「パターン認識」は、ビジネスを理解する上でひとつの重要なアプローチです。たとえばコスト構造や業界での戦い方を見極めた上で、「このビジネスは典型的な分散型である」という判断をする、といったようなイメージです。私たちを取り巻く業界、企業の数は数えきれないくらい存在します。その1つ1つを理解するのは不可能。だからこそ、ある断面を切り取って、そこからどのパターンに該当するか考えることは、ビジネスの本質を理解するための時間を大幅にショートカットしてくれます。
しかし、その対象が「ビジネス」ではなく、「人」になると、どうなるでしょうか?
以前、とある企業の人材配置・異動の意思決定の現場に携わったときのこと。部長がおもむろにタテヨコ2パターンずつ、合計4つのマトリクスをホワイトボードに描き、そのマトリクスに部下たちをプロットして、妙にすっきりとした顔をしていたことを思い出します。「この象限の中にある奴らは泥臭い仕事ができてリーダーシップがある。こいつらをチームに一人は配置しなくてはならん」。確かそのようなことを語っていました。その時に私が感じた違和感は、「人をパターン認識することの怖さ」について、その部長がまったく認識していなかったということです。
この部長のように、人の傾向をカテゴリー分けしてパターンとして認識することは不可能ではありませんし、時間をショートカットする効果があることは事実でしょう。限られた時間の中で人を判断しなくてはならない時には、「パターン認識」の技術は大いに生かすべきでしょう。
しかし、それと同時に人をカテゴリー分けするという危険性も意識しなくてはなりません。言うまでもなく、パターン認識の危険性とは「過去の」「一部分の」情報から解釈されたことである、ということです。将来の行動を約束するものでもありませんし、当人が置かれた複雑な環境を踏まえて考えられたものでもありません。
しかも厄介なことに、一度認識した「パターン」、別の言い方をすれば「レッテル」はなかなかはがすことができません。そのレッテルに当てはまらない行動をいくらしても、一度認識されたレッテルに関係する情報しか拾われない。一度レッテルを貼ってしまうと無意識のうちにさらにそのレッテルを強化する思考が働いてしまうという「バイアス」の存在は忘れてはならないと思います。
さらに、こういうレッテル貼りは、それ以上その人に対する興味・好奇心を失ってしまうことを引き起こします。「泥臭い仕事ができずリーダーシップがない」というレッテルを貼ってしまえば、それでその人に対する考察は終了。整理ができた本人はすっきりするかもしれませんが、それ以上その本人に対する興味関心が深まることはありません。
自分自身が置かれている状況を考えれば分かると思いますが、所詮他人から見えている「自分」というのは極めて断片的であり、本来はもっと奥深く複雑なものがあるはずです。「誰も自分のことを分かってくれない」という嘆きと同じく、「自分も他人のことを分かっていない」のです。
つまり、「他人に対する理解というのはいつまで経っても深まらないもの」というのが真実なのではないでしょうか。部下を見て、理解不能と見える行動でも、自分が部下とまったく同じ状況に置かれたら同じ行動をしてしまうかもしれないのです。その前提に立ち、極力「レッテル貼り」という思考停止は避け、絶えず興味関心を持ち続けること。仮に人をカテゴリー分けしなくてはならない場面が来た場合は、常に「レッテル貼り」の危険性を意識し、「すっきりとはしない」こと。こんなことを意識するだけでも、少しは人として成長できるように考えます。
※本記事は、FM FUKUOKAの「BBIQモーニングビジネススクール」で放送された内容を、GLOBIS知見録用に再構成したものです。音声ファイルはこちら>>
イラスト:荒木博行
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