「ブリッツ・スケーリング」の「ブリッツ(blitz)」は「電撃戦」。すなわち米ハイテク企業群GAFAM等が成し遂げたような、圧倒的な成長に到達するための戦略と心構えを意味します。従来の伝統的で常識的な戦略とは異なり、電撃的なスピードかつ指数関数的な成長を実現している企業が取る戦略に注目が集まっています。
米国企業のようなブリッツ・スケーリング を実現した日本企業はまだ誕生していませんが、2018年に書籍『BLITZ SCALING』 が出版され、その方法論が明らかになったことで、日本のビジネス界にも大きな変化が出てきました。ブリッツ・スケーリングの手法を活用し、さらに自社流にアレンジし、電撃的な事業成長、その結果としての高い企業価値を実現している日本のスタートアップ企業が次々と現れるようになったのです。
その代表格の一つが、クラウド人事労務ソフトを展開するSmartHR(東京都港区)です。同社は2013年の創業以来、8年あまりで事業を急拡大させ、今やユニコーン(評価額が10億㌦以上の未上場スタートアップ企業)の1社に数えられるようになりました。
ブリッツ・スケーリングの実現に向け、同社はどのようなビジネスモデルを設計し、組織を構築してきた のでしょうか。具体的な取り組みと今後の方針について、倉橋隆文・取締役COO(最高執行責任者、以下敬称略)にお話を伺いました。
(聞き手:グロービス経営大学院教員 井上陽介 仲川顕太 全2回の前編 後編はこちら)
「TAM」着眼点の秀逸さ
──倉橋さんはマッキンゼー&カンパニー、楽天を経て2017年にSmartHRに入社されましたが、初めに、入社に至るまでの経緯について教えていただけますでしょうか。
倉橋:元々スタートアップに興味があったのですが、楽天在籍時に新規事業を担当した最後の半年間が非常に楽しく、スタートアップの世界に移ることを決めました。
事業とカルチャーが魅力的だったことが、SmartHRを選んだ理由です。入社当時の事業は社会保険手続きを効率化するサービスが中心だったのですが、日本企業にとって法的義務のある業務を対象としたもので、多くの企業の利用の可能性が見えました。また、周辺の人事・労務まで考えるとTAM(獲得可能な市場規模)が非常に広く成長余地があると考えました。
副産物として企業の従業員に関するデータが蓄積・更新されていくというのも、いずれ財産になるだろうと感じました。実際に、こうしたデータを活用し、今ではタレントマネジメント領域にも進出しています。
ひとつの目標の実現可能性が見えた段階で、すぐに次のステージを目指そうとするカルチャーも根付いています。「ユニコーンを目指そう」という目標の達成が見えてきたら、次は「社会インフラとなってインパクトを世の中に与えよう」という、日本のデファクトスタンダードを目指すための議論が社内で増えるようになりました。
──前CEO(最高経営責任者)の宮田昇始さん(現・取締役ファウンダー)は、日本のマーケットの規模は結構な大きさであると言及しています。一方で、SmartHRは海外展開という目線も、徐々に出てくるフェーズだと思います。
倉橋:現状はまだ日本に主眼を置いています。SmartHRのサービスに登録している従業員のデータ数は国内市場全体の1~3%程度にとどまっています。そして、国内の人事・労務の市場規模はとても大きいマーケットです。
海外のHRマーケットを調べてみると、ローカルキングが各地に存在する傾向があります。各国の法制度にあわせて事業展開をする必要があるためです。もちろん、Workdayが手掛けるグローバル企業向けのタレントマネジメントシステムのようなプロダクトは存在しますが、人事・労務の領域は各国の市場特性や法整備に沿ったサービスでなければ顧客に価値を提供しにくいのも確かです。海外企業との競争にはあまりさらされない一方、海外にも進出しにくい。そんな状況となっています。
グローバル展開をする当社の顧客企業と一緒に、海外にうまく出られないか、といった道は模索していますが、現時点ではあまり海外に投資する予定はありません。基本的には、大きな市場規模があり、市場特性をよく理解している日本市場に注力していこうと考えています。ただし5年後にはまた変わっているかもしれません。
■解説:ブリッツ・スケーリングを実現する企業は、市場選定の目が極めて秀逸です。書籍『BLITZ SCALING』でも「スタートアップを巨大企業に成長させたいという野心があるなら、小さすぎる市場にかかずらわないようにしないといけない」とあるように、規模の大きい市場であり、かつ、その市場でNo.1になり得る市場を特定しなければなりません。 SmartHRの場合は、国内だけでも非常に大きな規模がある人事・労務市場でクラウドサービスで圧倒的なNo.1になる、という選択をしてきています。どのような山を登ろうと定義するか、ブリッツ・スケーリングを実現するためにはシャープな選球眼が求められます。
オープンの方がかっこいい。「ネットワーク効果」を生み出すアプローチ
──事業を展開するうえで、参考になさっている海外企業を数社挙げると、どのような企業がありますか?
倉橋:WorkdayはHRテック業界のナンバーワンなので、当然ながらその動向は注視しています。あとは、やはりセールスフォース・ドットコムです。あの企業規模で、なお30%前後、売上高を成長させているということ自体が、驚異的です。
SaaS(ソフトウエア・アズ・ア・サービス)型企業のあり方として、オープンなプラットフォームとなっています。どこでも(データを外部と接続する)API連携ができたり、アプリケーションが作れたりでき、BtoB SaaSとしてネットワーク効果を生み出している。こうした点は、かなり参考にさせていただいています。
また(社内SNSの)Chatterに投資をしてきたうえで、(同じく社内SNSを展開する)Slackを買うというような、買収戦略にもブリッツ・スケーリングらしさを感じます。当社はM&Aの実績はあまりありませんが、絶対に必要な部分には過剰にも見える投資をするという、あのワイルドな意思決定は、見習っていかなければいけないところだと考えています。
──SmartHRの事業の方向性から、プラットフォームという言葉は当然出てくるものだろうと思いますが、プラットフォーム化するために必ず内部で持たなければならない部分はどういうところだと考えていますか。
倉橋:マイナンバーなど重要な情報を扱っていることもあり、やはりセキュリティです。逆に言えば、セキュリティ以外はオープンにしたいと思っています。当社がAPIで連携している企業には別のSaaS企業もあり、事業が重複するところも結構ありますが、この発想は大事にしています。エンドユーザーにとっては、全く接続していない2つのシステムからどちらかを選ばなければいけない環境より、連携した2つのシステムから機能を「いいとこ取り」できる環境のほうが望ましいはずです。囲い込み戦略は絶対にしないでおこうと思っています。
──なるほど。外部とのAPI連携を強化し、つながることで価値を生み出そうとしているわけですね。では、ネットワーク効果を最大化させるための方策についてはいかがですか?
倉橋:BtoBの業態や、SaaS事業は、ネットワーク効果がそこまでは効きやすいものではないとは理解しています。それでもセールスフォース・ドットコムは、ありとあらゆるシステムとつながっています。「オープンのほうが格好いい」という価値観こそ、ネットワーク効果を育むことにつながるのだろうと思います。
当社に対しては「給与計算や勤怠管理のシステムはやらないのか」といった声が常にありますが、予定していません。自社の得意な部分を磨きこみ、他社が得意なところとあわせて使っていただく。顧客の利便性を高めるために、API連携などを進めていく。一方で、自社のプロダクトの機能はしっかりと磨き上げていくという戦略です。
■解説:指数関数的な成長を実現するブリッツ・スケーリングを研究してきた起業家・投資家でもあるリード・ホフマン氏は、「様々な種類のネットワーク効果を研究し、ビジネスモデルに合わせた設計こそがブリッツ・スケーリングを生む」と言います。SmartHRも自社に最適なネットワーク効果を生み出す方法を研究し、多様なプロダクトとつながるプロダクトに多くのユーザーが集まるという原則を「外部サービスとのAPI連携数の拡大」によって実現しようと試みています。
資金調達での「直感に反する法則」
──ブリッツ・スケーリングを実現する組織は、スピードや成長を最優先にするために、ある意味これまでの伝統的なマネジメント手法を超越し、直感に反する方法論を取ると言われています。SmartHRが大切にしている「直感に反する法則」は何でしょうか?
倉橋:「スケールしないことをしよう」と「資金を有り余るほど調達せよ」が該当するのではないかと思います。前者については、当社も最初からスケールを考えて巨大な建物をつくるのではなく、木でとりあえず組み立てて、上手く言ったら木造から鉄筋に変え、さらによくなったら巨大な建物にするというイメージで事業を展開しています。「とりあえずやってみよう」という感覚は、進化を続けるために絶対必要です。
後者の資金調達に関しては、当社の場合、創業者の株式の希薄化は発生しましたが、それでもやっておいてよかったと考えています。
──海外のベンチャーキャピタルからの資金調達も、ある意味でSmartHRが先鞭をつけたアプローチのひとつだと思います。
倉橋:当社が資金調達をした3年ほど前、SaaS企業に対するバリュエーションの考え方は日米間でかなりの隔たりがありました。当社が「これぐらいの企業価値がある」と考えていても、日本の投資家は「でも赤字でしょう」とみていました。ところが海外の投資家は「むしろもっと資金を調達すべきだ」というスタンスです。米国の投資家はブリッツ・スケーリングに対する考え方が先行していた印象があります。
日本の投資家も最近になって、早期の黒字化にはこだわらない傾向が少しずつ出てきました。海外の投資家との競争環境が激化する中で、今後もスタンスは変化し続けるのではないかと思っています。
ヒト・モノ・カネの観点で言うと、ヒトは今後、何十年にわたって希少な存在になっていくので、ヒトがボトルネックになるのは仕方がありません。逆にそれ以外の要素がボトルネックになるのは非常にもったいない状況です。ヒト以外のボトルネックを極力排除し、ヒトが最大限チャレンジする状態をキープするのが、今後の日本企業にとっては非常に大事なことではないでしょうか。そのためにも大きな資金調達をすることで、成長へのボトルネックは極小化できていると感じています。
■解説:ブリッツ・スケーリングを実現している企業は常により多くの資金を調達しています。たとえ、起業家の会社持ち分 が希薄化したとしても、SmartHRのように成長への投資のために、また、不測の事態に対応するために、大きな調達をしています。昨今は、海外ベンチャーキャピタルが日本のスタートアップに出資をするケースや、ブリッツ・スケーリングの手法を理解した日本のベンチャーキャピタルによる大型の投資案件も増えてきている中で、より多くの資金調達が日本国内で可能となるはずです。
ここまでお話をいただいたように、ビジネスモデルの設計において、TAMの捉え方の秀逸さ、ネットワーク効果を働かせる戦略、そして、実行するための大型の資金調達と、ブリッツ・スケーリングを実現する上で重要な要素をしっかりと押さえながら成長してきていることがわかります。
後編では、そのビジネスモデルを実行する上でどのような組織マネジメントを行っているか、明らかにしていきます。