大量に本を買い込み、地球の裏側に向かう。今回で3回目の南米となる。初回がベネズエラ、2回目がペルー。そして、今回のブラジルだ。僕にとっては、震災後初の海外出張となる。成田から東のNYに飛び、JFK空港のラウンジで仕事してから、南米へと向かう。
ブラジルのサンパウロに到着。機内滞在時間合計24時間、トランジット時間4時間、自宅から空港までと空港からホテルまでの道のりを合わせる4時間。合計32時間の旅程であった。
ホテルで、日系人の年配のホテルウーマンが、日本語で対応してくれて、部屋に着くなりNHKをつけてくれた。
今回のブラジル訪問の目的は、ダボス会議を主宰する世界経済フォーラムの南アメリカ経済会議にてスピーチするためである。隠れたアジェンダとして、ブラジルについての知見も得たいと思っていた。G20で僕が訪問していない国は、ブラジルとアルゼンチンのみだ。ブラジルは、2014年にワールドカップ、2016年にオリンピックを主催する重要国だ。
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南アメリカ経済会議は、リオデジャネイロで開催される。折角ブラジルに来るならば、南米最大の都市サンパウロに行かないと経済・金融がわからない。そこで一日早く出国して、サンパウロに立ち寄ることにした。着くなり先ずは市内の視察(観光?)だ。メインストリートのパウリスタ大通りに先ず向かった。
サンパウロは首都になったことがないのに、人口1900万人も有する。これだけ栄えた理由は、コーヒー集積の中継都市であったために、穀物・金融市場が始まったからだという。パウリスタ大通りの両側には、金融機関のビルが目白押しだ。その谷間にコロニアル調のコーヒー農園のオーナーの屋敷が、ポツリポツリと散見される。どうやら、オフィスとして使われているのがあったり、閉鎖されているのもある。
先ずはサンパウロ美術館を訪問することにした。大通りに面した近代的などでかい赤い建築物の中に、モネ、ルノワール、ゴッホ、セザンヌ、モジリアーニ、ピカソなどの名画が展示されていた。新聞社の社主が第一次世界大戦後に買い集めた絵画を、寄付したのだと言う。
僕は、どの都市に行っても美術館や博物館を訪問することにしている。その地の文化度が測れるからだ(日本もこの文化度の尺度では、実はいい線行っていると思っている)。サンパウロ美術館は、これから躍進する国に相応しいものだった。長旅の疲れと時差からくる朦朧感に、適度な刺激とインスピレーションを与えてくれた。
美術館を訪問していつも痛感するのが、財界のコレクターが果たしてきた役割の大きさだ。日本で言えば、松方・大原コレクション等がそれに匹敵する。このサンパウロ美術館は、新聞社の社主が、第一次世界大戦後に欧州で売りに出た絵画を買いあさり、集めたものに、市民から呼びかけて集めたコレクションを加えて作られたものだ。
僕には資産は無いが、ベンチャー・キャピタル的発想で、将来の大物に一点張りして比較的安いうちに購入することにしている。その将来の大物(見込み?)が、岡野博先生だ。僕は、今や岡野博先生のコレクターとしては世界屈指だ。
サンパウロを一望にできるサンタンデル・ビルへ。スペインの銀行がサンパウロ州立銀行を傘下に収めたので、ビルの名前も変わった。最上階の展望台からの見晴らしは、気持ちがいい。サンパウロは内陸にあり標高750M。北と西が比較的なだらかな山に囲われている。ブラジルの人口1億9000万人の1/10の人口1900万人いて、州全体では4000万人が住む。
展望台を下りて、どでかいカテドラルの中に入り、静かな時間を過ごす。ブラジル人口の70%がカソリック教徒だと言う。街中で、スーツ用の靴下を購入した。パッキングしたかと思ったが、どうやら忘れていたようだった。
リベルダージ地区にある東洋人街を歩く。東洋人街とは言っても殆ど日本だ。提灯をかたどったランタンがぶら下がる道を歩き、赤い鳥居をくぐる。姉妹都市の名がつく大阪橋を渡り、日本の小物ショップを覗きこむ。サンパウロは海外にある最大の日本人居住都市だ。
日本移民史料館で、歴史を調べる。最初の集団移民は1908年から始まり、大半は第二次世界大戦前迄に移住し、最後は1973年まで続いたたという。今ではブラジル全土に150万人、サンパウロに40万人いる。この日系人が現地で尊敬されていることもあり、ブラジルは親日的だ。
ブラジルと日本の時差は12時間。南半球に位置するので、地球の真裏にあたる。この地に喜望峰を回って、50日かけて、家族とともに到達したのだ。海外最大の日本人居住区が、日本から最遠の地にあるのも不思議な巡り合わせだ。1980年前後からブラジルから日本への逆出稼ぎが増えたが、リーマンショック後に再度逆戻りした。
16時のアポに間に合うように、ブラジルにある経営大学院のトップ校を訪問した。先ずはFDCとミーティングを持ち、FGVのキャンパスを覗きこんだ。双方ともポルトガル語が中心のMBAと研修だ。グロービスの方が、モデル的にも言語的にも進んでいる感じがした。世界的なアライアンスを構築するためにも、明日リオで再度FGVを訪問する予定だ。
一旦ホテルに戻りメールチェックし、そのまま初めて会う経営者の自宅を訪問した。YPOという経営者の世界的組織を使って、事前に「誰か会ってくれますか」と初めて呼びかけてみたのだ。日本の地震に対する関心は高いことが会話の端々から感じ取れる。州知事も昨晩、日本食のシェフを呼び、チャリティー・イベントを催したようだ。
サンパウロ空港からリオデジャネイロに向かう途中。空港のモニターは全て韓国製。広告も同様だ。南米最大の都市でこの状況だ。日本企業にも強いリーダーが必要だ。グロービスの人材育成の重要性を実感する。
ブラジル人女性は、チャーミングだ。サンパウロ空港のチェックインカウンターで、眼鏡がおしゃれな美女がいると、「眼鏡がお似合いですね」、とついつい口ずさんでしまう程だ。おかげで気持ち良く一人旅を楽しめる。
リオデジャネイロの国内線用のサントスドゥモン空港への着陸は、圧巻だった。海側から低空飛行に入り、水に落ちるかの様な低さまで降り、空母を横目に市街地を目掛け着陸し、滑走路に入るなり、逆噴射だ。
車に乗り込む。コルコバードの丘にあるキリスト像を右手に見上げ、左手に「砂糖パン」の意味を持つポン・ジ・アスーカルの寄岩だ。そして真ん前にはコパカバーナ海岸だ。
サンバの音楽をBGMにイパネマ海岸へ。雨が振り出したが、運転手も僕も気分はノリノリだ。レブロン海岸を経て目的地の会議場があるサンコンラード海岸に向かう。砂が黄色がかってて美しい。沖に小島が見える。山側を見上げるとコルコバードのキリスト像が手を広げていた。
リオは、サンパウロとは、全く違う空気がある。開放的で、明るく、陽気だ。2都市の比較に近い組み合わせを僕のデータベースの組み合わせから引き出した結果、ヨハネスブルグとケープタウンの組み合わせが近いという結論に達した。双方とも首都でないのに、国を代表する大都市だ。片方は、内陸。もう片方は、海岸沿いだ。地形もどことなく似ていた。
リオは、人口1100万人。フォーブスによると、世界で一番ハッピーな都市だと言う。このビーチ、サンバの音楽、気候、そして都市を見守る大きなキリスト像。その評価も納得できる。
ホテルにチェックイン後、リオ市内にあるビジネススクールを訪問する。そこから見える景色も美しい。ビーチ、ヤシの木、そして借景に「砂糖パン」の岩山、だ。ホテルからの往復は、ビーチ沿いだ。天気も晴れたので、水着姿の人々がビーチバレーとか楽しんでいるのが見えた。
27日夕方から世界経済フォーラム南米会議が正式にスタートした。最初は、レセプションだ。バスに40分以上揺られ、ラランジェイラス宮殿と呼ばれる元大統領公邸に向かった。1913年に完成したこの宮殿は、1960年まで首都があったリオにおける大統領の公邸として使われ、その後迎賓館として活用されている。
ぐるっと回り参加者に挨拶をする。友達に会うと、「大丈夫だったか」の声。やはり参加者の日本に対する関心が高いことがわかった。浅尾慶一郎氏がいたので挨拶をした。オープニングの前に、クラウス・シュワブ氏と立ち話をした。日本への哀悼の意を示された後に、5月中旬に来日するときに、日本との連帯やコミットメントを示したい、と話してくれた。
シュワブ氏を含め、僕の英語のメールを読んでいる人が多いのには、驚かされる。WEFのNo.2のロバートにも挨拶をしたが、夫婦で僕のメールを読んでいるとのこと。僕が震災後に3600名の名刺交換をしたVIPへのメールは、既にこの時点で7通となっていた。確実にメッセージが伝わっていることを実感できた。今回の日本からの参加者は、3-4名だ。こういう時だからこそ、遠くまで来ることが重要になるのだ。
オープニング・セレモニーが開催された。先ずはリオ州知事のスピーチ、そしてリオ市長、ブラジル国大臣2人の後に、クラウス・シュワブ氏の登場だ。リオは、2014年ワールドカップの開会式と閉会式そして、2016年のオリンピックの主催地だ。その上り調子のエネルギーを感じることができる。皆自信に満ち溢れていた。
日本への言及は無かった。もう地震から1カ月半以上経過する。世界は、確実に動いているのだ。日本は、自粛している場合ではないし、電力不足で経済を停滞させてもいけない。ガンガンにフルスピードで走りきって、やっとのことで追いつく程度の速度で世界は動いているのだ。前を見て突っ走るしかない。
ホテルへ戻るバスの中、窓の外を見る。フラメンコ海岸、コパカバーナ海岸と美しいビーチの風景が目に飛び込む。市民がビーチサッカー、バレー等を楽しんでいる姿が見える。照明がついているので、誰でも夜楽しめるようになっていた。「日本は、余震の中復興気運だろうか」、と一人日本への思いを馳せる。
朝9時半からパネルに登壇した。テーマは、Global Risks with Latin American Impactだ。
「ここから穴を掘り、地球の裏側に抜けるとそこに日本がある。地球の裏側の一番遠い国から来ました。一方これだけ遠いのに、何故だか海外で最大の日本人コミュニティが存在するのも興味深い。いずれにせよ、南米の会議に参加できて光栄だ」、という出だしで僕のパネルが始まった。つかみが大事だ。
テーマは、「リスク」と言うことだが、南米のことは、良く知らないので、日本のことをケースとして使って、リスクに対する考えを伝えることにした。僕は、一通り日本のことを説明した。地震、津波、原発事故の三重苦に加え、サプライチェーンと電力不足。さらに、今見えていないが、経済への影響(倒産、失業率の悪化等)と財政破綻の可能性に言及した。当然、その途中で、日本への安心感を与えることも忘れなかった。
僕は、その後、南米がどうすれば良くなるかを、強みを3つ、アクションを3つ説明した。パネラーは、ブラジルの経営者、コロンビア人でブルッキングス研究所の南米担当主任、エクアドル人で国連で南米担当、米国人でWEFでリスク研究の主任と僕だ。モデレーターは、エクアドルのビジネススクールの学長だ。僕だけ、アウトサイダーなので、僕の位置付けは、第三者としての視点の提供となる。
南米の強み:(1)若い人口、(2)鉱業・農業に適した地、(3)楽観的な明るい性格(笑)、アクション:(1)教育(特に初等教育)に力を入れる、(2)世界に開放し、投資・技術・ノウハウを吸収する、(3)インフラを整備する。
ま、パネルとしては良くできた方だと思う。最近は、かなり慣れて来た気がする。パネル終了後、参加者が寄ってきて、口々に、日本人の辛抱強さ、献身的な奉仕の精神、秩序の高さ、誠実さを褒め称えてくれた。
翌朝は、プライベートセッションに参加した。
その日の夕方29日で世界経済フォーラム主催の南米経済会議が終了した。数多くの出会いと学びを得て、充実した日々であった。この時期だからこそ注目を浴び、感謝されることになる。
2011年5月3日
リオからパナマに向かう飛行機の中で執筆
堀義人