前編では、有楽製菓の代表取締役社長であり、グロービス経営大学院の卒業生でもある河合辰信さんに、ブラックサンダーの非王道マーケティングについて伺いました。後編ではファミリービジネスならではの経営の難所やその乗り越え方について、MBAの学びと絡めて伺いました。(文=荻島央江)
家業を継ぐつもりはなかった
田久保:小さい頃から「いつか自分が会社を継ぐ」という意識はありましたか。
河合:私は兄と妹の3人兄弟の次男なので、自分が会社を継ぐとは全く思っていませんでした。そもそも父が「子供は1 人しか入社させない。のちのち争いの原因になりかねないから」とずっと言っていたのです。だから自分は家業には入らないが、何かしらサポートできればいいなと思って育ちました。
大学時代は電子情報工学科で学び、大学院に進んでからは生産管理システムを研究していました。そして2007年4月にシスコに入社し、希望通り製造業担当の部署に配属になりました。製造業の担当を希望したのはいずれ家業のサポートがしたかったからです。
ところがその1カ月後、2007年5月に兄が急死しました。こうなると事情は一変します。「これは自分が継ぐしかないのだろうな」と思い始めました。ただ、いきなり家業に入るのではなく、3年は外で働かないと駄目だと思い、シスコで働き続けました。父も「戻って来い」と言わなかったので。
ただ、兄が亡くなって2年くらい過ぎた頃でしょうか。たまたま実家に帰ったとき、駅まで送って車の中で、父に「そのうち戻ってくるか」と言われたのを覚えています。
田久保:そのときはどんな気持ちでしたか。
河合:複雑でしたね。父は根っからの仕事人間。朝起きたらもういない、夜も一緒にご飯食べる時間には帰って来ない。長い休みにキャンプに連れて行ってもらったことがあるくらい。父と話す時間自体がほとんどなく、ましてや腹を割って話したことなんてない。父の本音のようなものを聞いたのは、そのときが初めて。嬉しいような、不思議なような何とも言えない感覚でしたね。
田久保:お父様は待っていたのかもしれないですね、きっと。
河合:そうですね。あとはいつ戻るか。そんなとき、金融担当のチームに異動するように言われました。自分としては、製造業について学ぶからここにいる意味があると思っていたので、その話が来たときすぐに「じゃあ辞めます。こういう事情があるので」と上司に話したら、「これはきっとお前のタイミングだったのだよ」と言ってくれました。いい上司でした。それから半年後、3年間勤務したシスコを離れ、2010年に有楽製菓に入社しました。
父の通訳になって社員とつなぐ
田久保:入社から8年、今年2月に晴れて社長に就任されたわけですが、この間、お父様からどのように事業を引き継いできたのかを教えてください。
河合:入社して製造現場を8カ月、そのあと商品企画開発を8カ月。その後、マーケティング部を立ち上げました。そのほか人事部の立ち上げや、営業の責任者も少しだけやりました。すべて父の指示です。父としては最低限、経験させたかったところを一通り回らせたようです。
田久保:お父様から具体的にこんなことを言われたとか教わったとかありますか。
河合:会議の場で一緒になることがあって、私も入社してから2年ぐらい経つと言いたいこともあるわけですよ。前職がシスコシステムズで外資系の雰囲気があったせいもあって、商品会議でも役員会議でも「私はこう思う」「ここはこうすべきでしょ」とかわあわあ言いたい放題でした。
会議が終わった後に「ちょっといいか」と父から呼ばれて、「言いすぎだ」「お前、あそこまでやっちゃ駄目だよ」と言われることもありました。
ある会議で、父と経営的な部分でやり合い、ふっと我に返った瞬間にみんながシーンとなって「どうしよう」みたいな顔をしているのを見たときに、「こんなのはもうやめよう」と。それから会議中はできるだけ激しい言動はしないように改めていきました。
言い合うのをやめて、「どうしてこの人はこういう言動をするのか」を考えるようにしたのです。グロービスで学ぶ中で経営者の視点に立てるようになり、「こういうことを言いたいのかな」と対話ができるようになりました。
ただ、社員はそこまで分からない。「はい」と言って、父に言われた通りにやりますけど、「なんでやらなきゃいけないの」「どうしてそんなことを言うの」みたいな。だったら私が父の通訳になろうと。たぶんそれは私にしかできませんから。父の言葉を訳して社員に伝えていくうちに、父の経営者としてのすごさを実感するようになり、尊敬の念が増していきましたね。だから言い合う必要がなくなったというのはありましたね。
田久保:ちなみにグロービスには2015年から通われていますね。何かきっかけがあったのですか。
河合:父は今65歳で、私は35歳です。父は5年以上前から「俺は65歳で引退する」と言っていました。「そうはいっても辞めないよね」と思っていたのですが、徐々に「どうやら父は本気らしい」と感じ、「これは社長になるための準備をしておかないとまずい」と思ったのです。2015年、32歳のときです。
それまであまりちゃんと経営を学んだことがなく、「経営って何?」と考えたときに分からなかった。「経営を体系的に学びたい」というところから行きついたのがグロービスでした。友人の同僚がグロービスに通って大きく成長した、という話も聞いていました。
それでオープンキャンパスに行ってみたら衝撃を受けたというか、面白かった。今までもやもやしていたものがパッとクリアになるような感覚でした。ここで学べばきっと自分が求めているものが得られるなと、電光石火の速さで受講を決めましたね。
あえて社員の前で「社長を譲る」と宣言
田久保:事業承継に関しては、以前から先代であるお父様が「65歳になったら社長を譲る」と公言していて、その言葉通り実行されました。実際、お二人の間ではどんな会話があったのですか。
河合:父は社員には結構言いたいことを言うわりに、家族にはあまり言わない人。だから直接何か言われるというより、会議の場で宣言されることのほうが多かったですね。
田久保:間接話法なのですね。
河合:最初に代替わりの話が出たのは2017年の8月です。「私は今年65歳になる。私は65歳になったら社長を辞め、後継者に引き継ぐ考えだ。時期はまだ決めていないが、この1年以内には社長交代をするからそのつもりで」という話を、役員や幹部が集まる経営会議の席で言われました。結果的に1年を待たず、この話から半年で私が新社長に就任しました。
田久保:「ファミリービジネスだからこそあえてそこもオープンにしたほうがいい」と考えられたのかもしれませんね。承継プロセスの中で、お母様が果たされた役割ってありましたか。
河合:母は完全に家業から切り離されていて、会社に所属していないのですが、父と私の橋渡しのようなことをやってくれていましたね。「もう少し社内にいてくれないと困る」「社員からこういう意見が上がっている」とか、直接言うと角が立つようなことや、言いにくいことを母が父にうまく伝えてくれる。それはとてもありがたかったですね。
継ぐことへの義務感から解放され、覚悟ができた
田久保:スムーズな事業承継ができたのですね。
河合:そうですね。父がそのための環境をつくってくれていたと、今となって感じますね。
父には尊敬の念しかない。11年前、うちの会社の売上高は35億円でした。父が11年前に社長に就任し、売上高を3倍にまで引き上げました。並大抵のことじゃない。本当に様々な変革に取り組み、それが実を結んでいます。商品のこだわりもものすごい。
自分が社長になってみて初めて感じますが、社長業は毎日が戦いです。その戦いのさなかに息子を亡くすというのは相当ハードな出来事だったはず。それを乗り越え、さらに売り上げを伸ばしてきたことに関しては尊敬以外の何ものでもありません。
田久保:グロービスで学んだことの中で何が一番役に立ちましたか。
河合:社長は答えのない世界で、でも決めなきゃいけない。だからこそ自分の中に判断基準を持ちたかった。それがグロービスで学ぼうと思った最大の理由です。いろいろな科目を学ぶ中で、それが持てるようになったことがまず1つ大きいと思っています。
また、「企業家リーダーシップ」のクラスが転機になりましたね。「継がなければいけないから継ぐ」という感覚から、「会社を任されている唯一の立場にいる」と捉え直せたことで、初めてこの家に生まれてよかったと心から思えた。そうしたらおのずと「この会社をこれからどうしていこうか」とものすごく未来が明るく感じた。社長になる前に発想が転換できたからこそ「いつでも社長をやれる」と腹をくくれたと思っています。