福田財務事務次官(当時)が女性記者へのセクハラ発言で辞任をした。週刊誌に曝露された発言は卑猥かつ支離滅裂で、多くの人は耳を疑った。あの音声テープを聞いたら、福田氏という人物は「スケベオヤジ」で「思い上がったエリート」だと思うだろう。だから、世の中の男性の多くは「少なくとも自分は彼と違う」と考えており、彼を笑いのネタにしている人も多い。
そこで男性諸氏に問いたい。福田氏は本当に「思い上がったスケベオヤジ」なのだろうか。もし、彼がそうでなかったとしたら、あのセクハラは他人事ではなくなるはずだ。
福田氏の「スケベオヤジ度」は?
もちろん、そんなことをわざわざ議論する余地はないという意見が多いことは百も承知している。なぜなら、彼の言葉には弁明の余地がないからだ。週刊誌の記事によれば、真面目な質問をしている女性記者に対して、卑猥な言葉を次々とぶつけている。それも、普通の会話の中で脈絡なく、いきなり卑猥な発言を挟むというのは異常だ。
それでも私には気になることがある。それは、彼のセクハラ発言が相手の女性を口説いているようには見えないことだ。内容が支離滅裂で、まるで卑猥な言葉を覚えたばかりの中学生男子のようである。そう考えると、彼のセクハラ発言は女性記者に対する性的なアプローチではなく、単に相手を困惑させて、スクープにつながる情報を引き出そうとする気を挫くことが目的のようにも取れる。また、彼が女性記者に対して身体的な接触をしたり、無理やり部屋に呼び出したという情報はない。
ひょっとすると、彼は「スケベオヤジ」ではないかもしれない。確かに彼はスケベオヤジなのだが、彼のセクハラ発言は女性記者に対する性的な要求ではない可能性がある、という意味である。しかし、もしそうだとしたら、なぜ彼はあのような発言をしたのだろうか。
福田氏は「思い上がった人間」か?
福田氏はエリートが集まる財務省の中で、事務次官にまで上り詰めた人材だ。彼は「思い上がった人間」で、自分より若い女性記者のことを見下していた可能性がある。だから女性記者に対して、彼女をプロの記者として扱うことなく、飲み屋で接客してくれる女性と同じように扱ったのかもしれない。彼を批判する意見の中には、そういう論調もあった。
しかし、例のセクハラ発言のやり取りでは、明らかに彼の方が幼稚に見える。仮に人を見下すことが目的であれば、そうは見えないように振る舞うはずである。
そう考えると、彼は相手を見下すことを目的としてセクハラに及んだわけではない可能性がある。もしそうなら、なぜそんな行為に及んだのだろうか。結局のところ、彼は救い難いスケベオヤジだったのかもしれない、という話に戻ってしまう。そうした性質は次官就任以前にも分かっていたはずだから、彼を財務事務次官に任命した大臣も悪いということになる。麻生大臣の責任論が出ているのは、そのせいだ。
しかし、ここで思考を止めてしまうと、多くの男性にとって自分には関係のない話になってしまう。しかし、私には他人事には思えない。具体的に双方の思惑をイメージすると、違った構図が見えてくる。
双方の思惑をイメージしてみる
まず、福田氏の立場をイメージしてみる。彼が就業時間後にマスコミ記者に会う理由があるとしたら、それは何か。考えられるのは、次の3つである。
・財務省または自分に都合の良い記事を書いてほしい
・記者だからこそ知りえる貴重な情報をもらえる
・それ以外で個人的なメリットがある(昔なら、金銭や接待?今は・・・?)
一方、30代のマスコミ記者が福田財務事務次官(当時)に会いに行く理由は何だろうか。それも、夜の酒席に2人きりである。想定されるのは、次の3つである。
・スクープにつながる特別な情報を、自分だけに教えてほしい(教えてくれないなら、掴み取りたい)
・彼が持つ豊富な知識や経験から学びたい、人脈などを分けてほしい
・それ以外で個人的なメリットがある(特に思い浮かばないが・・・)
上記を踏まえて、それぞれの思惑を妄想してみる。
■福田氏:自分にとって、若い新聞記者と就業時間後に会う理由は乏しい。その上、記者が所属するメディアは財務省に対して批判的な報道機関である。おそらく、自分に都合のいい記事やニュースを報道することはないだろう。かつ、相手は若くて経験も乏しいので、話していても貴重な情報はもらえないし、知的な刺激も大して得られない。しかし、相手は熱心に話を聞きたがる。単に話を聞くのではなく、スクープを欲しがっている。しかし、自分は何も話したくない。とはいえ、遮断してしまうと何を書かれるのか分からない。
■マスコミ記者(女性):自分が福田氏に会う理由は、森友学園問題に絡んでスクープが取れる可能性があるから。夜2人だけの酒席に行くのは気が引けるが、彼のガードが緩んだタイミングでの失言もあり得る。相手は権力者なので、会っているだけで仕事上のメリットが得られるかもしれない。ただ、困るのは酒が入るとスケベオヤジが全開になることである。上司は無理に福田氏に会う必要はないと言っているが(テレビ朝日の会見より)、もう少し粘ればスクープにつながる情報が得られるかもしれない。
以上はあくまで私の妄想だが、まあまあ妥当な線だろう。ここで気づくのは、福田氏には記者に会うことで得るものが乏しいということだ。
福田氏は記者にとって「スクープを得るための道具や手段」としか見られていないことを理解していたはずだ。もしそうだとしたら、彼の支離滅裂なセクハラ発言は、こうした状況に対する心理的抵抗だと解釈できないだろうか。つまり、「私(福田氏)があなた(記者)に対して特別な情報を与えたとして、君は何をしてくれるのか?一方的に私から何かを奪おうとするなんて、君は私を何だと思っているんだ?」という心理的抵抗である。もし、彼女が福田氏のことを人間的に慕うなど、純粋に会うことを楽しんでくれていたら、彼の心理的抵抗は解除された可能性がある。その可能性を試すために支離滅裂なセクハラ発言を繰り返したのではなかろうか。
福田氏は器が小さい人間だと言えばそれまでだ。しかし、皆さんはどうだろう。相手の求めに応じて一方的に与えるだけの人間関係を、心地よいと思えるだろうか。
損得勘定だけでつながっている人間関係
もちろん、世の中には相手に対して一方的に与えることを厭わない人間関係も存在する。むしろ、それを喜びとすら感じる場合もある。代表的なのは、親子の愛情や友情である。これらの変形として、弟子や後輩・部下に対する愛情(性愛抜きの)というのも存在する。スターウォーズのルーク・スカイウォーカーとオビ・ワン・ケノービの関係のように。しかし、福田氏と女性記者の間には師弟関係的な情や友情が介在することは無かったようだ。
記者は福田氏のことをスクープを得るための手段として使い、福田氏は記者にセクハラ発言を繰り返すことで彼女の人格を傷つけた。互いにどちらが得をするか、損をしないかという関係性にハマってしまったように見える。言うなれば、損得勘定を基盤とした「市場取引的な人間関係」である。
市場における取引では、互いが自分の効用を最大化しようとする。そのために駆け引きや交渉が発生し、時に騙し合いも起こる。交渉や駆け引きで発生する手間のことを、「取引コスト」という。例として、インドのバザールのように、実質的に定価が存在しないマーケットをイメージしてみよう。そこで相手の言いなりになっていたら、騙されて自分が損をしてしまう。騙されることなく、お得な買い物をするには、交渉や駆け引きが必要になる。
取引コストが発生する理由は2つある。ひとつは、取引している当事者の合理性には限界があるため(限定合理性)である。インドのバザールで自分が気に入った帽子を見つけたとしよう。しかし、買い手にはその帽子の原価が分からないので、お値打ち品かどうか分からない。また、他の店でもっと安く売られているかも知れない。あるいは、明日になればもっと安くなっている可能性もある。買い手はこうした情報を全て把握することは不可能であり、完璧な情報処理に基づいて最適な価格を予測することも不可能である。取引コストが発生するもうひとつの理由は、取引の当事者は自分のメリットを最大化するために相手に不利な情報を隠すなどのズルをする(機会主義的行動)ことがあるからである。
記者にとって、福田氏はスクープ情報をこっそり教えてくれるかもしれないし、教えてくれないかもしれない。その可能性は分からない(限定合理性)。さらに、記者が情報を欲しがっていることをエサにして、セクハラ発言を浴びせてくるかもしれない(機会主義的行動)。福田氏にとって、記者はセクハラ発言を受け流しているのか、真剣に怒っているのか分からない(限定合理性)。しかし、自分をスクープの種に利用して財務省を叩き、その実績をもとに出世しようとしているのは間違いない(機会主義的行動)。
市場取引的な人間関係のなれの果て
こうした市場取引的な人間関係の難しいところは、インドのバザールと同じように「定価が存在していない」ことだ。定価どころか、人間関係を取引する市場は存在しないので、価格の相場も存在しない。だから、双方ともに「自分の方が損をしている」と思いやすい。特に、取引のバランスが崩れた時は危険である。そうなると、交渉はヒートアップする。
福田氏の支離滅裂なセクハラ発言は、彼女への要求がヒートアップした結果のように思える。セクハラ発言で相手を困らせ、下世話な会話で楽しませてほしいという要求である。彼はキャリアを通じて勝ち続けており、勝ちへのこだわりが強い人だと思われる。結果的に2人の駆け引きは福田氏の要求ばかりが通り続け、女性記者の側が多くの「心理的負債」を抱えることになってしまった。(私が彼女の傷をあえて「心理的負債」と表現した理由は、彼女は上司の命令でなく福田氏への取材を1年半も続けたから。)
では、彼女が福田氏から負わされた心理的負債はどこで清算すればいいのか。その絶好の機会が、ゴシップ週刊誌への情報提供だったのではなかろうか。
なお、こうした市場取引的な人間関係は、記者とテレビ局の間にも存在していた。
テレビ局は若い女性記者をスクープを取るための手段として使った。なぜなら、若い男性記者には2人で会ってくれないからだ。そして、女性記者は森友学園関連でスクープを得るために、福田氏を手段として利用した。彼女は自分と2人きりの酒席で彼のガードが緩くなるタイミングを狙った。福田氏は女性記者に貴重な情報を渡すことなく、彼女を飲み屋のホステスのように扱った。彼女をストレス発散のはけ口として使ったのだ。市場取引的な人間関係の連鎖である。例えは適切ではないかもしれないが、ビジネスにおけるサプライチェーンのようでもある。
福田前次官のセクハラ問題から、我々は何を学べるか
唐突だが、ここでカントの言葉を紹介しよう。「自分を含む全ての人格が持つ人間性は、常に目的として用い、決して手段としてのみ使用してはいけない」。親子の愛情や友情、仲間との絆はというのは、相手のことを自分と同じように大切にし、決して手段としてのみ使わないところに存在している。
財務省内では福田氏を慕う部下が多かったという。それは、損得勘定を超えた人間関係があったからだろう。しかし、女性記者にはそれができなかった。彼の器の小ささと言えばそれまでだが、相手も最初から自分を利用しようとして来ているわけで、部下と同じようにはいかない。
特に、最近の日本企業は市場取引的な人間関係に陥りやすい傾向がある。その最大の原因は、終身雇用・年功序列的な人事から、脱終身雇用・成果主義的な人事への変化である。なぜなら、成果主義は社内にある限られたパイを、成果を基準に内部で奪い合うからである。終身雇用で年功序列の人事ならは、先輩が後輩に惜しみなくノウハウを教えても損はしなかったが、成果主義的人事の場合、人の良い先輩は損をする可能性がある。ゆえに福田氏と記者のような関係に陥りやすい。昨年、元先輩によるセクハラを告発した人気ブロガー「はあちゅう氏」のケースも、このタイプだと思われる。
世の中から福田氏のようなセクハラを無くしていくためには、福田氏への個人的な批判はあまり効果がない。多くの批判は、彼は「スケベオヤジ」で「思い上がったエリート」だからセクハラ発言をしたというものだ。しかし、そうした批判をすればするほど、世の男性の多くは「自分とは違う」と思ってしまう。これは、世の中にはびこる市場取引的な人間関係が生んだ行動の歪みである。福田氏のセクハラは男性だけでなく女性にとっても、対岸の火事ではないのだ。