ある著名ジャーナリストが残した言葉に「どんな複雑な問題にも、その解決策として出されるものには必ず、明快で単純だが、間違ったものがある」というものがある。
私自身、経営陣の一員になって以来、M&Aや新規事業の創造、あるいは組織改編、不採算事業の閉鎖や不採算契約の見直し、さらには人員削減を実行してきて、この言葉の重さを実感しなかったことはない。
特に外資系企業の日本支社や外資系ファンドの支配下における経営の場合、本国によるトップダウンの方向性に従うことが強く求められる場合がある。現場の実態に合わせた修正を進めようとすれば「抵抗勢力」のレッテルを貼られかねない。だから、無理に単純化された施策を打ち、経営のバランスが失われることが起きてしまう。
しかしながら経営とは、複雑に入り組んだ外部環境や競合の動き、社内の状況を慎重に整理して把握しつつ、短期的だけではなく長期的、対症療法でもあり根本治療ともなる施策を、多面的視点から組み立てていくものだ。私はそうしたことを、沢山の失敗経験から学んできた。
さて、本書は後藤田正晴氏の生き様を通じて、複雑な環境下にあるリーダーがどのような視点で意思決定をしていったのかを疑似体験できる一冊である。
後藤田氏は戦後復興期の警察官僚、そして高度成長を支えた与党政治家である。「カミソリ後藤田」とも呼ばれ、強面で切れ者、昭和の政治家といった印象が強いが、非常に慎重かつ思慮深く重要政策を設計し、戦後日本の復興と安定を築いてきた。以下に二つの例を紹介したい。
まず、権力を強権的に行使することに対して一貫して意識的に禁欲的・警戒的であった。
例えば、終戦直後の警察の再編に当たっては、戦後の混乱期において警察力を強めていく必要があった一方で、戦前の過度に中央集権的な警察権力や国家権力の執行に対する反省に基づき、警察の人事権は国家公安委員会に持たせつつも、その国家公安委員会には個々の事件に対する指揮監督権がない形に設計したのだ。 また、自治体ごとに警察を編成させ、分権化された組織運営を取り入れている。本書ではこうした組織設計のいきさつや、導入に際し見られた各種の抵抗を後藤田氏がどのように排除したかまで、事細かに紹介している。
また、人間の本質を理解した上で慎重に施策を導入していた。
例えば、安保改定時の学園紛争に際し警察側の責任者であった後藤田氏は、「罰則さえ強化すれば事件が減る」という考えは基本的に間違いであると主張する。そして「確信犯にはいくら罰則を強化しても反って確信が強くなるだけで逆効果になる。管理するのに必要最小限の罰則をつけて、あとは管理権者の権限をある程度強化するべき」という方針決定を下す。そして当時若手気鋭の政治家による強硬措置導入要請に対しては「“素人”は、罰則をむやみに強化したがる」とこれを却下している。
この結果、安保改定を巡る国内の混乱は、暴力的解決を好まない国民の声を反映して急速に鎮静化していったのだ。
近年のメディアは、即効性のある経営判断(大型リストラ)を行う高給取りの経営者や、前任者を真っ向から否定して振り子を振り切ったような単純な施策を打ち上げようとする経営者や政治家を取り上げては、こうした人々を“強いリーダー”あるいは“変革の担い手”として持ち上げ、礼賛するようなことが少なくない。
しかし真の経営とは、そのようなものではないということに、この本は気付かせてくれる。1998年刊の書籍だが、今なお日本における真のリーダーシップについて私達に考えさせてくれる一冊である。
『情と理―カミソリ後藤田回顧録〈上〉』※単行本の内容に加筆・修正を加えて2006年に文庫本化
後藤田正晴(著)
講談社
1026円