「自らを乱世に跋扈する詭弁家・計算家としないため、いかに心を陶冶し、それを経営に反映させるか」(澤田)
澤田:本セッションでは「企業の社会的使命と経営哲学〜経営者としての覚悟を問う〜」というテーマを通して、いわば人の使命や哲学といったものについて考えていきたい。社会が大きく変わらんとする、この“乱世”においては、制度や仕組みを変える前にまずは自らが変わっていくことが重要ではないかという思いがあるためだ。その際、何を根底に持ち、生きるべきか。歴史を振り返れば、新渡戸稲造は、明治維新後の廃刀の世に自らの魂をどこに置くかということを『武士道』において説いている。その中で印象的な内容として、「乱世の中では詭弁家と計算家がいかにもという形で出て来て世の中をリードする」といった含意のことが書かれている。我々自身、そうなってしまわぬために今、何を考え、心を陶冶すべきか。
そのスタートラインとして、社会的使命と経営哲学という非常に大きな演題を抱えて議論したい。お二方にはそのような全体観を意識していただきつつ、本テーマに関して、まずは率直に思うところを伺っていきたい。(0:20)
蛭田:独断と偏見で申しあげると、そもそも「現在は激動の時代」とよく言われるが、本当にそうなのか。現在の状態は起きるべくして起きたのだし、素直に物事を見ていればこうなることは分っていたのではないかという思いがある。日本経済が比較的順調に運営されていた時代、事業の対象となっていたのはおよそ10億人におよぶ日米欧の均一な先進国市場だった。それが現在では多様でかつ60億から70億という市場を対象とする時代になっている。ただ、この変化は急に起きたのではなく、少しずつ起きていた訳だ。だから、その都度対応していれば現在についても激変あるいは不連続という認識を持たずに済んだのではないかという認識が、ベースとしてある。激動と言わざるを得ないような状態になるまで放置していた我々経営者の認識やビヘイビアが問題だったと。そんな風に受け止めるべきだと思う。(5:30)
それともうひとつ。企業の社会的役割というテーマに関して言えば、これはたとえば10億の人口が60億になってもなんら変わらないと思っている。資本主義社会において企業は法人と言われる。読んで字のごとく、「法的な人」だ。人は社会において、他者との関係のなかで存在している。そして集団をつくり、そこで自分自身の役割を認識し、果たすことで集団に貢献していく。企業といえどもそれは同じことだ。つまり法的なものであっても、法人としての(人)格を持つべきではないか。そしてその役割は、事業を通じて社会にどれだけ貢献出来るかという話なのだと思う。で、その貢献が大きければ大きいほど利益という形の還元も大きくなる。利益そのものは経営の良し悪し等、さまざまな技術的側面で多少違ってくるかもしれないが、その部分についてだけ議論していても意味はない。重要なのは企業活動を通じて社会にどれだけの貢献出来たのか。まずはそういった基本的枠組みを認識することが大事だと思っている。(9:10)
そんな認識を通じて考え方のベースを述べたいのだが、そもそも表面にある現象だけを見ていると今述べたような認識には辿りつけないと思う。大切なのは物事を表面からだけでなく…、もちろん表面も現状認識という意味で大事だが、長期的かつ多面的に、さらに根本的な原理原則に基づいて見ることが重要だ。法人を法的な人だとする認識も、そういった考え方から生まれている。物事の根本部分に立ち返り、幅広い角度から、そして歴史的な流れのなかで現在を捉えていく。そんな視点があれば、その時点で求められる経営者の役割もおのずからから見えてくるのではないかと思う。(11:20)
竹久:自己紹介も交えつつお話ししたい。私は日本興業銀行(以下、興銀)に勤務していた17年間、国内外の企業とその経営者の方々を数多く拝見してきた。興銀はその名の通り、元はといえば産業や技を興すということを目指して設立された銀行だ。しかしバブルとその崩壊を経て、「とにかく収益を積まなければ」という環境のなか、“興す”という本来の役割がやや疎かになってきたという反省があった。また、1997年から2001年まではニューヨークでLBOファイナンスをやっていたのだが、当時はネットバブルが華やかだった頃だ。金融資本が最も力を持っていた時代でもあり、業況的にまったく問題ない会社が従業員のリストラを行い、それによって株価を上げるということが…、またそれに世間様が拍手喝采をするという、今思うと少しよく分からない時代だった。そのなかで、「銀行は本来の役割を果たすことが出来ているのか」といった疑問を持ちながら2004年に銀行を去ったという経緯がある。(13:10)
で、その後は2004年、ご縁あって日本みらいキャピタルという再生ファンドに移り、以降8年間、ファンドの立場、あるいは投資先の役員という立場で事業再生を行なってきた。そこはどんな世界だったかというと、たとえばはじめて投資先へ足を運び、ドアを開けて皆さまがいる大広間に入るとどうなるか。皆、一斉にこちらを見るのだが、目が合った瞬間にさっと視線を落とす。そんな経験を何回もしている。そんななかで、たとえば投資先の若手を家に呼んでカレーを食べさせたりしながら少しずつ打ち溶けていった。そして「本当のところ何が起きているのか」、あるいは「本当の問題はなんなのか」と、探りながら再生をやってきた。(16:30)
「今の世の中、おかしなことが色々と起きているし、おかしな人が色々と跋扈しているよね」という状況を変えていくために何が必要なのか。同業者には世間様に名前が出ているような方もいるが、そういう方のお話には技術論が多い。たとえば「KPIを決めて、PDCA回して、そして“なぜ”を5回繰り返せば答えが出てきますよ」と。ただ、そこで頷いている方には二種類ある。「そうですよね」という意味と、「それで出てきた答えは本当の答えですか」という意味の二つだ。たとえば役員会議で営業部長に「なぜなのですか?」と5回詰めると、だいたい5回目の答えは「私の力が足りませんでした」になる。そしてそこでもまた頷きが出てくる訳だが、その反応も二つある。ひとつは「力がないのであればお引取りください」。この反応が8割だ。しかし私はそこで、「本当にそれが答えなの?」という疑問を常に持ちながら8年を過ごしてきた。そんな思いとともに、事業再生をするうえで本当に持つべき哲学は何なのかということも今日はお話ししたいと思っている。(18:20)
「企業の社会的使命はバランスシートに象徴される。行き過ぎた資本主義は“左側”をないがしろに」(竹久)
澤田:まずは企業の社会的使命について議論していきたい。つまり、企業はなんのために存在するのかということだ。
一つの学説は、株主のためにあるというもの、つまり資本主義だ。資本を効率よく配備することで、モノやヒトなどの資源の価値を最大化させる。これは産業育成において非常に優れた側面を発揮する一方で、資本が溢れ、資本が資本を求め出したときに「果たしてそれが経営か」というような実態経済とかけ離れた株価操作を生じもする。それは、エンロン、ワールドコムの例を引くまでもないだろう。もう一つの学説は、社会価値に共鳴するためのもの、というものだ。変容する社会価値システムに寄り添いながら、そこに共鳴する方向性が見出され、いわゆる社是社訓というものが生まれ、企業体の営みに還元される。
戦後の日本は資本のない状態で擬似資本主義をスタートさせ、ガバナンスが効かない経営を行なってきた。私としてはそのことが今日の問題を呼んでいると考えている。成長期はそれでも良かったが、変革期になって、一方で、社会価値システムが大きく変わってきてしまい、「なんのために存在するのか」という大きな問いが生まれてきただけでなく、「どのように変えたら良いのか」というガバナンス不在もあったのではないかと。従って企業の存在意義を問うベースとして、現在の社会価値システムの特質をどう捉えておられるかについてもお聞きしたい。(19:50)
蛭田:企業は最終的に利益を出さなければいけないし、キャッシュがなくなれば倒れる。だから資本の論理は重要だ。ただ、それは経営の基本から見ると手段に過ぎないと私は思っている。企業活動とは本来は社会に対する貢献だ。で、その項目というか対象が時代とともに変わってくる。だが、たとえば多くの企業は10億人の市場を対象としていた時代と同じやり方で、60億人の市場でも事業を行なってきた。だからこそ現在の環境問題や資源問題が起きている。そういった変化に対する解決策を事業にすることが企業にとって重要であり、社会への貢献でもあると思っている。大事なのは、そこで経営者が企業のポテンシャルを測り、「今、社会に貢献出来ることは何か」を念頭に置いて経営するということではないかと思う。だから、本質的な意味では、澤田さんの言われる2つは共存すべきものだ。(23:20)
澤田:構造や価値観の変化、あるいは永続性のゆらぎといったものも社会価値システムの捉え方として重要なファクターになると思うが、この辺はどうか(25:20)
蛭田:日本のGDPは1965年〜1975年まで約10年間、年率8〜12%で成長していた。若い方には信じられないかもしれないが、今の中国以上のスピードで伸びていた。私は、この時代の経営文化が日本企業の経営、もっと言えば行政や政治の仕組みにも蔓延し、周辺環境の変化に併せて自己変革していくことを止めてしまっていることに一つの課題があると思う。加えて、外に目を向ければインターネットに代表される情報化の加速により、世界が均一化している状況がある。ジャスミン革命やベルリンの壁の例を挙げるまでもなく、富める者の生活や為政者のウソを簡単に知り得る世の中となっている。たとえば発展途上国と先進国という関係で考えてみると、これまで先進国の10億人が享受していた産業革命以降のあらゆる流れを、現在は発展途上国の人々もすべて知っている訳だ。そうなると後発の彼らはもっと大規模かつ最新の設備などとともに成長するから、従来型産業ではすべてそちら側が競争力においてメインプレイヤーになる。それにも関わらず日本は高度成長期の文化や価値観あるいは仕組みで現在の問題を乗り切ろうとしている。そこに閉塞感が出るのは自明のことだ。企業家は社会に対する新しい貢献分野を常に探し続け、それを事業にしていくことが大事なのではないかと考えている。(25:40)
澤田:竹久さんにも伺いたい。現在の社会価値システムの特質を、金融あるいは資本の世界からどう捉えておられるか。(28:10)
竹久:金融的な言い方になるが、企業の社会的使命はバランスシートに象徴されると考えている。その右側には借入金があり、買掛金があり、一番下には資本がある。これは企業が負う責任のひとつの象徴だ。ただ、バブル崩壊以降は企業がそういった右側の責任を負うことに汲々としていた。高度成長期はそれがややおざなりになっていたという背景もあり、その反動で「借入金は返さなければ」、「収益を出して配当しなければ」といったことが相当にクローズアップされていたと思う。しかしバランスシートには左側があり、そこにはアセットがある。これも企業が負うべきもうひとつの重要な役割だ。右側で調達したお金を使い左側でアセットをつくる。その意味では人も大事なアセットだ。それらを活用してお客さまに価値を提供するという、そういった役割の象徴がバランスシートだと思う。ただ、特に一連のライブドア事件以降、「企業は誰のものか」という議論のなかでバランスシートの右側ばかり注目され、左側で負うべき責任がないがしろにされてきたのではないかと最近は感じている。(28:25)
そこでひとつ考えるべきことは、価値観の多様化だ。バランスシートの右側にお金を出す人たちも、本当は多様な価値観を持っているはずだ。残念ながら今、幅を利かせている人たちの多くは、「昨日買った株が今日上がったら明日売ろう」ということしか考えていない。しかし価値観が多様化している現代では、本来であれば企業もどのような株主と付き合いたいのかを考え、選んでいかなければといけないと思っている。銀行についても同様だ。(30:20)
いわとパートナーズを設立したひとつの経緯がそこにある。資本の選択肢を増やしたいという思いがあった。多くのファンドさんは、「我々はバリューアップをします」と言うが、私はこの言葉が大嫌いだ。まず英語として間違っているし(笑)、そもそもファンドは企業価値を高めない。企業価値は企業自身のなかにある。それが色々な要因…、特に金融上の大きな制約によって発揮出来ていないという状態ではないかと思う。そこでバランスシート左側の役割に共感し、それが果たせるよう、役割に合わせた資金を提供していく。これが金融と資本本来の役割だと思う。それで「いわと」なんていう、少し古めかしい社名にした。「光っているのはファンドではない」と。天照大神が天岩戸(あまのいわと)に隠れているのであって、我々は岩をどかすだけ。かなり重いのでどかすのは大変だが(会場笑)。(31:15)
「就任時、海外投資家に伝えた武士の心。『質問には答えるが、お前には永遠に理解できないぞ』」(蛭田)。
澤田:続いて企業が社会的使命を担うための経営哲学というお話に移りたい。松下幸之助さんはかつて、「企業経営を論じていけば、結局は経営者の人生観の問題である」と仰っていた。そして経営者も政治家も同様に、上に立つ者としての「使命感」、「無私」、「詩心(ロマン)」、そして「現実処理能力」という4つの資格がいるとも言っている。想いではなく「資格」だと。仕事とは生きることであり、それは自己顕示のためのものであってはならない。そして度量に満ちれば屁理屈ではなく風流なものが出てくる。現実ではない理屈や思想は幾らも言えるが、現場に降りていって向き合い、対処する。そういう資格が要るのだと。こういった哲学はお二方も同様にお持ちかと思うが、そのあたり、それぞれご自身の経験や生き様も含めてお聞きかせいただきたい。(33:30)
蛭田:松下幸之助さんのようには言えないが、リーダーの基本的使命は自分がリードする組織を発展させることだと私は考えている。ではそれが組織の拡大ということになるのかというと、必ずしもそうではない。組織の構成メンバー…、今風に言うとステークホルダー全体という話になるかもしれないが、構成メンバーの生きる証を示す場をもっと広げること。それがリーダーの基本的役割であり、存在証明でもあると思う。私自身がどこまでそれを実践出来たかは分からないが、常にそういうつもりでやってきた。で、そういった使命感を持つもうひとつの背景が、「このままでは駄目になる」という危機感だ。組織のリーダーは危機感を持つ必要がある。たとえば「高度成長期の思考や価値観で現在に対応していたら絶対に駄目だ」という危機感のなか、自身の存在を証明する一環として必ず問題の解を探し、それを実行する。そんな視点がリーダーには不可欠だと思っている。(37:20)
10年前ほど前の話になるが、社長に就任して2週間ほど経ったとき、ある海外投資家がインタビューを申し込んできた。社長として何をやるつもりなのかを聞きたかったそうだが、彼は1300万株持っていた。で、「インタビューのうえで株を売るか持ち続けるか、あるいは買い増しするか決める」と言う。社長になった途端に株価が下がっても困るし(笑)、仕方がないということで会って、そこで当時のプランについてずいぶん長々と説明した。すると彼は「やろうとしていることはよく分った。ところでお前がやろうとしていることは会社にとって革命なのか、改革なのか」と言う。彼はイギリス人で、アングロサクソンからするとその二つが明確に違っていたからだろう。そこで私は「革命だ」と言った。具体的にはそれまでのROI(Return on Investment)ベースからキャッシュフローベースの経営に切り替えるというものだ。それで実際、それまでは年間でおよそ150〜300億だったマイナスを社長になってから300億のプラスにしたのだが、「これは仕組みの変化ではなく価値観の変化だから革命だ」と言った。(41:10)
すると彼は、「お前の本気度はよく分った。もし改革というのならお茶を濁すだけだと思っていた。で、最後にもう一問」と言うので、「もう止めてくれよ」と思ったが(会場笑)、「革命にはものすごいエネルギーがいる。日本の経営者はなぜ安い給料でそれをやろうとするのだ?」と言う。だから私は「質問には答えるけど、お前はそれを永遠に理解出来ないぞ」と前置きしつつ(会場笑)、こう話した。「自分は旭化成に入って30数年、非常にハッピーな産業人人生を送ることが出来た。しかし今の後輩を見ている限り、彼らが同様の人生を送ることが出来る状況にない。そこで同じような環境をつくってやる。それが組織に対する自分の感謝の気持ちなんだ。給料の安い高いではない」と言った。そうしたら彼は「最後の質問だからこれで終わる」と言って、コメントなしで帰ってしまった。「…さあ、株を売られたらどうするか」と(笑)。しかし彼はその半年後のIRにやってきて、「株、買い増したよ」と(会場笑)。要するに私がインタビューで言いたかったのは、「これは日本人の、武士の心だ」ということだ。騎士ではなく武士の心。それは決して格好つけで言った訳ではない。リーダーとして会社の社長を務めていた間は、常にその気持ちを持っていったという自覚がある。(43:30)
竹久:真摯さ、あるいは誠実さに尽きると思っている。大事なのはそれを見極めることだ。そういった要素は3〜4カ月接してみてようやく分ってくるものだと思うが、その一方で、そうでない人は簡単に見分けがつくような気がしている。これまで色々な経営者の方々と働いてきたが、まず自慢話が多い人…、特に「私がいたからこれが出来た」と、下の人間の手柄を自分の手柄として喋ってしまう人は偽物だ。それから悪口が多い人と失敗を人のせいにする人も間違いなく偽物だと思うから、関わらないのが肝要だと思う。雇ってもいけないし、偉くしてもいけない。これは銀行とファンドで働いた25年間のなかで強く感じていることだ。(46:40)
こういうことを言っているのは私だけではない。実は先週末も鎌倉のお寺へ祈祷に行ってきたのだが、そこで「十善戒」というお話を頂戴した。お釈迦様がお弟子様に説いた10の戒めだ。そこでも、たとえば「不偸盗(ふちゅうとん)」…、要は人の手柄を自分のものとして語らないということは言われている。ほかにも「不妄語(ふもうご) :嘘をついてはならない」、「不綺語(ふきご):中身の無い言葉を話してはならない」といったことが説かれている。これらは3000年前からお釈迦様が説いていたことであり、逆に言えばこの頃から人間はそういうことをやっていたのだと思う。(48:20)
「企業の使命は、とりもなおさず人の生き方であり、使命」(澤田)
澤田:では「日本の明日を考える」というところに己の使命や役割、あるいは哲学を持っていきつつ最期の議論としていきたい。ここで二つの含意通底するお話を紹介したいのだが、一つは40余年前、ナチの御用学者アルフレート・ローゼンベルクが書いた一節。「大都会のデパートが、きらびやかで退廃的な贅沢品を飾り窓に並べて、女性たちを誘惑する時。若者が腕輪をぶらさげ、華奢な指輪をはめ、目に青い隈をつけて、女のように腰を振って街を歩く時・・・(中略)そういう時こそ民主主義が危機に落ち込んだ時である。一撃を加える必要がある時である」。このときにヒトラーが出てくるんです。ヒトラーは独裁で出てきたわけではない。市民の声で出て来て、やることは独裁で「一撃を加え」たんです。今の日本にそっくりでしょう?私たちは本当に気をつけなければならない。
ローゼンベルクの『20世紀の神話』は40年前ですが、荀子は2300年前に、「亂世の_」(乱世の特徴)として同じようなことを言っている。まず「其服組」…、人々が色々な布地を煌びやかに組み合わせて服を着るとき、世の中は乱れると言っている。そして「其容婦」…、男性の女性化あるいは草食化。さらに「其俗淫」…、要するに淫らなことが日常的にまかり通るということだ。「其志利」…、世のため人のためだと非常に立派なことを述べてはいるが、いわゆる本音では利己一点ばりという状態もある。で、ほかにもあるが、最後は「其聲樂險」と言っている。要するに狂気をたたえたような人間が出てきて騒ぎ出すという話だ。このあたりは、今、テレビをつけて声高に叫ぶ人を見れば一目瞭然でしょう。2300年前に「こうなったら乱世だ」と言っていた訳だが、私はこれが現在の日本そのもののような気がしている。
ではそんな今日的な日本と向き合うとき、どんな哲学を持てば良いのか。企業の使命とはとりもなおさず人の生き方であり、使命だ。だからこそ乱世に向き合ったとき、仕組みや制度を変えようと考える前に、自分自身を見つめる必要があるのではないかと思う。お二人にも最期に、自らの心をどう正していくかというお話をいただきたい。(50:14)
蛭田:自分自身が心掛けているのは「無為自然」。この言葉が好きだ。無為と言われるとなんとなく「無為無策」といった意味に受け止められてしまいそうなので、文字にする際は「自然」の2文字にしている。これは禅的には「おのずから然るべく」という解釈になるそうだ。私心を持たず物事を素直に見れば、おのずから然るべく…、これは私生活でも経営でも通じるし、要は物事を根本的かつ多面的に、そして長い時間軸で見るという話ではないかと思う。で、そこで何か問題であれば危機感を持つ。そして自分が属する組織…、大きく言えば国家であり世界なのだが、その抱える課題を事業のなかで解決し、同時にその構成員たちが生きる証の場を増やす。そういう志を経営者は常に持つべきだと思う。(54:30)
竹久:経営哲学や思想について考えていくうえで、古典や宗教から学ぶことは多いと思う。その意味で最期にもうひとつ、仏教の言葉を紹介したい。それは「八正道(はっしょうどう)」。本質を見抜く「正見」、正しく判断する「正思惟」、正しく語る「正語」、正しい倫理観を持つ「正業」、正しい行動をとる「正命」、正しく努力する「正精進」、正しくアンテナを張っておく「正念」、そして正しい集中力で足元を固める「正定」。お釈迦様は3000年前からこの8つを指針とするよう説いていた訳だが、今、まさしくこういったところが我々自身にも求められているのではないかと思っている。(56:10)
質疑応答
・どういったことを通じて、現在のような経営哲学に関する深い思索を行うに至ったのか。(58:20)
・グローバル競争では、場合によってはモラルが低い競合相手もいたりして、多面的あるいは長期的な視座が勝利に繋がらないこともある。本日お伺いしたようなお話をグローバル競争で適合させていくためにはどう考えていけば良いのか。(1:02:20)
・金融モデルが圧倒的に強い現代のグローバル競争環境において、たとえばいわとパートナーズが目指しているような新しいルールメイキングのヒントがあればぜひお聞きしたい。(01:11:15)
・誰しもいずれは若い世代に事業を引き継いでいかなければいけない。本日お伺いした経営思想あるいは哲学をベースとした「経営者としての引き際」といったところについて、何かお考えがあればお伺いしたい。(1:15:33)
・個人の経営理念や使命感を組織のなかにきちんと浸透させていくことが次のステップとして大事になると思うが、このあたり、たとえば旭化成ではどのようなやり方を実践していかれたのか。(1:16:40)