3週間の世界一周出張(その5-ニューヨークからフィラデルフィアへ) 

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大西洋を横断して、ニューヨークに着いた。7時間強のフライトであった。バージンエアのフライトは快適であったが、空港に着陸してからは不快なことの連続であった。

先ずは、着陸後の機内アナウンスだ。「米国パスポート・ホールダーのみ、機内 から出て良いが、それ以外は機内に残るように」、と機内アナウンスが流れた。しかし、それに関してはすぐに「必要無い」との訂正アナウンスが入ったのだが、この先が大変だった。飛行機を降りて暫くすると、廊下に長い列ができていた。米国パスポートホールダーのみが先に行く中、外国人は長蛇の列で待たされた。20分ほど廊下で立ったまま待たされ た後に、やっとのことで入国管理局の窓口が見えるところまで誘導された。ゆっくりと蛇行しながら、係員のいる窓口に着くまで計1時間半もかかった。

その窓口では、先ず左人差し指、次に右手の人差し指を差し出し、指紋をとられた上、写真も撮られた。米国以外のパスポートホールダーに対しては、国籍を問わず同じ対応であった。本年6月ごろに日経新聞で、『10月より米国入国者全員から指紋を採取する』、と書いてあったことを思い出した。その時は、「すごい時間もかかるだろうし、指紋とられるのは嫌だな・・・。できたら行きたくないな〜」、と思ったものである。

これは、多くの訪問者が米国を嫌いになってしまう瞬間だな、と思った。正直、可能ならば米国出張の回数を減らしたいと思った。タクシー乗り場でも寒い中30分以上も待たされ、結局午後4時15分に着陸したのに、タクシーに乗ったのが午後6時15分だった。入国手続きに2時間近くもかかったことになる。マンハッタンが見える頃には、薄暗くなっていた。ホテルに着いたのは、7時過ぎだ。さすがに、ちょっとイライラしてきていた。

NYでは、合計4泊の予定である。月曜日に車でフィラデルフィアを往復し、火曜日はコネチカットへ。そして水曜日がニューヨーク市内の投資家訪問で、木曜日にボストンへ移動となる。合計で8社程度の投資家に会い、ウォートン・ビジネス・スクールで講演&採用ディナーをし、ベンチャーキャピタルのパートナーであるアラン・パトリコ フ氏と食事をする、というスケジュールだ。最初の2日間は、車での移動時間が長いので、ちょっとハードである。

1日目の月曜日の朝、起きてすぐに、メールの確認と返信を行う。日本時間の夕方である。出張中であっても業務が滞らないよう、メールにはなるべく早く返信するようにしている。従い、ホテルにいるときは、四六時中パソコンに向かっていることにな る。NYにおいては、夜と早朝が日本の営業時間なので、睡眠の前後は、パソコンに向かう生活である。週末まではこのような生活が続くことになる。

早朝フィラデルフィアに向かった。車で2時間以上かかる。到着後、すぐ投資家とのミーティングを2つこなした。別途時間を見つけて、『投資家の横顔』と称し、守秘義務などに反しない範囲で紹介したいと思う。様々なタイプがあって興味深い。 昼食は時間が無かったので、近くのマクドナルドで済ませた。

投資ミーティングの後に時間があったので、祖父のお墓参りをすることとした。祖父は、フィラデルフィア郊外のメディアにある墓地で安らかに眠っている。祖父の墓石は、大きな木の下に位置しており、迷わずに見つけることが出来た。祖父の墓地に来るのは、今回で3回目である。1回目が1991年の5月であった。このときは墓石を見つけるのにとても苦労した記憶がある。2回目が2000年、そして今回が3回目である。今では容易に場所を見つけることができるようになっていた。

墓石には、墓碑銘として『教育、科学・産業の発展に一生涯を捧げた人がここに眠る』と書かれていた。祖父は、米国のバージニア州のホット・スプリングという土地で、飛行機事故により壮絶な死を遂げていた。祖父の子供達の5人の名前が石に刻まれてい た。父の名前も2番目に刻まれていた。

祖父の人生を振り返ってみた。27歳でケンブリッジ大学工学部に留学して、帰国後20代で北大工学部の教授になった。その後東京に戻り、藤原工業大学学長に就任した。48才の時に、慶応大学と藤原工業大学を合併させて、慶応大学の工学部を創設した。戦後は、通産省の産業構造審議会委員や諸団体の理事長等を経て各種工学系の国際会議の議長を務めた。国際会議に参加するために、米国内移動中のプライベートセスナ機の墜落事故で壮絶な最期を遂げた。僕が9歳のときであった。

祖父の友人達が集い作成した『吾人の任務』というタイトルがついた追悼集を、僕は少し時間が経ってから読み始めた。そこには、祖父が25歳の時に、自らの生き方を定義した『吾人の任務』というエッセイが書かれていた。

そのエッセイを読んで以来、『吾人の任務』という言葉が常に頭の片隅にあった。 ‘自分の任務とは何か?‘を考え続けて、祖父の生きてきた軌跡が書かれた年表と比較しながら、‘負けてはいけない‘と自分をプッシュした。僕が留学を決意したのも、祖父の年表と僕の人生を比較した結果なのだと思う。祖父は、27歳の時にケンブリッジ大学に留学し、僕は同じ年令でハーバードに留学したのであった。そして、自分の生き方を模索すべく、自らの任務を書き上げて、グロービスを立ち上げることとなったのである。その時からの半生は、祖父のエッセイと同じタイトルをつけた拙著『吾人の任務』(東洋経済新報社)に譲ることにしたい。

緑豊かな静かな空間であった。フィラデルフィアに来るたびに、祖父の墓地に立ち寄ることとした。車が静かに墓地をあとにした。そして、フィラデルフィアの市内に向かい、ウォートン・ビジネス・スクールに到着した。そこで、1時間強英語でスピーチをし、その後日本人留学生と食事をした。そして、夜9時過ぎに現地を発ち、ニューヨークのホテルに向かった。ホテルに着いたのは夜の11時を過ぎていた。

この時間、日本は昼過ぎである。ホテルの部屋に戻るなりパソコンを開くと、もう既に50通以上のメールが届いていた。メールに目を通して、必要なメール全てに返信をするのに、2時間近くかかった。ベッドに横になったのは、深夜の1時をゆうに過ぎていた。

2004年10月18日
ニューヨークのホテルにて
堀義人

名言

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