(7月15日と8月3日と二度程福島県を訪問した(一回目は宮城県南部も訪問)。その時の模様をツイッターで記録したので、加筆修正してコラムとしてお届けします)。
<7月15日>
今から福島に向けて出発!! 東京駅から東北新幹線に乗り、福島駅で下車。レンタカーして、飯館村の仮村役場がある福島市飯野に向かう。
飯舘村長と福島市飯野で面談。素晴らしい人格者だ。「強制的な全村避難は本当に必要だったのだろうか。政府の保身にしか思えない。補償が増える方向に政策をしている。一番重要なのはコミュニティの絆だ」。全村強制避難により、コミュニティが崩壊しかねない危機を、一所懸命に束ねている苦労が垣間見ることができた。僅かばかりの寄付をさせて頂き、飯舘村に向かった。
峠を越えて飯舘村へ。緑の木々に初夏の光が映える。飯舘村に入る。農家の人が働いている姿が見えるが、家はカーテンがかかっていて人気を感じない。一方、車の往来は多い。空き巣が心配だ。
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飯舘村にある「放射性物質除去技術実証園」を視察。ひまわりを使ってセシウム等を吸い上げる方法だ。種まきに農林水産大臣が来たと言う。天気が良く、緑豊かで自然が美しい。
シャッターが閉まっているコメリとコープ(生協)を過ぎて、飯舘村役場の横にある特別養護ホームに到着。ここは避難をしていない。駐車場には車が多く止まっており、中で事務員が働いていた。「お疲れ様」と声をかけようと思ったが、不審者と間違われるかもしれないので遠慮し、心の中で呟くことにした。
八木沢峠を越えて、南相馬市原町に入った。原発から30km圏内だ。地元のポプラと言う洋食屋へ。南相馬出身の美人社員と一緒にランチだ。周りには、子供の姿もあり平穏な日常があった。今から南相馬市長とアポだ。
南相馬市役所で桜井市長と面談した。心暖まる優しいお父さんという印象だ。「早く学校を再開したいが、政府の方針がはっきりしなくて困っている」、と。南相馬市長も飯館村長も口ぐちに仰るのが、「校庭での放射線被曝量年間上限20mSv」と言う基準が出され、そのあと内閣参与が辞任にあたり「1mSvにしないとダメだ」と泣いて訴えてから、雰囲気が変わったと。1mSvは自然界に普通にあるある数値だ。その発言から、福島県民が、放射線を強く意識することになった。僅かばかりのお見舞金をコミットして、桜井市長に別れを告げた。
国道6号を南下して、原発から20km圏との境に到達。警察官らしき人が、道を封鎖していた。これから海岸線を北上し、津波の影響を視察する予定。
今南相馬市原町区の海岸沿い。平野部に建物が見えず、瓦礫の山と化してる。桜井市長が言う、前代未聞の地震、津波、放射線の複合被災。南相馬市で600人強の津波による犠牲者だ。サーフィンの世界大会が開かれていた北泉の海岸をのぞむ。砂浜が消滅していた。近くに原町の火力発電所。炎上したタンクが見えた。
海にあるはずのテトラポットが農地に散乱し、電信柱が無造作になぎ倒されてた。その横に新しい電柱が整然と並んでいる。福島の津波災害は僕の予想を越えていた。原発ばかりに関心を寄せるのではなく、実際に死者を出し、家屋を壊滅させた津波被害にも目を向けるべきではないか。
松川浦、家が沈み、船がひっくり返り、マイクロバスが浮いていた。尾浜、住宅街が消滅していた。今から宮城県に入る。
山元町齋藤町長と面談。地震のためクーラーが効かずヒビの入った町役場で、汗だくになりながら今後の復興計画を語った。「町は予算がなく、県もお金がない。だがアイデアはある。国は予算はつけられるが、ビジョンがない。従い復興が遅々として進まない」。50分ほど意見交換した後に僅かの寄付をして、被災地視察へ向かった。
高台から平地に降りた。レールの痕跡がない踏切を渡り、跡形もなくなった坂元駅前で立ち止まる。辺りは真っ平で住居、商店街、駅舎を含め、全て流されていた。見えるのは集められて積もりに積もった瓦礫の山のみ。「津波というと三陸に目が行き、宮城県南は注目されない。震災後連絡を取れるまで、3日かかった」、と山元町長。
山元町出身のグロービスのMBA生が音頭をとり、グロービスの学生が数十人ボランティアで山元町に入り、瓦礫処理したり、町長や地元の名士達と復興に関して意見交換したりしてきた。翌日からも再度来る予定らしい。町長が東京にお越しの際には、グロービスで復興をテーマにしたスピーチを頂けるとコミットをもらった。
「夏は涼しく、冬は暖かい。(山元町は)東北の湘南と呼ばれていた」、と町長。ビーチに行ってみたら、テトラポットが砂に埋まり、海の水面からは瓦礫が顔を出していた。松の木も本数が僅かで、津波により新な水路が出来ていた。元の美しい砂浜に戻るには、どれくらいの時間がかかるのだろう。
仙台空港を通過して、仙台市内へ。車線が広がり、高層ビルも増えて、仙台がとても都会に感じる。今新幹線で福島市に向かう最中。本日は、福島泊だ。
その晩は、福島市で昔からの友人と再会し、深夜まで飲み明かす。繁華街は、思ったよりも人通りが多く、明るかった。僕は、地元のクラブに向かった。女性が、素朴で美しく、元気だ。しかも、料金は東京の1/3で、お得だ。気に入ったので、また来ることにした。
翌朝。ちょっと二日酔いだが、福島駅より帰路に着く。「マックスやまびこ」と「つばさ」が、福島駅で結合する。子供の様にワクワクしながら眺める。ドッキング!
福島より帰宅後、一休みしてから、4男と5男を囲碁教室に連れて行き、その後プールで一泳ぎした。夕方には近所の靖国神社のみたままつりに出向いた。靖国神社を参拝した後に、出店を物色する。子供達がスーパーボールすくいをしている間に、僕は往来する人々をチェック。浴衣姿の女性が可愛らしかった。
<8月3日>
これから福島だ。靖国神社の緑が美しい。窓を開けて、蝉の声を楽しむ。早めに自宅を出て、上野で空海と密教美術展を楽しむ予定。
福島に向かう東北新幹線の中。震災後、毎週のように東北に向かっている気がする。
福島市で、福島県立医大を訪問し、放射線分野の専門医師と意見交換した。とても学びが多かった。僕の理解が更に強化された気がする。「福島第一原発事故の影響で、放射線に起因した死者は、恐らく一人も出ないでしょう」との見解を頂いた。海外の専門家と基本的に同じ認識だ。
飯館村避難者の仮設住宅を2カ所訪問した。工業団地に造られた仮設住宅で老夫婦の住居にお邪魔して、お話を伺った。また、廃校となった小学校跡の仮設住宅では、5人のお子さんとお父様と談笑した。僕も、子供が5人いるので、話が弾んだ。子供を思う親の気持ちは、どこにいても通じ合うものがあると実感した。
KIBOW福島の会場に向かい、設営準備する。50名近くが集まる予定だ。会場が思ったよりも狭く、入りきるかが心配だ。水戸、いわき、仙台、盛岡、八戸と北上したKIBOWが、福島にいよいよ到達。飯館村長もお越しになる。前向きに復興、福島の未来を語り合いたい。
KIBOW 福島始まる!! 僕の挨拶の後、田嶋要経産大臣政務官の挨拶を頂く。会場は、びっしりと埋まっている。今までのKIBOWの中で最も物理的に密度が濃い。「前向きに福島・日本の復興・未来を語ろう」が今回のテーマだ。「皆、明るい未来をと願っている。知恵を出し合おう」と田嶋氏。
KIBOW福島には、サキコーポレーション秋山咲恵さん、コモンズ投信の伊井哲朗さん等東京からも参加。盛岡、そして遠くは、ボストンからも参加者がいる。グロービスのMBA生の福島出身者2名とグロービス社内の福島出身者3名が手伝っている。
グループディスカッションの後に、参加者からスピーチを頂いた。「飯館村頑張ってきた。つらいつらい避難生活頑張ります」(明るく前向きに飯舘村菅野村長よりスピーチ)。
「KIBOWいわきに参加して、津波・原発で職を失った飲食店関係者にいわきの駅前に、復興屋台村を作ると宣言した。今着々と進んでいる。希望者がいれば、どしどし応募欲して欲しい。一方、高井戸に福島の食材を売る47ダイニングを創った。福島を盛り上げていきたい」。(いわき出身の起業家より)
「これから除染の費用のために、福島に数百億円のお金が流れてくる。福島県民は、是非それに積極的に関与すべきだ。ボランティアだけでは続かない。ビジネスにしなければならない」(福島出身の環境調査研究員)
「今、宮崎の日南の中学校と飯館の子供達とが、短歌による交流を始めた。日南の中学生が『役に立てている』という実感を得ている。大人も惨状を嘆くのでなく、前向きに思いをもって何でもいいので行動していきましょう。
是非福島に足を運んでほしい、そしてお金を落としてほしい。福島の農産物を食べて欲しい。被災地の人は、福島を見て欲しい、関わって欲しいと思っている。そして、声を聴いて欲しいと思っているのです」(福島放送のアナウンサー兼飯館までい大使より)
「福島にいると放射線量の話題が出る。情報が不足している。どの情報を信じていいのかわからない」(白川から参加された司会の峰村氏のお母様のお友達)
最後に再度田嶋さんのスピーチ、そして僕のスピーチで締めくくった。
感動のうち、KIBOW福島終了! 今から屋台村で二次会へ。福島の皆さんは、とても元気で前向きだ。福島の皆さん>ありがとう。また来ます(^^)/
2011年8月4日
堀義人