羽生善治棋聖が前人未到の「永世7冠」を達成した。記者会見の場で羽生氏は「伝統的な世界だが盤上はテクノロジーの進化が日進月歩で進んでいる」と語り、安堵というよりも終わりなき戦いを見据えているようにも感じた。
人工知能(AI)の研究者がコンピュータ化の進展により、多くの雇用が失われるという予想を発表し、話題になったことは記憶に新しい。遠くない未来に多くの人々が直面するであろうこの問題に、すでに直面している人々がいる。将棋棋士だ。本書は羽生氏をはじめとした棋士たちが、どう将棋ソフトの進化に向き合っているかを追ったドキュメントである。
10年程前まで将棋ソフトの実力は将棋のプロ棋士には遠く及ばなかった。それがここ数年、急激に強さを増した将棋ソフトとの対局で棋士は苦戦を重ねていた。そして今年、棋士の最高位である名人が将棋ソフトとの対局で敗北を喫し、ついに将棋ソフトが人間を凌駕したのではないかと誰もが考えるようになった。棋士は、将棋が強いからなれる職業である。その職業の源泉をゆるがしかねない事態が起こったのだ。
本書では、羽生氏をはじめとするトップ棋士が将棋ソフトのことをどう思い、どう向き合おうとしているかを語っている。将棋ソフトをまったく無視するような素振りをみせる者、その強さを積極的に自身の強さの向上に活用しようとする者、人間が将棋を指すことの意味を考える者、各棋士が様々な反応を示している。一見淡々と語っているように読めるが、行間から感じる複雑な思いや葛藤は生々しい。果たして自身の職業が同様の状況に直面した時、我々はどのような思いを抱くのだろうか。
このような現象を引き起こした将棋ソフトの進歩は、戦局の形勢判断をする評価関数がAIの進歩により向上したことが大きく影響している。戦局や一手ごとの指し手の善し悪しを高精度で定量的に測定できるようになったことで将棋ソフトが強くなり、将棋界の価値観をも変え始めている。
将棋の形勢判断は、盤上と手元に保有している駒の種類やその配置、玉の守りの堅さ、主導権の有無などから判断するものとされている。これら複数の要素を総合して解釈するところに棋士の能力や経験が現れ、棋士の個性や強さが発揮される部分でもあった。
将棋ソフトに「全幅探索」と「機械学習」という技術が導入されたことで、戦局を定量的に測定し、評価する能力が飛躍的に向上した。戦局を正確に認識できるようになったことで、戦局を良くする指し手を的確に選択できるようになったのである。
さらには、戦局の認識が変わったことで既存のセオリーに反するような指し手を繰り出し、これまで最善とされてきた指し手が見直される契機にもなっている。戦局を測定できるようになったことで、将棋界の先人が積み重ねてきた知恵が覆され、従来の価値観が変わろうとしているのである。
「測定できないものは管理できない」と言われるように、事業活動の測定はマネジメントにおいて欠かすことのできない行為である。高度なセンシングやIoT(Internet of Things)などテクノロジーの進化により、事業活動でも様々なものが測定されるようになることが予想されている。測定できるようになることで、人間の認識や意識が変わり、行動が変わる。将棋の世界で起こっている変化は、ビジネスの世界でも起こりうる変化であろう。
これまでの将棋界の動きを通して、今後の我々の生き方を考えるきっかけとなる1冊である。
『不屈の棋士』
大川 慎太郎 (著)
講談社現代新書
907円