昨今すっかり定着した感のある「仕事での自己実現」というフレーズ。「やりたいこと」や「好きなこと」を軸に仕事を選ぶという作法が何だかすっかり当たり前のことのようになった感すらある。鈴木さんはこうした仕事への自己実現に対し、「半分賛成、半分反対」という。バブル期を絶頂とした消費による自己実現に比べれば、考え方としてはまとも。だが、「仕事による自己実現というのは、容易に、劣悪な環境で自分が働いていることを肯定することと同義になります」とその危険性も指摘する。また、自己実現は結果とともに、個人の意欲や本気度を問われるため、その心理的な負荷は高いという。
消費による自己実現から仕事による自己実現へ
乾:「働く」ということについて、お聞きします。著作の中で、日本の若者が、仕事に希望を託したり、仕事の中で夢を持とうという数字が一貫して上がっているという統計をご紹介なさっていますよね。そしてこれを肯定的にとらえてらっしゃるふしもある。一方で鈴木さんは、ハイテンションな自己啓発から“降りていくような”生き方を推奨されているようなところもあります。仕事での自己実現というか、仕事で自分の承認や居場所を得ようという生き方に対する、鈴木さんのお考えをお聞かせ下さい。
鈴木:非常に両義的です。つまり、半分賛成、半分反対みたいなところがあります。どこが賛成なのか。仕事による自己実現の対極にあるのは、バブル的な「消費による自己実現」です。もちろんこれはバブルが頂点だっただけで、高度成長期から一貫して起こっていたことです。つまり、高度成長期には家の中に三種の神器(テレビ、洗濯機、冷蔵庫)や3C(クーラー、カラーテレビ、自家用車)と呼ばれるような耐久消費財が増えていきました。70年代から80年代にかけては、ファッションを中心に自分の価値観を表現できるような商品やサービスを購入することが、「自分らしい生き方」の実現であると推奨されてきたんですね。
この消費による自己実現というのは、確かにある種の開放感を人々にもたらしました。男性が中心の生産の原理から、女性が中心の消費の原理への変化を指摘しているのが、社会学者の上野千鶴子さんです。ですがこれは、結局は雇用が安定していることをベースにした議論ですから、何かを消費しないと、その人がどういう人かわからないっていうような状況自体、実はすごくいびつな環境の中で生まれた価値観だったわけです。昨今、若者が車を買わなくなったと言われています。でも実際には特に地方なんかそうですけれども、車がないとどうしようもないというところがあります。車を買わなくなったというのは、正確には車に乗らなくなったのではなく、車という価値を買わなくなったということなんです。
かつてマーケティングの世界では、車に対して「車格」、車の格付けっていう言葉がありました。この車格に応じて、外車に乗っている奴が国産車に乗っている奴より偉いであるとか、大衆車よりも高級車に乗っている奴の方が偉いとかモテる(笑)という価値観が形成されていたんです。今の若者は、こうした価値観を買わなくなったんですね。それは消費による自己実現、つまり何を消費しているかがその人のステータスを表すという価値観の弱まりを意味しているんです。
「消費による自己実現」に対して、今求められている「仕事による自己実現」というのは、いい方向に見れば、何を買ったかではなくて、何をつくって、どんな人に受け渡したかということがその人の価値を表すという考え方ですよね。つまり、単に沢山お金を儲けていれば偉いという意味ではなくて、その人が実現したい価値に向けて仕事をしているということがその人の価値を表すということだと。高級外車を乗りまわしていようと、高いマンションに住んでいようと、それはすべて消費の話。どんなものをつくって、誰に受け渡しているのかっていうことで、そいつの価値は問われるべきだっていう考え方です。
少し長い例になるんですけれども、昨年、ある中国地方のテレビ局の仕事で、田舎で働き、暮らしたいと思っている若者たちをテーマにした番組に出演させてもらいました。その番組は、田舎暮らしをしてみたいと思っている若者たちをスタジオに呼んで、中国地方の地域活性化に取り組んでおられる自治体の担当者の方々も呼んで、お互いにディスカッションしましょうみたいな内容でした。その中で、自治体の人たちが自分たちの地域をアピールしてくださいという時間を設けられて、喋ったんですね。
そうすると、それに対して若者たちがあまりピンと来ないと。中国地方に住みたいとあまり思わないなという。「なぜだろう」という話になったときに、僕が口を挟んでこういうことを申し上げたんです。
「皆さんが今アピールされたのは、ウチにはこんな名産品があるとか、サッカーチームがあるとか、つまりこれは全部消費に関わる話ですよね。消費であれば都会でもできる。しかし都会で消費をするために、沢山お金を稼ごうと思って大きな企業に入ると、自分のつくったものが誰の手に渡っているかもわからないし、そもそも自分が社会の役に立っているかもまったくわからない。そういう環境を離れて、自分の仕事がちゃんと誰かの役に立っていて、その地域で自分のした仕事が必要とされていることなんだ、自分は必要な社会のワンパーツなんだってことを認識したい。そういう考え方があるんじゃないか。だからこそ、消費ではなく、生産とか仕事というところで、どういうふうに地域に関われるのか、貢献できるのか。ここが彼らの関心になっているんじゃないだろうか」
そういう話をしたら、若者たちがウンウンと頷いていました。
仕事の自己実現に対して「ポジティブ」な部分の評価っていうのは、そこにあります。つまり、消費だけではなく、つくったもの、貢献したことによって評価されるような、そういう評価軸があってもいいじゃないかっていう考え方ですね。
仕事で自己実現でホントにOKか
ただ、そこにはすごくネガティブな部分があることも忘れてはいけません。仕事による自己実現というのは、容易に、劣悪な環境で自分が働いていることを肯定することにつながります。
つまり、「自分がやりたいことをやっているんだから、多少苦しくても自分が選んだ道じゃないか」とか、あるいは、「自分たちが置かれている状況は、こういう仕事を選ぶ以上、自分の好きなことをやっている以上、しょうがないんだ」という形で、本来ならばあまり推奨されないような仕事の環境が、正当化されてしまう。
それは、自分自身だけでなくて、周囲によって正当化される場合もあります。つまり、仕事の上司や先輩とかですね。「好きで始めた道なんだから」。これは強力な呪文のようなものです。長時間労働など仕事の劣悪な環境というものを、賃金の代わりに気持ちで埋め合わせるような、そういう状況をたやすく生んでしまいます。
アーリー・ホックシールドという社会学者が述べていることですが、戦後一貫して少しずつ家族の多様化が進み、そして家族の絆が薄くなっているといわれている中で、職場環境の方がむしろ「疑似家族」になっているんです。彼女はアメリカの事例を挙げながらこの事を指摘をしていますが、日本でも似たような状況があります。
家族の絆が薄くなっていると多くの人が思っている一方で、仕事の場が、家族とは言わないまでも、ある種の擬似サークル的になっている。高度成長期には「会社は家と同じ、上司は親と同じ」なんてことを言う人もいましたが、そうした関係性も、ある時期まで希薄になっていたんです。ですが近年では、むしろ職場に密な関係性を求める若い人が増えています。いわゆる仲間ノリですよね。ただのビジネスライクな関係ではなくて、仲間とも呼べるような関係で仕事が進んでいるようなところが、喜ばれる。
「平均年齢○○才の明るい職場です!」みたいな。ブラック企業の典型的な売り文句ですけれども(笑)。ああいう仲間感がありますよっていうことが、売り文句になる。給料が安い代わりに仲間感がありますよというね。別に仲間感があってもいいと思いますが、低賃金労働や社会保険を完備していない、休日を取れないといったことを正当化する仕組みと、その仲間意識は結びついてしまいがちです。抜け駆けもできなくなるし、従業員のモチベーションは低いままなので、生産性も伸びないから、収益が上がらず、雇用環境はよくならない。
最初に両義的と申し上げたのは、そういうふうに仕事に夢を求めると、必ず食い物にされるから良くないと思っているわけではないんです。食い物にする企業が悪いのであって、仕事に夢を持つこと自体は悪くない。だとしたら、仕事による自己実現というものが、いかにして搾取に結びつかないようにするか、というシステムを考えるべきで、若者たちにそうやって夢なんか見ちゃダメだよっていうふうにお説教するだけでは、既存のシステムを維持するための「いい子競争」が繰り返されるだけです。そういうことを言いたいのであれば、少なくともその人の適正に見合った自己実現が可能になるためのアドバイスができる人材が必要です。
“自己実現”が職場に生む心理的負荷
乾:一方で、鈴木さんは著作の中で、仕事の場で自己啓発をして、不断に自身をアップデートしていく自分が存在するかたわら、「ありのままの君でいいですよ」と癒されたい自分もいると。その間を往復しているのが現代の特徴じゃないかと言われています。
鈴木:そうですね。さっきのホックシールドの指摘にも繋がるんですけれども、要するに仕事をする環境が、自己実現と結びついてくること自体は、大きな流れとして、良くも悪くももう起こってしまっていることだと思います。「仕事というのはお金のためだけにやることで、嫌なことでも我慢してやるんだ」と言っても、多くの学生たちは納得しないでしょう。
そうした状況の中で、産業の面から考えても、多くの企業が従来のセオリーを維持するのではなく、何らかのイノベーションが必要だと考え、そういうことができる人材を求めています。これまでやってきたことを、これまでやってきた通りにやることだけでは難しい。常に付加価値が何かということを考えながら、自分の仕事の付加価値性について、あるいは自分の関わっている仕事の付加価値性について、あるいは自分の人材としての付加価値性について考えながら生きていかないといけない。
業務の評価も、いわゆる具体的な営業成績だけではなくて、その営業成績を上げるために何をしているかであるとか、あるいは会社の業績を上げるためにどのような努力をしたかということを数値化して求められるという、こういう状況が続いているわけですね。
スタートは成果主義が導入されたことに関係していますけれども、安直な成果主義の導入がもたらした弊害が周知の出来事となり始めている現在でも、やっぱり自分の付加価値を上げていかないといけないという、ある種の強迫観念のようなものは残り、それは特に会社に入って以降の方が強いという特徴があります。
それがきちんとした成果に結びつくのであればいいのですが、もともと例えば自分の人材としての付加価値性を高めるといのうは、社会の雇用流動性が高いことを前提にしているわけです。
「このぐらい努力したんだから、このぐらいのカネで自分を買ってくれないんであればよそへ移るよ」ということが、対等に労働者から言えないと、意味がない。実際には、会社から自分に対する評価を下げないために、嫌々努力をしているっていう状況があり、そうしたスキルを積み重ねて転職しようにも、基本的にそれを評価するシステムそのものがなかったり、あるいは共通の基盤っていうものが認められていなかったりする。
MBAや資格をとったりしても、転職するにも会社のほうが発言権がでかい。いわば言い値で買われてしまうというような状況がある。そうすると、自分たちが何のために付加価値性を高めているのか、スキルアップしているのかよくわからないっていう話になってしまいますよね。
「何のためにやっているのかわからないけど、でもやらないと評価下がるしなあ」というジレンマの中で、普通の人たちが直面する考えというのは、「自分たちがやっているのは、仕事だから仕方ないんだ」という形で、自分自身の本音というか、本当の自分というものから切り離して、そうしたスキルアップというものを考えるようになる。まあありがちですよね。
でも同時に、そこで求められているスキルアップというのは、お前自身は何をしてきたのかと、いうことまで問われるわけです。つまり、「仕事だから嫌々これだけの数字を上げました」では許されない。一方では「これは仕事だから」と割り切りつつ、上司の前でプレゼンするときには、「自分はこれをやりたいんです」と本心から言ったかのように、プレゼンしないといけない。
この乖離は、いろんな業務に共通して起きています。ただどちらかというと、非熟練、半熟練のサービス業で、より強く機能してしまうっていうのが、皮肉なところだと思っています。つまり、大きな会社の仕事であれば、自分が何をしたかという意欲を発揮する以外にも、自分を評価するシステムというのは沢山ありますし、いろんなチーム作業の中で業績が決まっていくので、個人の意欲という評価というものは相対的に低くなります。
しかし、居酒屋でも営業でもそうですけれども、個人がやったこと、あるいは個人の意欲というものが、業務の中に直接、評価の対象として入ってきてしまう職場では、「なぜ頑張らないんだ」とか、「言い訳はいいからどうするんだよ」みたいなコミュニケーションが生まれ、新人がキリキリ胃を痛める、ということが起こってしまうわけですよね。こうした話が蔓延しているせいでしょうか、学生たちが就職活動で企業選びの際に一番気にするのが「ブラック企業かどうか」だそうで。
ここがすごく難しいところです。先程は仕事による自己実現は必ずしも否定しないと言いましたけれども、日本の今の状況の中では、そうした仕事による自己実現というものが組み込まれている職場ほど、どうしても個人に対しては圧迫的になり、また心理的負荷の高いものになってしまうという状況が、現にある。そこは大きな問題だというふうに思います。
で、そうした状況というものを改善するのがなぜ困難なのかというと、その種の非熟練、半熟練のサービス業に就いている人たちというのが、本人たちの意識の中で、「それしか仕事がなかった」「自分たちが選んできた道なんだから」という形で、自己責任を内面化しているからです。あるいは内面化しているがゆえに、努力しない人っていうのを、蔑む傾向にどうしても入ってしまう。いわゆるヤンキーの理論ですね。「どうせオレたちなんか最初から大企業なんか無理なんだよ。だったらできる範囲でなぜ頑張らないんだよ、文句言ってないでさあ」みたいな。
先程「先輩」というタームを出しましたけれど、厳しい環境の中でも努力できている人たちしか職場には残っていないわけです。そういう人から、「いやオレもなあ、最初はたしかに辛かったけどさあ、どうせオレたちにはこういうところしかないんだからさ、頑張ろうぜ」みたいなことを言われると、「ういっす!先輩!」みたいな(笑)、悪しきタテ社会のコミュニケーションになってしまいます。
でもそれで成果を上げられないと、結局は、心理的な圧迫と、しかし先輩たちが内面化している、体現している価値観との間に大きなギャップというものが生まれてきて、心が病んでしまったりであるとか、仕事が続けられなくなってしまったりとか、そういう状況を生んでしまうわけですよね。
当たりくじだよ人生は?
乾:自分たちが選んだんだ、これしかなかったんだ、と自己責任を内面化してしまう。いわゆる宿命のように感じてしまうというのは、どういう背景から起こっていることなんですか。
鈴木:うーん。個人的にはいろんな角度から考えられることだと思っているんですけれども、少なくとも仕事や人生の選択ということに関して言うならば、皮肉なんですけれども、選択権が個人の側に与えられるようになったことが大きいんだというふうに思うんですね。
ちょっと専門用語を挟んで説明します。社会学に「個人化」という概念があります。これ一つとってもとても長い説明を要するタームなんですが、ざっくりいうと、これまで「当たり前」と思われていた常識がすべて「自明のもの」ではなくなり、個人の価値判断に任されるような状態を言います。例えば結婚。近代社会以前は、イエやムラの慣習と密接に結びついていたし、戦後も長らく、結婚して子供を持って家を構えて一人前みたいな発想がありました。ところが今は、こうした価値観はすべて個人が選ぶものであるし、相手との価値観のすり合わせになる。自らの生き方を定める絶対的な基準の純度が低くなり、すべてが「個人の選択」に委ねられるわけです。この個人の選択にゆだねられる力が強くなることを、社会学では「再帰性の高まり」と呼びます。これは近代という時代が当初から持っていた特質ですが、特に昨今、この再帰性が非常に高まっています。
さて、では僕たちの生活はどうなっているか。一応あらゆる選択肢は与えられているということにはなっている。その中から自分の意志で、人生を選んでいくのは間違いない。ところが、本当は沢山あったはずの中から、AとBだけ見せられて、「Aがいい?Bがいい?」と言われて、Bを選んだみたいなことになっているんですね。進路選択の場面を思い浮かべて下さい。本来ならば自分がほかにも選べたかもしれないという可能性は提示されず、現状で選びうる選択肢だけは沢山見せられて、その中から選んだというような、そういうキャリア形成なり進路指導なりが行われるわけです。でも、自分の人生は自分で選択してきたんだって思うしかない。
しかもその選択の原理というものは、基本的には「やりたいこと」中心に編成されるようになっている。つまり、収入とか社会ステータスとかのパラメーターのほかに、「自分がやりたいかどうか」というパラメーターを見せられて、その優先度が一番高かったりする。「お前はやりたくないかもしれないけれども、こっちのほうが安定しているし収入が高いから」とは言われずに、「やりたいんだったら苦しいと思うけどじゃあやってみたら」みたいなことを言うのが、親なり教師なりが、子供に勧めるべき幸福な人生だって思っちゃったんですよね。
僕はこれを、“当たりくじ人生”って呼んでるんです。つまり、教師にしても親にしても、子供には当たりくじを引かせたいわけです。そうすると、とりあえず外れなしの当たりくじを見せて、その中からどれを引いても当たりくじだよっていう、そういう見せ方をしなければいけないわけですよね。しかもくじっていうんだけれども、全部「当たり」って書いてある(笑)。ほら引いてごらんみたいな。
当たりくじは、客観的に当たりくじなのではなくて、くじを作った人が当たりくじだって言っているだけなんです。当たりと書いてあるくじを引いたんだから、それを「当たり」と認識できないのは、自分が悪いんだっていう話になりますよね。
これは単に企業が若者たちをだましているとか、逆に起業してリスクをとるべきだとか、そんな単純な話ではないんですよね。みんなその子に幸せになって欲しくて、当たりくじだよって示した結果、引いた当人は当たりくじをどうしていいのかわからなくて困っている。それはだって個人として考えれば、そういう子が来たら同じこと言うでしょう、人は。
乾:そうですよね。「これは全部当たりくじだから、おまえここから選べよ」みたいなことになりますよね。
鈴木:外れもある中でさあ選んでごらんとは言えない。
乾:そっちのほうが面白いぜとは言えないですよね。
鈴木:なかなか言えない。だから、せめて引いた当たりくじの中で、その当たりくじがもっと当たりくじなるように頑張ろうぜ、みたいなことを言わざるを得ないような状況がある。
だから最初に申し上げた、それが社会と切り離されてしまっていることがやっぱり問題なんですよね。当たりくじは、本当に当たりくじなのかどうなのかを判断する目って、社会的な目線を持っていないと、やっぱり養えない。だからくじを引かせるシステムよりも、引いたくじを判断するスキルや、知恵を身につけるっていうことのほうが大事だと思うんですよね。
進む家族の内閉化と偽装化
乾:くじを判断するときに、仕事の外側に、「このために仕事をしているんだ」という軸みたいなものがないと、何か客観的に判断できないような気がするんですね。よく言われる話ですけれども、例えばヨーロッパの人なんかは、すごく地元の繋がりを大切にしていて。すごく優秀な人とかでも、「俺はもうこいつらと酒飲んでバカ騒ぎする時間が毎日とれる限りで、仕事にコミットするよ」と。うまくいえないんですが、仕事の外側の視点がちゃんとあるんです。日本の場合そこが、すっぽり欠け落ちてしまっている感じがするんですが……。
鈴木:ヨーロッパの場合はもともと領邦性から国が出来ていますから、地域主義が強いのは当たり前で、地域社会があって国っていうシステムだし、アメリカっていうのはもともと自治の伝統を重んじますから、国っていうのはあくまで自治体が連合してやっているだけ、合衆国ですから。まあそういうイメージですよね。
日本では地域の絆が薄くなっていると言われていますが、ここには二つの要因があります。ひとつは、社会学者の見田宗介さんをはじめとして多くの人が指摘していることですが、高度成長期に都会に出てきて核家族を形成した人たちにとって、「マイホーム」が失われた家郷の代わり、地元になってしまったんですね。だからこそ、安定した仕事で得た給与は家に入れ、そのカネで家庭の中に沢山の耐久消費財を入れていくことが、「豊かさ」の内実だった。そういう人たち向けにサービス産業が発達しますから、郊外の住宅地のように、地域の絆が非常に薄いところでも、家を買って暮らしていくことが可能だった。つまり、お金を背景に、地域の協力ではなくて、そうした地域から解き離れて、「お家」という小さな地元をつくる。そういう仕組みを理想としてきたということがあります。
その背景には、日本の国土開発の特殊性があります。地域をつくるのではなく住宅地をつくるという発想のもと、1970年に千里ニュータウン、1971年に多摩ニュータウンがオープンし、第1期入居が開始します。ここから宅地開発というものが急速に進んでいく。60年代は団地でしたが、70年代になると本当に家しかない郊外の住宅地というものが、だだっぴろく広がっていくことになった。
地域から切れて、マイホームをつくるのが理想だと考えている限りにおいては、人々の価値観というのは、地域ではなくて家族の方に内閉化、内側に閉じていかざるをえなくなります。日本人に、「一番大切なものは何ですか」と聞くと、この30年ずっと家族が1位で、今本当にダントツ1位で家族なんですけれども、多くの日本人が、家族は大事だということを考えるようになっている。
また、その家族の内実も、経済的な支えというよりは、精神的な充足を得られる関係だという風に考えられているようなんですね。
このデータについていえば、いろんな解釈の仕方があります。家族がそうした形で内閉化してくると、お金がない家族は、非常に厳しい立場に立たされることになります。例えば、子育てに関しては、お金があるか、地域や親類縁者のサポートネットワークがないと、子供を育てるのは難しいと言われています。しかし貧しい家でお金がない状況で、家族というものは自分で守るものだという話になってくると、お母さんが夜、夜中まで働きながら、かつ子供の面倒もみなければならない、それがあるべき家族の姿だとなってしまう。
つまり、「地域から切れたマイホームをつくる」という理想が、もともと、お金が沢山あるという前提でしか機能しなかった。前提が崩れたとたん、機能しなくなり、家族が様々な負担を背負い込むような形となってしまったというわけなんです。
さらに、「家族が大事」というデータと反して、家族と過ごす時間というものが短くなっている、家族と過ごす時間が十分に取れないと考える人が増えているというデータもあります。つまり、多くの人が家族は大事だと思っているけれども、現実の家族とはあまり一緒にいないという不思議な状況が生まれているんですね。
僕は、家族の内閉化と並んで、“家族の理想化”ということだと思っています。つまり、今、人々が家族という言葉で連想するのは、家族の“ような”関係のことであって、現実に血の繋がっている人たちの繋がりではない。それ以上の理念的な何かというものになっている。
当たりくじを見極める足場としてのジモト
だからこそ、理想に押しつぶされてしまう人もいる一方で、家族的な繋がりであれば、例えば、ドラマ「ラスト・フレンズ」で描かれたシェアハウスに住んでいる仲間のように、友人関係とか、あるいは地域の地元仲間とか、そういう人たちを家族と呼んでもいいみたいな、そういう方向にも振れていく可能性を持っている。
内閣府の「世界青年意識調査」によると、若い人たちの間で、住んでいる地域への永住志向が高まっています。また地域への愛着がある理由は、友達がいるからだと答えられているという面白いデータがあります。つまり、友達がいる地元というものを愛するみたいな、そういう心理が生まれ始めている。なかなか興味深い現象です。
背景には、マイホームをつくるためだけに当てがわれた郊外の住宅地というものが、ロードサイドビジネスの発達や、子供世代の成熟、そして近年では大型ショッピングセンターの進出等によって、「ジモト」と呼びよるような場所になっているということ。かつて『アクロス』というマーケティング雑誌が、1997年にそういう特集を組んでいました。郊外で育った第2世代が、郊外の宅地を親世代のようなコンプレックス的な感じではなくて、「地元」とか「こっち」と呼ぶようになっているということが、当時すでにレポートされています。
いわば「当てがわれた住宅地のなかでマイホームをつくる」という生活だったものが、そのマイホームで育った子どもたちにとっては、その郊外は「ジモト」であると意識されるような、そういう状況というのが生まれつつあるんです。実はその子どもたちこそが、70年代にニュータウンで育った第一世代であり、近年の経済状況の中でダメージを受けた人たちなんです。彼らにとって、郊外の地元というものが自分を支える数少ないリソースになるというような、そういう状況が生まれ始めているんだろうと思っています。
そうしたいわば仕事というものを客観視できるような、自分の人生の別の足場というものをどこに置くかと考えたときに、マイホームに閉じられない地域性に可能性がある。それは、かつての伝統ある地域というだけではなくて、「そこに集まった人たちがそこをジモトと思っている地域社会」みたいな感覚です。そして、この地域性の感覚というものをコアに、地域を再編することは可能だろうと考えています。
そのとき鍵になるのは、よく議論されているようなコンパクトシティ構想や、中心市街地活性化ではなく、郊外の大型ショッピングセンターです。特に郊外地域の大規模店舗は、昔からあった商店街の衰退に繋がるということで、00年代の後半にはまちづくり三法の改正が行われ、1万平方メートルを超える大規模な商業施設への出店規制が行われています。一方で、ショッピングセンターを単なる物売りの場所ではなく、地域のコミュニケーションのハブとして設計していく「ライフスタイルセンター」と呼ばれる業態が、近年注目を集めています。
具体的には、こうした商業施設を中心に、人口5万から30万人ぐらいの規模の、中規模都市を中心とした地域再編というものが起こってくることになるだろうと思っています。 理由はシンプルです。一つは、少子高齢化が進んでいく中で、高齢者中心の過疎地域というものがこれからどんどん増えていきます。そうすると、交通機関や医療機関は採算が取れなくなってくる。高齢者にとっては、交通機関と医療機関が近くにないとまともに生きていけないわけで、どこかには移動しなければならない。
人間が住居を移動するのと、商業地が人間のいる所にやってくるスピードを比較したら、商業地が動くスピードの方が早いに決まっている。そう考えたときに、人間をとにかく都会の商業地に集めてこようとするよりも、人が「このぐらいなら動いてもいいか」と思える距離で移動し、その範囲内にショッピングセンターがやってくる方が合理的です。そこに先程の話も絡みますけれども、地域で仕事をしたり田舎で暮らしたいとか、あるいは郊外が地元だって言ってるような若い世代が入ってきて、新しい価値観で、その高齢者と若者の間で、地域が再編されてくるということが起きるであろうと。
おそらく公共交通機関は例えばコミュニティーバスやカーシェアリングのようなものを通じて代替されるのが望ましいでしょう。新しく地域にやってきた高齢者というのは、元いた地域のサポートネットワークから切り離されてやってきた人たちなので、介護を含めて様々なサービスに対する潜在的なニーズというものがあります。
このニーズをボランティアではなく、ビジネス、あるいは社会起業ベースで、つまりきちんと賃金の発生する仕事として、若い人たちが地域の中にビジネスとして埋め込んでいって、その若者たちと高齢者の間でうまく経済が循環するような、そういう地域再編というものが起こってくることが望ましいだろうと考えているんですね。
これは、今までの行政主体で、現在までにある商業地中心で考えているようなタイプの地域再編とは、全くビジョンが異なります。若者たちの価値観の変化ともうまくリンクをしながら考えられる一つの地域再編のあり方だろうというふうに思っています。
乾:すごく明るい、明るいと言っていいかどうかわかりませんが、日本のいまのリソースでできる成熟の一つのあり方ですね。
鈴木:もちろん理屈だけは簡単に言えますけど、現実は厳しいです。近年、流動的な人口はどんどん東京に集中しています。大阪圏は過去30年以上、人口の流出超過が続いていますし、名古屋圏でも流入と流出が拮抗している状況。90年代の後半からは、東京への一極集中が進んでいるんです。しかし、例えば中国地方で見ると、広島市だけが、流入する人口が増えている。
おそらく、関東圏であれば3~5カ所、そうした中核都市というものを考えることができると思います。しかし東北や北海道では、もっと厳しいでしょう。僕のイメージとしては5万~30万という数字ですが、実際にはもうちょっと大きな規模で集まらないと、うまく立ち行かない地域が出てくるとか、そこに人が集中してしまって、むしろ過疎化が進んでしまうということは十分考えられます。
→後編「ネットワーク化で社会を変革せよ!」はこちら。