶齢だ。宋家の三姉妹は中国近代史に深く関わった。長女の宋靄齢は中国一のお金持ちであり孔子の子孫とも言われる孔祥熙の、次女の宋慶齢は孫文の、そして三女の宋美齢は蒋介石の妻となった。宋家の人々はアメリカで教育を受けていたのだけれど、宋慶齢さんは当初、孫文の秘書を務めていた若く美しい女性だ。ただ、革命がうまく進んでいなかった1915年当時、失敗を繰り返す孫文の苦しみや悲しみを若い宋慶齢さんが支えたということもあり、2人は恋仲になる。そして周囲の反対を押し切り2人は結婚した。(20:25)
その結婚に尽力したのが梅屋夫人だ。2人は東京で結婚したのだけれど、その辺のラブストーリーは時間がないので省く。ただ、とにかく孫文は今でも世界に広がる中華ネットワークを支える国父とも言われる方であり、中国人にとって心の父である。そして宋慶齢は中華人民共和国で副国家主席にまでなり、最期は名誉国家主席となった方。中国共産党が今でも孫文を自分たちの正当な系譜としているのは、宋慶齢さんが中華人民共和国の副国家主席そして名誉国家主席として残ったからだ。だから中国の母とも言われるほど重要な女性だ。その2人を結婚させたのが梅屋夫人だったわけで、これは非常に大きなことだと思う。孫文、宋慶齢、そして梅屋夫人の3人で撮った写真は現在、東京書籍の『高校世界史B』にも載っている。それほど孫文と梅屋庄吉は、単なる資金面だけでなくプライベートでも深い絆で結ばれていた。(21:25)
しかし、孫文が肝臓癌でなくなった頃から日中関係は悪化しており、梅屋も援助を打ち切ることになる。日中関係が悪くなると自分の身も危なくなるからだ。孫文の周囲にいた人々の思想も中国進出へ傾いていった。ただ、梅屋庄吉本人は日本と中国が友好的に、経済や文化といった人のつながりでまとまったほうが良いという元々の考えを曲げなかった。そこで孫文の銅像を中国へ送ることによって、あるいは映画を作ることによって、広く長く孫文の偉業を伝えるとともに、日本人と孫文との間には本当に深く良い関係があったことを日中双方の人々に伝えようとした。(23:00)
ただ、その頃にはすでに満州事変が勃発しており、日中関係は後戻りができないほど悪化していた。日中の架け橋たらんとした梅屋はそこで売国奴とされ、梅屋自身も2度、憲兵隊に捕まっている。そこで当時の貴重な資料はずいぶん押収されてしまった。しかし梅屋庄吉はそれにも負けず、「戦争だけは避けなければならない」と主張し、当時の広田弘毅外相とも2度面談している。日中戦争で日本と戦っていたのは蒋介石率いる国民党だが、蒋介石も若い頃、日本に留学していた人物だ。蒋介石のパンツまで梅屋夫人が洗っていたということで、蒋介石は夫人宛てで「親切」という額も残している。とにかく、本当に深い間柄だった。だから梅屋庄吉は、なんとか交渉によって戦争だけは避けることができないかと、広田外相を通じて工作を行っていた。(23:56)
しかし、そうしている間に梅屋庄吉は他界してしまった。そして戦争が始まる。状況が状況であったため、梅屋自身は自分と孫文との間にあったさまざまな約束は、「2人の盟約にて成せるなり、これを一切口外してはならず」という遺言を残している。以降、2人の歴史は近代史の底に沈んでいく。そして戦争が終わってさらに月日が経ち、41年前にやっと国交が回復されたとき、宋慶齢さんは中華人民共和国の副国家主席になっていた。彼女は「日本と中国が国交を回復したのなら梅屋庄吉さんの子孫に会いたい」と、私の祖母夫妻を北京に招待する。その際、副国家主席の立場で書かれた宋慶齢さんのお手紙には、「孫文先生と私、そして梅屋先生夫妻との友情の歴史は、どれほど時間がかかっても、どのような情勢になっても、決して消し去ることはできない」と書かれていた。(25:02)
今でも中国トップの人々はこの歴史をきちんと把握しておられる。2008年、10年ぶりに胡錦濤国家元主席が日本へいらしたときにはこういうことがあった。それまでは小泉さんが靖国参拝をしていたので首相の往来がなかったわけだ。それが10年ぶりに実現するとのことで、両国民にどのような形で両国の友好関係を知らせたら良いかと、日中双方が真剣に考えた。そのときに浮上してきたのが孫文と梅屋庄吉の歴史だった。それで私は胡錦濤国家主席と福田首相の2人に、100年前の歴史をご説明させていただいた。「戦争という悲しい歴史もあったけれど、互いに助け合った歴史もあったよね」ということだ。(26:18)
私はその子孫として、歴史を単に過去のものとして扱うのでなく、今を生きる皆さん、そして中国の方に伝えたい。それで今は上海万博をはじめ中国各地で展示会を行ったりしている。梅屋は孫文亡きあと中国に彼の銅像を贈ったが、辛亥革命100周年にあたっては中国政府が日本に、梅屋と孫文の銅像を贈ってくれた。そのようなことは報道されていないが、そういう歴史の大切さを中国はきちんと把握している。それをベースに今はさまざまな活動が行われているし、それが九州を中心とした経済活動にもつながっていることをお伝えしておきたい。(27:21)
最後に、つい最近のお話もしたい。この冷え切った日中関係にあって、先月、唐家セン(センは王へんに旋)さんがやっと日本へいらした。かつて中国の外務大臣だった方で、今は日中友好協会のトップを務めている。いわゆる日本関係の要人のなかでもトップの方だ。その唐家センさんが長崎を訪れ、「新中日友好21世紀委員会」というものを開かれた。「なぜ長崎で?」というと、梅屋庄吉の生まれ故郷である長崎であれば、現在のような状況でも日本と中国のこれからを話し合うことができるからだ。そうした面でも100年前の歴史が今にきちんとつながっているということで、お話を一旦終わらせていただきたいと思う(会場拍手)。(28:09)
吉田 素文
吉田: では、ここから議論に入りたい。まず、日中交流に深く関与されている小坂さんは、現在の中国または日中関係にどのような思いをお持ちだろう。(29:02)
小坂: 1言で表現すると、「もったいないな」と。日中だけを見ていると腹の立つことも多いけれど、日中関係は当事国だけを見るのでなく、もう少し広い視野から見たほうがいいのではないかといつも思っている。(29:41)
吉田: 「もったいない」状態が続いてしまうのはなぜだとお考えだろう。(30:04)
小坂: 胡錦濤さんが日本へいらした2008年は、近年で日中関係が最も良かった時期だ。当時は「互恵関係を広げましょう」という流れになっていた。ところが、漁船がぶつかってきて国有化になった時点で首相の往来もなくなった。また、たとえば本来は今年が日中国交回復40周年だったのだけれど、その記念行事もすべてなくなってしまった。尖閣だけを見ているといろいろと問題もある。ただ、たとえばこの2〜3年で世界が中国とどのような関わりを持ち始めているかを、日本人はよく見なければいけないと思う。大変な勢いで世界は中国との関係を築いている。そういう状況にも関わらず日本が島のことばかり気にかけ、「漁船が1日に何隻来た」という話ばかりニュースになるという状況はいかがなものかと思う。(30:12)
出口: 今年は2014年で、第一次世界大戦の勃発からちょうど100年が経つ。この大戦は、実はすごく不思議な戦争だった。サラエボで起きたオーストリア・ハンガリー二重帝国の皇太子暗殺によって始まった戦争だったのに、その主役はドイツとフランス。で、ドイツとフランスはなぜ戦争をしたかったのかがよく分からない。いろいろな説はあるし、セルビアという国には「オーストリア・ハンガリー二重帝国が弱っているから、ちょっとけしかけて領土を獲りたいな」といった意欲があったかもしれない。ただ、それにロシアやドイツやフランスがすべて巻き込まれていく。(31:13)
歴史を見るとき、僕たちは、「そこに大きな戦略があった」「国の指導者たちがこういう考えだったから国家間の関係が悪くなった」というふうに考えがちだ。でも、実は違う。ちょっとしたことがきっかけで、面子やら何やらいろいろ考えているうち、のっぴきならなくなって関係がどんどん悪化していくということがある。もちろん首相の哲学や人生観があるという意見もあるだろう。ただ、本当に日本が実行支配していて波風が何も立っていないところで突然石原前都知事さんが何か言い出したということが、ひょっとしたら結果を変えたのかもしれない。(32:07)
だから、あまり深く物事を考えずになされた日常のちょっとした判断が、実は歴史を動かしていく。そうすると人間はついつい…、それを“経線思考”なんて言っていますが、「こういう通路で来たらもうここしかない」と思ってしまう。日米開戦にあたって山本五十六さんは、「アメリカとやれと言われたら半年ぐらいはなんとか暴れてみせます」といったことを話している。これ、普通の人なら「半年しか暴れられへんのなら、やったらあかんに決まっている」と考える。でも、やっちゃう。つまり、大局が見えるきちんとしたリーダーがいないため、小さな偶然の積み重ねとともにずるずるいってしまったというのがたぶん歴史の実態に近い気がする。(33:02)
小坂: たとえば今は「中国の軍事費増大が脅威だ」という報道が多いし、たしかにそれはあると思う。ただ、私がもっと脅威に思うのは、中国が軍事費の3倍も教育費に投じていることだ。インフラ整備にも同2倍をかけている。次の世代を見ているからだ。教育を重視してお金をかけるということは、次の国家戦略をきちんと見据えるということ。今、アメリカに留学している人はほとんど中国人というほどで、たとえばハーバードで学んでいる500人のなかで日本は5人だけといった状況だ。私たちが島の問題で「船が何隻近づいた」といったことばかり見ているあいだ、グローバルに活躍できる人材を中国は次々育成している。インフラについても同じことが言える。日本は空を飛ぶか海を越えない限り海外へ行けないが、中国は陸続き。そこでインフラを整備していった結果、今はドイツまで物流網が延びている。だからヨーロッパ諸国も中国にどんどん投資している。そんな流れのなかで日中を見なければいけないと思う。(34:09)
吉田: 中国は今後、グローバル社会でどのような方向に進むとお考えだろう。(35:43)
出口: 世界GDPに占める中国のシェアはまだ12〜13%だから、「中国はどんどん大きくなっている」という認識がまず間違いだと思う。あれほどの人口だから、近代化すればある程度のシェアを獲るのは当たり前。むしろアヘン戦争の頃にまでシェアを戻すという、普通のプロセス上に今はあると見たほうが間違いないと思う。(36:25)
その上で僕は、日中関係が1番大事だと思うけれど、日本の生命線は日米関係にあると考えている。アメリカにも嫌な点は多い。ただ、100年先はまだしも今は日米安保条約という軍事的な同盟を結んでいる国だ。また、日本は世界のなかで極めて特異な国ということもある。ロシア、北朝鮮、韓国、中国、そして台湾というすべての周辺諸国と領土問題を抱えている。郊外に一戸建ての家を買った皆さんが周囲すべての家と境界争いをする感じだ。それでは落ち着いて万事過ごせないでしょ? そういう国は世界にない。そういう状況まで考えると、やはり日米関係は命綱だと思う。(37:18)
ところが、日本には「価値観を共有する日本とアメリカが組んで中国に対抗する」とか、とぼけたことを言う評論家が多い。価値観を共有する国家同士が仲良くするためには、友人の数が重要だ。でも、超一流大学を含めてアメリカ留学している中国人留学生は23万を超える一方、日本人留学生は韓国よりも少ない2万人未満だ。仮に日本人がどれほど優秀で立派であったとして、それで中国と同じ数の友人をつくることができるだろうか。だから、日本が中国とコトを構えようと思うなら、まず国費でアメリカ留学する学生の数を現在の10倍ほどに増やさなければいけないと思う。(38:27)
日露戦争の頃は日本にもまともなリーダーがいた。伊藤博文だ。彼は日露戦争が始まった瞬間、金子堅太郎という政治家に機密費から出した何億もの大金をポケットマネーとして渡し、すぐワシントンへ送った。金子は、ときの大統領であるセオドア・ルーズベルトとハーバード以来の大親友だったからだ。金子は勝手に、ホワイトハウスに出入りできる人間だった。それも伊藤博文が、「ロシアはすごい国だから日本だけではとても勝てない」と考えていたからだ。絶対にアメリカの力がいると分かっていた。その後はご存知の通りだ。アメリカは日本が有利になるよう裁定してくれて、そのおかげで戦争を終わらせることができた。これもすべて人間のネットワークだ。(39:56)
日本のメディアは韓国や中国との関係ばかり気にする。けれども、若い皆さんが今1番しっかり考えなければいけないのは、日米関係でかつてのような強いパイプがあるかということだ。これまでの日米関係ではブッシュ-小泉関係がベストだったし、皆そう言っている。ただ、ブッシュの頭脳であったコンドリーザ・ライスの回顧録に日本人の名前はまったく出てこない。彼女は8年間、ブッシュの右腕として世界中でいろいろなことをしたし、世界中の要人に電話もかけまくっているのに。ところが、外務省の役人にこの話をすると、「いや、日米関係はうまくいっているから別に彼女とコネクションを結ばなくても良かったんです」とか、腑抜けたことを言う(会場笑)。とんでもない。だから今の状況を考えると、外国の方ときちんと民間で友情を築けるようなベースが細っているということが、日本の大きな危機だと僕は思っている。(40:49)
小坂: 日中国交正常化を果たした周恩来さんも、あるいは近年では胡錦濤さんも李克強さんも、実は日本との関わりがすごく深い。若い頃は日本に留学していた方もいるし、胡錦濤さんもかつて青年交流団の一員として日本にいらしたことがある。若いときに培ったそのような人間関係が、結果として国を大きく左右する大切な人間関係になるわけだ。周恩来さんにしても若いときに日本へ来たことは大きかったと思う。蒋介石も終戦後はすべての日本人を普通に返してくれたし、「補償も必要ない」と。もちろんその後の経済的支援も視野に入れていたとは思うが、心のなかに日本人との深い関係があったことも大きいと思う。(42:42)
唐家センさんもそうだ。長崎でお会いしたときは、日中関係が悪化していることもあって最初は声を掛けることもできないほど怖い雰囲気だった。でも、次の日は違った。なぜか。長崎には同県のためだけに中国総領事館がある。昔、長崎県知事と唐家センさんとのあいだでそれを建てるやりとりがあったからだ。次の日には、そこで大きな役割を果たしたかつての知事さんたちが、その家族も含め全員招かれてプライベートな夕食会が開かれた。そのときは、もう本当に「老朋友」(古くからの友人)ということで、同じ人間かと思うほど表情も違っていた。習近平さんもが最も多く会った日本人も長崎県知事だ。彼が福建省長だった時代に長崎県と福建は友好関係にあったから、それもあって本当に人間関係を大事にしていた。その意味ではアメリカとも中国とも同じように、日本人はもっと交流をしなければいけないと思う。(44:03)