米国大統領選で一気に注目ワードとなった「偽ニュース」。日本でも悪質なキュレーションサイトの存在が明るみに出るなど、ネット上の情報の質に対する危機感が高まっている。本書は、「不確かな情報」「非科学的な情報」「デマ」といった偽ニュースが生み出される構造と、それらの構造がTV、新聞などの伝統的メディア企業とネット企業の虎視眈眈の駆け引きのなかで形成されてきた経緯を活写している。
実は本書を読むまで、筆者にとって「偽ニュース」は対岸の火事だった。筆者はグロービスでマーケティングの研究や業務に関わっており、主な仕事はコンテンツマーケティングだ。だからこそ、ユーザや社会への迷惑を顧みないでサイトアクセス獲得を追求する記事や、反社会的な偽ニュースは「あり得ない」。個人としても、会社としても無縁であると信じていた。
ところが本書が示すのは、自分とは関係ないはずの「偽ニュース」にすでに取り囲まれている現実である。2つの意味で、ほとんどの人が「偽ニュース」とは無縁でいられない。まずは、いちユーザとして「偽ニュース」の拡散に加担してしまうリスクである。著者の言葉を借りれば、「玉石混交のネットニュースの世界で、個人がリテラシーを向上させても記事の真偽を見分けることが難しい」状況になっている。それはニュースの流通の方法が変わったためだ。
私たちはある記事を信頼できると判断するときに、発信元や参照元、筆者の経歴といった付帯情報を1つの拠り所にする。メディアが運営するサイトやアプリ、あるいは運営方針を開示しているプラットフォームが配信する情報は、その構造自体が真偽性の判断を助けてくれる。
ところが、フェイスブックなどのソーシャルメディアを介して紹介されるニュース(バイラルメディア)が台頭すると、記事は発信元と切り離されて流通する。もはやどういう人が発信したかよく分からない。偽ニュースに感銘を受けているかもしれないし、うっかりそれをシェアしてしまうかもしれない構造の中に私たちは置かれている。
もう1つの意味は、偽ニュースに象徴される記事配信の構造変化が、人々の思考や行動に与える影響である。筆者はニューヨーク大大学院の「メディア・エコロジー・プログラム」で「メディアはいわば生態系で、そのあり方は人々の思考や行動に影響を与える」という視点を学んだ。その視点から記事配信の構造変化の影響を考えてみよう。今の構造下では、我々は誰がどのような意図で発信しているかよく分からない情報にさらされ続ける。結果、我々の思考への影響としてこんな方向が考えられないだろうか。
・生活や社会的に問題ない(と思われる)範囲では、デタラメ記事に慣れっこになる
・むしろ娯楽としてならデタラメ情報でも構わないと思う
・信頼するのは、編集されていないユーザの声やデータ(のみ)に絞る
一部はすでに現実化しているが、このような消費者の変化は企業の広報・マーケティングの変質を迫らずにはいられない。「炎上防止」といった目先のリスク対策もだが、中長期的な消費者とのコミュニケーションも変わってくるはずだ。消費者の囲い込みや一社総取りといった緊張感あふれる市場環境のなかで、「偽ニュース」すれすれの魅惑的な手段をどう捉えるか。広報・マーケティング担当者のみならず、経営者の姿勢をも問われているのだ。
現状の「偽ニュース」に話を戻すと、すでに事態を改善すべく、ニュースサイトや検索エンジン、広告主が偽ニュースの駆逐と違法コピーなどの遵法化に向けて動き始めていると著者はいう。その動きに期待したい。しかし、偽ニュースが駆逐されても、情報環境の構造的な変化は元に戻りはしない。我々一人ひとりが当事者として、この変化の波の一部であることを自覚しつつ、膨大な情報に対
『ネットメディア覇権戦争 偽ニュースはなぜ生まれたか』
藤代裕之(著)
光文社
800円(税込864円)