「2011年春に日経新聞で取材を受けた「こころの玉手箱」シリーズについて、このたびブログ掲載の許諾を得たので、まとめてアップすることにしました。」
オルガン、習字、コーラス、英語。小学校時代はすべてのおけいこ事に失敗した。男ばかり5人の子どもたちには内緒にしたいが、2日以上、続いたものはない。腕白坊主で「うるさすぎる」と出入り禁止になったこともある。
原子力関係の研究者であった父の勤務先が茨城県の東海村から大洗町に変わり、中学校に上がる直前、水戸市に引っ越した。そこで初めて打ち込めるものに出合った。水泳だ。
東海村に住んでいたころ、原子力発電関係の余熱を使った温水プールに母によく連れていかれたが、とびきり速いわけではなかった。兄から、「水泳ならレギュラーになれるぞ」と言われたのがきっかけだ。
水戸市立第二中学校の水泳部に入ったものの、いい記録は出なかった。1年生の9月にスイミングクラブに入り、記録が飛躍的に伸びた。種目は平泳ぎ。2年生で全国大会に出場できるまでになった。3年生のある大会で、同じ水泳部の1年後輩に200メートルで負けた。水泳人生で一番、悔しかったことだ。おかげで奮起できた。茨城県の50、100、200メートル平泳ぎの中学記録をすべて塗り替えた。
県立水戸第一高校に進んだ時、高校時代の3つの目標を立てた。留学する、東大か京大に合格する、もう1つが水泳の全国大会6位入賞だ。
高校に入って、平泳ぎから個人メドレーに種目を切り替えた。ゲームが複雑になれば戦略の重要性が高まり、立案、実行する面白みも増える。バタフライ、背泳ぎをゆったり大きく泳いで体力を温存。得意の平泳ぎで抜き去り、クロールで逃げきる作戦だ。
1年生の時から国体の選抜メンバーに選ばれ、合宿期間は1日で20キロメートル泳いだ。毎日、水泳日誌をつけ、大会ごとに具体的な目標を立て、本番に向けて細かな調整を重ねた。その年の青森国体400メートル・個人メドレーで6位入賞を果たした。達成感があった。
今も泳いでおり、年齢別の日本マスターズ水泳選手権大会には7年連続で出場した。走るより泳ぐほうが楽だ。歩いている時も、歩道がプールならいいのにと思うことがある。
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