日大アメフト部の暴力タックル問題が世間を騒がせている。日大の内田監督と井上コーチは辞任したが、暴力プレーの指示は否定。これに対してプレーを行った選手(A選手とする)が自ら謝罪会見を開き、暴力プレーは監督とコーチの指示だったことを明言するなど、当事者間で意見が食い違っている。一方、被害者である関西学院大アメフト部側は怒りが収まらず、タックルを受けた選手側は刑事告訴も検討している状況である。
この状況に対して日大側の指導者に対する批判が噴出。事実が発覚した当初は「暴力プレーを指示するというのは、スポーツマンシップに著しく反する」という感じの批判だったのが、両者の謝罪会見後はその内容が変わった。「指導者は自らの責任を認めず、一方的に20歳の学生に責任を被せるなんてひどい」などの意見がほとんどである。
しかし、前監督と前コーチは本当に嘘をついているのだろうか。多くの人が彼らの言葉を信用していないのは、彼らには嘘をつく動機があるからだ。それは自らの保身である。しかし、冷静に考えればこの状況で保身に走ることは逆効果である。では、なぜ彼らは保身に走るのか。それは、彼らは尊大で内部の論理に縛られている人間だから、世間の反応が読めないのだ。ゆえに内田前監督と井上コーチは悪い奴だ・・・というような感じで脳内作文が行われている。しかし、彼らが嘘をついていないという可能性は考えられないだろうか。
私がそう考える理由は、ゲーム中の関学アメフト部の対応にあった。
ゲーム中の関学アメフト部の対応
日本女子初のプロアメリカンフットボール選手である鈴木弘子氏は「アメリカだったら、あり得ません。あったとしたら、大乱闘になってます」と断言。「誰も抗議せず、チームメイトも全く怒ってなくて、淡々と試合が行われてること」に驚いたという。そこで私は疑問を持った。
・なぜ、関学の監督はその場で猛抗議しなかったのだろうか
・なぜ、仲間の選手が悪質なプレーを受けたのに、乱闘に発展しなかったのだろうか
・なぜ、監督は選手をベンチに引き揚げなかったのか
これに対して関学の監督は「気付いていたら、選手を引き揚げさせていた」とコメントしている。これに偽りはないだろう。では、監督が気付いていなかったとして、なぜ選手たちは監督に訴えなかったのだろうか。あるいは、なぜ選手たちは審判に猛抗議しなかったのか。乱闘を起こす以外にも、以後の悪質なプレーを防ぐ手段はあったはずだ。なぜ、止められなかったのか。
その理由は、「誰ひとりとして、1回目の暴力タックルを見ていなかった」ということだ。見ていなかった理由は明白で、1回目の暴力タックルはプレーと全く関係のない場所で行われていたためである。だから関学の監督も見ていないし、コーチも見ていない、選手も見ていない。もちろん、タックルを受けた当人も、それを見ていない。
見ていなければ、止めようがない。ここで日大の話に戻そう。
内田前監督が暴力タックルを命令したとする根拠
仮にあの暴力タックルがA選手の命令違反による暴走だったとしたら、どうなるか。最初の反則で彼は試合から外されるだろう。なぜなら、このまま試合に出すのは危険だからだ。また、1回目の暴力タックルでは退場処分にはなっていないので、温情で出し続けたとしよう。しかし、その後も暴力プレーを繰り返し、3回目で退場になっている。もし、A選手の暴走だったら、2回目で止めるだろう。そして、彼がベンチに戻ってきたら、コーチは叱責するだろう。しかし、退場になった彼をコーチは労っているように見える。さらに、試合直後のインタビューで内田前監督は「内田がやれと指示した(と記事に書いていい)」「あのぐらいラフプレーにならない」「Aはよくやったと思いますよ」とコメントしている。つまり、試合直後には暴力タックルが自分の指示であることを認め、A選手を褒め称えているのだ。
これだけ証拠が揃えば、内田前監督は「クロ」だと判断したくなる。(下図参照)
しかし、この結論には論理的な欠陥がある。もし内田前監督が試合中に1回目の暴力タックルのプレーを見ていなか
・「言い訳になるがボールを見ていた。プレーを見ていなかった」
・「ビデオを見るまでどこまでの反則かわからなかった」
内田前監督も関学の監督・選手と同様に、1回目の暴力タックルを見ていなかった。つまり、試合後に彼を褒め称えた発言は、暴力タックルの映像を見る前の時点における発言なのだ。この事実を押さえると、彼の発言が変化している理由が分かる。つまり、2回目以降の暴力プレーは自分の命令したプレーの範囲内だが、1回目の暴力タックルは「自分の命令の範囲内ではない」ということなのだ。
つまり、内田前監督を「クロ」だと断定している人は、彼はあの暴力タックルを試合中に確認していた、という隠れた前提を置いているのだ。この前提が崩れると、クロ認定があやしくなってくる。
では、仮に内田前監督が真実を語っていたとしたら、なぜA選手は暴力タックルをせねばならなかったのか。
監督、コーチ、選手の会話を分析する
5/23の会見で、井上前コーチは次のようにコメントしている。
・「監督から僕に『クオーターバックに怪我をさせてこい』との指示はなかった。私が宮川選手に対して『クオーターバックを潰してこい』と言ったのは真実です」
井上前コーチは、A選手に対して暴力プレーを示唆する命令をしていることを認めた。この事実を踏まえると、暴力タックルはコーチの指示だったという結論を導くことができる。
先ほどと同じようにこの論理を検証してみると、「論理の飛躍」があることに気づく。それは、潰せ=暴力タックルとしている点である。必ずしも「潰せ」というのは「本来のプレーと関係のない場面でもいいから、怪我をさせろ」という意味ではない。日本代表ヘッドコーチの経験がある東大の森ヘッドコーチによると「日大コーチが発したという『潰せ』という指示はアメフト界では日常的に使われている」「ルールを守った上で、激しいプレーをしてこい、という意味に近い」という(5/23朝日新聞デジタル)。法政大の有沢ヘッドコーチも「戦術的にタックルをするという意味で『潰せ』という言葉を使うことがある。ただ、チームの理念、目的がしっかりしていれば誤解はないし、あのような反則は起きえない」という(5/24朝日新聞デジタル)。つまり、「潰せ」という命令自体はこの競技で普通に使われているということだ。
日大の現役選手と保護者は「A選手のプレーは監督とコーチの指示である」とコメントしているが、コーチが「相手のクオーターバックを1プレー目で潰せ」と指示したのは間違いないだろう。これについてA選手は謝罪会見で次のようにコメントしている。
・「コーチから伝えられた言葉は、『潰せ』という言葉だったと思うんですが、上級生の先輩を通じて『アライン(守備位置)のどこでもいいから、潰してこい』とは、『秋も関西学院との試合出てるので、そのラインのQBがケガをしていたら、こっちも得だろう』という言葉もあり、ケガをさせるという意味で言っているんだと、僕は認識していました。」
「相手のQBを潰せ」というのはコーチの指示であるが、それをA選手が「ケガをさせるという意味で認識」したというのが事実である。
しかし、A選手に意図が伝わっていなかったとしたら、それが判明した時点(1回目の暴力タックル)で、井上前コーチは試合中に彼を止めるべきだったのではないか。コーチは監督と同様に1回目の暴力タックルを見ていなかったのだろうか。これに対して前コーチは記者会見で「僕はベースラインのコーチなので見ていました」と語っている。それにもかかわらず、彼はあのプレーの後もA選手を止めなかった。ただし、彼は暴力タックルの後にA選手の行動を修正させようと試みている。それは5/22のA選手による会見と、翌日の井上前コーチの会見で語られている。
・A選手:「本件で問題になっている1プレー目の反則行為の後、2プレー目が終わり、コーチに呼ばれてサイドラインに戻った時に井上コーチから『キャリアに行け(ボールを持ってプレーしている選手に行け)』と言われましたが、さんざんクオーターバックを潰せと指示されていたので、井上コーチの発言の意味が理解できず、再びパスをしてボールを持っていない状態の相手チームのクオーターバックにタックルをして倒し、2回目の反則を取られました」
・井上前コーチ:「(1回目の反則の後も試合に出し続けたのは)判断ミスだと思っている。もともと僕は彼に対してハッパをかけていた。その日だけでなく、彼にいろいろ、結果が出るようにと思ってハッパをかけていた。それに対して彼が、そういう気持ちで試合に臨んだので、冷静にしてあげようとか考えていなかった」
井上前コーチは自分の命令とプレッシャーが思わぬ方向に作用したため、慌てて「ボールを持っていない選手に行くのではなくて、ボールを持っている選手にぶつかれ」と命令したのだろう。
本来はこの時点でA選手を引っ込めるべきだったのだが、井上コーチにはそれを監督に進言できなかった。それはなぜか。A選手を追い込んでしまったことに対する罪悪感からかもしれないし、監督に対して自分の無能ぶりを露呈させたくなかったからかもしれない。後から振り返れば、これが騒動を大きくしてしまった。
一方、A選手は「相手チームのクオーターバックに怪我をさせろ」という命令を受けているつもりだったので、コーチの命令の意味が理解できず、暴力プレーを続けてしまった。そして、責任者である監督は最初の暴力タックルに気づくのが遅れ、試合後にA選手を褒め称えるようなコメントを出してしまった。
何でこんなことになったのか。30歳の井上前コーチは、次のように反省の弁を述べている。
・「彼は優しい子で、もう一つ上のレベル、技術的にも成長が止まっていると思っていた。変えたいところで、中身の部分、闘争心とか向上心。フットボールを必死にやってほしかった」
・「その発言とか『相手のQBは友達か』とか、彼に過激な表現になってしまったと。彼に対して、僕は闘争心を植え付けたかった。過激な表現になって彼を苦しめた、本当に申し訳ない」
指導歴の浅い若いコーチは、時にこうした過ちを犯す。特にアメフトはボディコンタクトが激しく、怪我が多いスポーツである。昨年の甲子園ボウルでも日大のQBは関学の激しいマークにあって軽い脳震盪を起こしている(反則ではない)。お互いを「潰す」くらいの気持ちで向かっていかないと、こちらがやられてしまう。そうした意識が、過激な表現になってしまったということは十分に考えられる。こうしたミスは、スポーツのコーチだけに起こることではない。新米管理職も同じだ。私にも同様の経験がある。
監督はコーチに対して、選手を奮起させる指導を求めた。コーチは監督の権威を裏にちらつかせて、A選手に激しいプレーを求めた。A選手はプレッシャーに押しつぶされ、正常な判断力を失ってしまった。「伝言ゲーム」によるボタンの掛け違いのようだ。
勝手な思い込みの怖さ
ワイドショーのキャスターは視聴者に問いかける。「内田前監督の会見と、A選手の会見、どちらが真実を語っているのでしょうか?」
この問いに引っ掛かってはいけない。どちらも真実を語っている可能性があるからだ。マスコミはこうした問いを立てることで、「内田前監督は悪い奴」という方向に誘導している。マスコミが描くのは次のようなストーリーである。
「内田前監督は甲子園ボウルを連覇するために、ライバル校関学のQBに怪我をさせようと考えた。彼は(自分に従順な)井上前コーチに指示して、鉄砲玉になれそうな選手を選んで相手のQBに怪我をさせるように命令させた。監督とコーチのパワハラによって、選手は暴力タックルをせざるを得なくなった。試合直後は自分の指示と認めていたが、騒動が大きくなったので、選手とコーチに罪をなすりつけた。なぜなら、彼は日大常任理事の職に留まりたいからである。内田氏は何とも許しがたい人物であり、選手とコーチが不憫である」
こういう話は、受け入れられやすい。善悪が分かりやすいからだ。
・加害者=内田前監督と井上前コーチ/被害者=A選手、関学の選手
・加害者=内田前監督/被害者=井上前コーチ、A選手、関学の選手
のどちらかの構図である。A選手の謝罪会見後は前者だったが、監督とコーチの謝罪会見後は後者の構図に移りつつある。さらに加害者側に日大理事会を加える報道もある。
いずれにせよ、内田前監督を叩けばいい。それに気がすんだら、パワハラが常態化している(可能性がある)組織風土や日大の理事会体制を叩けばいい。いずれにせよ、内田前監督が悪いことには違いがない。
しかし、これが「伝言ゲームによるボタンの掛け違い」と「未熟なコーチによる指導ミス(パワハラ)」が原因だとしたら、どうだろう。あまり面白くない。内田前監督を悪人として叩けなくなるし、日大の理事会を悪の黒幕として叩けなくなってしまう。
もちろん、日大アメフト部に組織的な問題がないわけではない。伝言ゲームによるボタンの掛け違いが起こるというのは、東芝の不正会計と似た構図である。ここにパワハラが加わると、伝言ゲームの末端に伝わる命令は「不正をせよ」となってしまう。しかし、組織のトップはそんなことを言っておらず「チャレンジせよ」とか「相手を潰せ(そのくらいのつもりでぶつかれ)」という命令しかしていない。ただ、こうしたことは東芝や日大アメフト部だけに起こっていることではなく、日本のあちこちの組織で起きている。内田氏を叩くことでは何の解決にもならない。
さて、話を元に戻そう。まとめると、2つの点で内田前監督・井上前コーチとA選手のどちらも真実を語っている可能性がある。
1.内田前監督が嘘をついていると結論付ける際の「隠れた前提」は、「内田氏は最初の暴力タックルを見ており、それを放置したばかりか、そのプレーを褒め称えた」というものである。しかし、関学の監督やコーチが実際に見ていないわけだから、内田前監督も見ていない可能性が高い。
2.日大の現役選手とその保護者達も「内田前監督からの指示があった」とコメントしているが、それは相手のQBを「潰せ」とか「壊せ」という指示であって、それ自体は他チームでも頻繁にあることである。しかし、チームの目的や理念が選手に理解されていない場合、誤って伝わる危険がある。
「人間はみな自分の見たいものしか見ようとしない(カエサル)」のだ。日大アメフト部の問題は選手や保護者、教員組織やOB組織、付属高校まで含めた「日大ブランド」を揺るがす騒動になりつつある。私も日大アメフト部の組織体制や風土に改善されるべき点があることは否定しない。しかし、自分の理解というものは、自分の見たいように世界を変換した結果であることを、忘れてはならない。