「2011年春に日経新聞で取材を受けた「こころの玉手箱」シリーズについて、このたびブログ掲載の許諾を得たので、まとめてアップすることにしました。」
9歳のある秋の朝、起きると母が泣いていた。理由を聞くと、「おじいちゃんが飛行機事故で死んだ」。
父方の祖父、堀義路は東京帝国大学の応用化学科を出た後、慶応義塾大学理工学部の前身である藤原工業大学の教授となった。戦後は電力中央研究所理事や通商産業省の産業構造審議会委員などを務め、1971年、出張先の米国で小型ジェット機が墜落、逝った。
東京都港区の青山葬儀所に集まった人の多さにはびっくりした。祖父の友人らが祖父の遺稿・追悼集をまとめた。書名の「吾人の任務」は祖父が25歳のころに書いたエッセーの題名からとられていた。
天才科学者ポアンカレの「科学の価値」から言葉を引用した祖父のエッセーは、小学生の僕には意味不明だった。今、読んでも難解な文章だが、祖父は20代半ばから自分の使命を明確に意識し、その後の人生を歩んでいた。
でも、僕の「任務」はなかなか見つからなかった。母方の祖父の真鍋梅一は愛媛県議を5期務めた四国の政治家。その影響なのか、高校時代には東大法学部入学と政治家への関心もあった。しかし、国語の成績がなかなか上がらず、3年生の秋に理科系に転じた。姉から「東大はダサい」と言われて、京大工学部へ。父方の流れである研究者を目指したわけだが、実験が全然、性にあわない。この道も結局、断念した。
高校時代にオーストラリアに1年間留学したこともあって、「世界を駆ける商社マンになろう」と思い、住友商事に就職した。そして祖父が英ケンブリッジ大学に留学したのと同じ27歳で、米ハーバード大ビジネス・スクール(HBS)に入学した。偶然ではない。遺稿集の巻末にあった祖父の長い年譜。彼の生きた道のりと比較しながら、「負けてはいけない」と言い聞かせてきたからだ。
企業家として社会に価値を創造し、様々なリーダーの英知を集めて社会変革に貢献する――。僕の任務だ。生きる道を固め始めたのはHBS修了の直前だった。40歳の時に執筆した自著は、出版社の反対を押し切り、祖父の遺稿集と同じタイトルにした。
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