「日本は次の“再生サイクル”で世界をリードする可能性がある。エンタテインメントや高度医療といった産業においてイノベーションを起こし、製造業に強い日本という世界の認識を徐々に塗り換えるだろう。私は、そうした変革を率いるリーダーの育成に尽力するつもりだ」――。2008年4月22日、グロービス経営大学院は、全カリキュラムを英語で提供する「インターナショナルMBA」を09年4月に創設することを発表。これを教育研究分野の最高責任者、研究科長として率いていく、ジョン.C ベック氏をメディアに紹介した。GLOBIS.JPでは、これに連動し、ベック氏の著書『サムライ人材論』から、“再生サイクル”について紹介した「第2章 協調と孤立を繰り返す日本」の内容を、今回、発行元であるダイヤモンド社のご厚意により、特別に抜粋して掲載する。
個人、企業、国家のどのレベルでも、再生は直線的というよりは循環的な性質を持つ。そのため、危機がいつ終わり、再生がいつから始まったかを正確に把握することは難しい。少し前まで繁栄していたのに、いつのまにか窮状に陥っていたりする。最近日本が遂げた経済復興も(予想に反してどれほど素晴らしいものだったとしても)、それがずっと続く保証はない。逆に、今の日本経済の復活が止まったとしても、やはり遅かれ早かれ次の復活劇を見ることになるだろう。
ここで言いたいのは、日本経済はよみがえる、今すぐ日本企業の株を買え、ということではない。日本は再生サイクルの素晴らしい例だということだ。日本は何世紀にもわたって、個人、組織、国家のレベルで再生を遂げてきた。変化や再生を必要とするような重大な問題を抱えているなら、洋の東西を問わず、日本の再生サイクルはとても参考になるはずだ。
日本はこれまでに何度も、強力かつ予想外の力で変革を推進し、まったく新しい姿に生まれ変わっては西洋人を驚かせてきた。新生日本を形作る文化的、経済的、構造的な力は、過去の日本と比べてはるかに強大である。この劇的な復活が今後数年間続くかどうかにかかわらず、日本における再生のパターンやマインドセットは、西洋の人々にとってのモデルとなることは確かだ。
歴史を振り返ると、封建時代でも近世でも、日本は変化──とりわけ外部からの変化に対してかたくななまでに拒絶反応を示す。新しいものを拒み続け、かなり長期間、従来の手法に固執する。ところが次の瞬間、まるで手のひらを返すかのように、その新しい変化を好意的に受け入れるのだ。この点は尋常なことではなく、外部の人間にとっては驚きを禁じえない。
四段階で進む「再生サイクル」
日本で変革がどのように進められてきたかを理解するために、基本的な部分から始めてみよう。まず変革には、それが個人、企業、国家のどのレベルで行われるにせよ、それが展開していくプロセスにはある共通性がある。我々はこの変化のサイクルを分析し、1990年代から世紀の変わり目におけるアメリカ、ヨーロッパ、日本の企業の過去のデータから、変革のサイクルに関するモデルを構築してみた。すると、大企業の再生サイクルはかなり予見可能であることがわかった。一つのサイクルは、だいたい7年から20年の間であるようだ(過去20年、特に技術集約型産業においては、そのサイクルは5年から10年へと短縮されている)。本書では、再生サイクルを基本的に四段階に分けて考えることにする(下の図)。
図の横軸は「内部」(例、社員へ働きかけるために、スローガンが書かれた帽子を全員に配布する)と「外部」(例、新規市場に出るために、バーベキューソースのメーカーが、日焼け止め用ローションの製造を始める)に分けられる。
企業が内部的な変化に関心を向けているとき(例、なぜおかしな帽子をかぶらなくてはならないのか)、顧客満足度といった外的要素(例、ローションの品質は、バーベキューソースほどよくない)にはまだ関心を払うことができない。
逆の場合も同じで、外的要素に関心を向けていると、社内のプロセスがおろそかになり混乱が生じる。
縦軸は、変化の規模を表す。かなり大規模な変化が起きている企業はこの一番上にランクされ、何の変化もない企業は一番下に来る。
この縦軸と横軸が交差したところで、再生サイクルは、「準備期」「計画期」「実行期」「定着期」の四段階に分かれる。一つ言えることは、どの企業も「定着期」で最も時間を費やすということである。定着期で主に取り組むのは、財務諸表の最終利益の拡大、コスト削減、業績の向上であるが、ほとんどの人にとって、この段階は何もない平時の状態のように感じられる。「準備期」「計画期」「実行期」までの三段階は、これまでどおりの仕事を続けられないような重大な変化に企業がうまく適応していくために必要なプロセスである。
何もかもが順調なときには、個人も企業も自ら根本的な変化を起こそうという気持ちにはならないものだ。尋常でない事態が発生しない限り、なかなか再生には踏み切れない。だが、再生を後押しする「起爆イベント」はいろいろな形で現れる。最初はごく自然な流れで、次へのステップにしか見えないこともある。その場合、よほど差し迫った状態になるまでは、たいした変化は起こらない。あるいは、好機のような形をとることもある。これまでとは違った運営手法や価値観を推し進めるには、従来のやり方とは大きく違っていたほうがよい。
実際には、「起爆イベント」は痛みを伴う大きな脅威となる。たとえば、企業買収、新たな競争、景況の悪化、CEOの死などが挙げられるだろう。これらの出来事に直面すれば、皆、否が応でも未知の世界に引きずり込まれ、変革できるかどうかが死活問題となる。しかも、古いやり方には戻れない。「起爆イベント」に直面すると、「定着期」で安穏としていた企業は変化せざるをえなくなる。大きな一歩を踏み出した企業は、新たな再生サイクルを合理的な順序で進んでいった後、再び「定着期」に行き着く。その状態は新しいサイクルが始まるまで続く。
第一段階「準備期」
「準備期」はどのように進行するのだろうか。最初に「起爆イベント」が起こる。初期のパニックから立ち直ったら、次にゆっくりと新しい世界について探り、変化がどのような意味を持つのかを判断する。
この段階のキーワードは、「情報」である。少なくとも、何が起きているかを正しく把握する必要がある。目標は、将来とるべき行動を検討し、そのために必要な情報を収集することだ。実際に痛みを伴う大きな変革はまだ行われない。この段階にあるうちは、大きな変化を起こすべきかどうか、正しい判断を下すだけの十分な情報はない。本当に「大量破壊兵器」があるかどうかもわからない。事実を把握せずに、大胆な行動を起こすことは往々にして軽率である。
後になればわかることだが、渦中にいると、今が「準備期」なのかどうかは判然としない。緊急事態にはパニックがつきものだ。「起爆イベント」に直面すると緊迫感が生じ、もはや「定着期」に落ち着いてはいられなくなる。直ちに行動すべきだと思うのは自然な感情であり、アイデンティティを失い、安全性を失ったことに不安や嘆きや怒りを感じる。経営陣がすぐに抜本的な組織改革に踏み切ろうとするのは、無理もないことだ。
しかし、急いては事を仕損じる。第二段階の「計画期」に移れるのは、情報を十分に収集し、もはや新しい情報は得られなくなったときだと、肝に銘じなくてはならない。理想的な形は、この情報により、変化に対する悲観的な感情が消え、新たな現実に対処していく準備が整うことだ。後述するが、欧米企業は、日本に比べて行動を急ぐ傾向がある。一方、日本は「定着期」に長々ととどまり、状況がどうであれ、準備期やその先に進むことを躊躇する傾向がある。
第二段階「計画期」
準備期にすべきことを行えば、新しい環境にもだいぶ慣れ、「計画期」に移行できるようになる。この段階で経営陣は、把握した内容をもとに組織の行動計画を作成する。自社の新たな将来像を構想し、ポジショニングを明確にすること、また何を成し遂げ、何を目指すのかなど、対外的な目標を設定することが重要である。リーダーは変革によって何が可能になるか、どのようなチャンスが生まれるかをしっかりとイメージし、ビジョンの実現に向けた能力開発を始める。
計画期には外の世界に集中する必要があるが、同時に、「起爆イベント」がもたらした新たな環境の限界も検討すべきである。難しいのは、ある企業を取り巻く環境が変われば、おそらく競合他社にも変化が起こることだ。そんななか、競合よりも正確にトレンドを分析し、新しい環境の中で強いポジションを確保した企業は、長期的に収益を確保できる可能性が最も高い。
第三段階「実行期」
「実行期」には依然として多大な変化が起きているが、その焦点は内部に向けられている。ここでは、「計画期」に作られたビジョンを実行に移すが、内部の変化なしには成し遂げられない。再生サイクルを進めるために、経営幹部は変化の決意を人々に知らしめなくてはならない。まずは必要な組織的な作業を行い、それから具体的な作業に移っていくのだ。
実行段階では、企業のあらゆる階層の人々に参加してもらう必要がある。さまざまな人が参加し、これまでとは違うことがたくさん起きるので、とても混乱しているような印象を受けるだろう。時には、何もかもが悪くなっていくように思えるかもしれない。しかし、成功には一度や二度の後退はつきものである。いざ実行に移してみれば、混乱したり、失望を味わったりする。厄介な問題は決まって些細なところで起こるのだ。この段階は一番苦労もするが、それだけ見返りも多い。
日本企業は「計画期」の意思決定が遅いことで有名だが、「実行期」ではとても迅速である。日本の意思決定システムでは、次の段階に進む前に、すべての関係者の了承を得ようとする傾向があるからだ。欧米企業の多くはその逆で、意思決定と計画立案は迅速に行われ、実行に当たる一般社員はそれに従わなければならない(決定に反対な人には願わくば組織を去ってもらう)。つまり、社内の根回しや政治的かけひきなどが「実行期」に行われるが、日本企業ではその前の「計画期」にそうした作業は終えているのだ。
第四段階「定着期」
第四段階の「定着期」に到達する頃には、関係者の誰もが疲弊している。幸いなことに、ここでは変化の度合いが減り、それに順応するための小さな社内的な取り組みが主となる。この最後の微調整が与えるストレスは、前の段階と比べると格段に少ない。定着段階ではもっぱら実行状況の監視を行い、導入したシステムやプロセスが順調に進んでいるかを確認し、収益の最大化を図る。この段階に移行した企業では、経験曲線が下がるとともに、収益性が高まっていく。できるだけ長い間、この段階にとどまりたいと願う企業が多いのも無理はない。
そう願っていたとしても、必要なときに次の段階に進む準備が常に整っていないようでは、真の成功者にはなれない。定着期にとどまり続けようとする官僚的な力(内向きな考えが大勢となり、変化を受け入れにくくなる)が強く働く。しかし、この段階で忘れてはならないのは、必ずまた次の「起爆イベント」が生じるということだ。この段階で成功している企業は、内部と外部の問題に等しく目を向けなくてはならない。そうすれば、将来起こりうる変化の予兆を見通しながら、同時並行で現在の財務的成功に不可欠なコスト削減や品質向上を進められる。
企業が最も大きな成功を収めるための秘訣は、再生サイクルの最初の三段階をできるだけ早く完了し、「定着期」に長くとどまることだ。たとえば、買収やアライアンスに長けた企業は、新しい環境にすぐ対応できるパートナーを探し出し、適切な条件を提示し、新体制の発足を急ぐことが多い。顧客やサプライヤーとの関係を築き、管理することも大事である。ここでも、速やかに排他的関係を構築できた企業が勝利をつかむことが多い。
いち早く「定着期」に入り、そこに長くとどまる(同時に、市場との関係をきちんと維持する)企業は、競争優位を長期的に保ち続けることができる。そうでない企業は、コストが高くつく。再生サイクルとは、変化のマネジメントに役立つだけでなく、変化にうまく対応するためのモデルなのだ。
「起爆イベント」、つまり根底から揺さぶってもはや後戻りできない状況は、多くの企業にとって死を意味するが(たとえば、AT&Tは近年、個人向け電話サービスから撤退した)、他の企業にとっては新しいビジネスチャンスになることもある。
環境変化や危機的状況への対応について調査を行ったところ、うまく対処する自信やノウハウを持っていると答えた企業はごくわずかだった。我々は危機を避けるためではなく、成功へのカギとして再生サイクルを役立ててもらいたいと思っている。「起爆イベント」に対して企業はどう対応すべきか。どのような選択肢があるか。その選択肢をどう系統立て実践すべきか。我々の研究はその方法を示すものである。再生サイクルの手法を適切に使えば、企業が危機の時期を乗り越え、成功を勝ち取るための一助になる。
国や社会にも再生サイクルはある
再生サイクルについて論じるとき、難解な方法論の話が先行しがちである。しかし、再生サイクルのプロセスは、決して方法論的なものではない。組織であろうと、国家であろうと、文化でさえも、極めて似た段階を踏んで進化していく。実用的で予測可能な策が本当にあるし、再生のために意識的に努力するものだと認識している企業は、再生サイクル内の移動を早めることができる。一方、変化に向けて積極的にリーダーシップをとる者がいない状態でさえ、社会的な変化が自然に起こることが多い。
アメリカの奴隷制度がそのよい例だ。アメリカ建国以来、最初の200年間で、この問題に対する人々の態度、行動、法律は明らかに大きく変化した。憲法が起草された頃にも奴隷制度廃止を唱える運動家たちは存在したが、あまりにも奴隷制度が社会に浸透しており、憲法の中に記載が残った。しかし19世紀年半ばになると、ルイジアナ購入による新州併合、『アンクルトムの小屋』の出版、ドレッド・スコット事件といった「起爆イベント」が起こった。きっかけは何であれ、大勢の人が奴隷制度のない国を思い描くようになったのだ。奴隷なしでうまくやっていけるのか。どんな悪習がなくなるのか。アメリカはこれからどんな問題に直面するのか。これらはまさに、「準備期」に出てくる疑問である。
19世紀半ば、北部で世論や公選議員によって奴隷制度の廃止が決定されたことを転換点に、ようやく大きな変化が起こった。北部の州では、奴隷のいない世界はすでに当たり前の事実となっていたので、次のサイクルへと早く進み、より外部の政治問題に注意を向けられた。奴隷制度廃止に後ろ向きだった南部の州では、北部の立場に嫌悪感を抱き、独立をほのめかして脅しをかけた。これらは「計画期」の間に起こり、南部も北部もともに戦争開始に備えた。南北戦争は結局、南部の降伏で幕を閉じることとなる。
20世紀に入り「実行期」に、この問題は頓挫してしまう。奴隷制度は公式には廃止されたが、アフリカ系アメリカ人が社会で自由に平等にやっていくには、さらに長く困難な道のりが待っていた。60年代や70年代の公民権運動に後押しされて、ついに「定着期」に到達したが、今でもこの問題をめぐる制度、手続き、人々の態度は、まだ多くの点で微調整が必要だ。ただし、南北戦争から1970年に至るまでの変化に比べれば、相対的に小さな問題となっている。
このように、再生サイクルはビジネス以外でも用いることができる考え方だ。
日本の歴史は「協調」か「孤立」かに大きく振れる
「起爆イベント」に対する社会の対応は、そこに属する人々の性質に負うところが大きい。日本人はこれまで、さまざまな方法で変化に対応してきたが、そのすべてに共通する刺激的な何かがある。変化の段階は世界共通だが、各段階における対処の仕方やマインドセットは、日本と西洋とでは大きく異なる。そうした態度や行動は、再生スピードの違いとなって現れる。
最も大きな違いは、日本は再生サイクルの中で常に「協調」(他国と歩調を揃えようとする)か「孤立」(日本独自の路線を行く)かに振れることだろう。日本の再生の手法やマインドセットを知りたい人は、この点から見ていくとよいだろう。
歴史を振り返ると、日本は何度か協調と孤立のサイクル内で大きく動いた時期がある。決まって重要な転換点を迎えるところから始まり、それを機に門戸を開放し、外の世界から積極的に学ぶ。変化を遂げれば、長期にわたって閉鎖と安定の時代が続く。協調と孤立の歴史を、時代ごとに見ていこう。
江戸時代──孤立
江戸時代には、鎖国が行われた。江戸時代という、250年にもわたる平和な時代は、世界的に見ても非常に長いものである。徳川幕府にとって、キリスト教、とりわけ闘争的なカトリックが九州で大きな影響を与え始めたことは、頭痛の種だった。そこで、鎖国政策による思想弾圧を考えたのだ。これは、日本のアイデンティティを維持するために、外界との接触を断つ「孤立」の戦略だ。日本は何世紀にもわたって、国を閉ざすことに成功し、諸外国にその姿を見せることはなかった。
明治時代──協調
大きな転換点は、黒船来航である。その後、明治維新が起こり、商業、文化、国政のあり方ががらりと変わった。単なる商業面での開国にとどまらず、 西洋の技術、文化、軍備など実に多くのものが取り入れられた。大正デモクラシーの時代には、日本はかつてないほど開かれた国となり、初めて世界の舞台に積極的に台頭しようという考えを抱き、それを推し進めた。
帝国主義時代──孤立
日本ではその後、社会における亀裂が深まり、新たな軍事政権が国を支配する。世界大恐慌や諸外国、特にアメリカとの経済的な対立により、関税が引き上げられ、輸出は凍結され、日本人の移住も禁止された。このような状況下で、日本は必要な資源を確保することによってのみ生き残れるという、ゼロサムゲーム的な思考で世界をとらえ始め、最終的に全面戦争へと突き進むのである。
自国の力を過信し、東アジアを軍事的に制圧した日本軍は、その強大な力を内外に見せることに成功した。日本はその後、快適な「定着期」に入っていくはずだったが、そうは事が運ばなかった。日本が描いたアジア太平洋構想へのアメリカの反発が、予想以上に強かったからだ。敗戦は大きな衝撃であり、日本の再生にとって十分すぎるほどの「起爆イベント」となった。
第二次世界大戦後(昭和後期)──協調
第二次世界大戦後、日本は否応なく再び世界に向けて門戸を開くこととなった。それまでの制度はすべて廃止、あるいは無効となり、民主主義が再び導入された。この時代は、現代まで60年間続いており、再生サイクルの四段階すべてを見ることができる。
第一段階(準備期)は、連合軍の占領下にあった時期だ。日本経済は大混乱しており、人々は打ちひしがれ、外国による占領に完全に服従していた。この準備期に、日本は再び国際社会に加わることを許され、戦後日本のアイデンティティを確立することに成功した。過去の軍事政策に立ち返ることのできない日本は、そのエネルギーを戦後の世界的競争、つまりGNP(国民総生産)の向上に注ぐこととなる。日本は世界経済の上位に食い込もうと、静かに再建を図った。ドッジ・ラインの下、日本経済は1953年までには戦前のレベルに回復する。
第二段階(計画期)は占領が終わり、国内で多くの社会改革が行われた時代である。全国民が豊かな国づくりを目指して一致団結し、経済後退につながる過去の遺物は捨て去られた。その結果、「農地改革により、大地主の土地が小作農に分配され、長く続いた地主と小作農の問題が解決された。労働組合運動により、労働者は雇用者側の顕著な支配からある程度解放され、貴族システムは完全に廃止され、平等主義の空気が社会に広がった(*1)」。これらの改革を経て、日本は世界経済で先頭を争うまでになった。1953年から73年までの間、日本の実質GNPは、平均でアメリカの2.5倍の速さで成長し、イギリスの3倍、他のG7諸国(旧西ドイツ、フランス、イタリア、カナダ)の2倍もの急成長を遂げた。1964年の東京オリンピック、1970年の大阪万国博覧会などは、生まれ変わった日本を象徴するイベントとなった。
第三段階(実行期)に日本の輸出産業は著しく躍進し、効率的な生産体制、低コスト、低価格を武器に、テレビ、エレクトロニクス、自動車などの新分野に次々と進出した。その結果、日本はアメリカ中西部ラストベルト(斜陽化した工業地帯)の政治家たちに嫌われてしまう。アメリカでは、国内産業を守ろうとする対外強硬派が増え、ドル高の固定相場制が崩れた。世界経済における重要な問題を協議する場に、日本は必ず顔を出すようになった。
日本が世界の経済大国の地位を確保した頃、再生サイクルは第四段階(定着期)に入っていく。日本企業は史上稀に見る収益性を誇り、ロックフェラーセンターやコロムビア映画といった海外企業の吸収が相次ぎ、その快進撃には終わりがないように思われた。アメリカの優位にかげりが見え始めた頃、次の「起爆イベント」の種はすでに蒔かれていた。
この定着段階に、日本では特に地価が急騰し、戦後経済の拡大を支えてきた平等主義が崩れ始める。東京の皇居周辺の土地は、カリフォルニア全土よりも高くなってしまった。ゴッホやピカソの名画の数々は東京の美術館に所蔵され、リゾート施設シーガイアには約20億ドルという高値がついた。このような状況は、和を尊び、会社や国家のために自分を犠牲にするという典型的な戦後日本人の気質とは相容れないもので、最終的にバブル景気ははじけてしまう。
1989年12月29日、日経平均株価は3万8915円を記録したのを最後に、その後10年間は過去のをすべて出すかのように急落し、倒産したり政府に救済を求めたりする企業が相次いだ。
失われた10年(平成初期)──孤立
日本の次の転換点は、1990年代である。この時期、何もかもが従来のやり方ではうまくいかなくなり、新しいものへの探求が始まる。バブル崩壊後、日本の輸出産業や政府主導の経済モデルは失速した。当時でもまだ「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が生み出したような自意識の強さや内向き志向があったが、その度合いは以前と比べるとかなり小さくなった。
平成初期は、人々に見られる態度の面で、同じく内向きだった帝国主義時代とよく似ている。1900年代初めと2000年代初めという、まさに諸外国との関係が強固になっていた時期に、日本は外の世界に目を向けるのをやめてしまったように見える。その理由が、日本は自己満足に陥ったためなのか、諸外国と真に結びつくのが困難だと悟って努力には見合わないと思ったためなのかは、我々には知る由もない。
あるいは、日本は活動範囲を国内に限定したかっただけなのかもしれない。おそらく、日本はアイデンティティを失いかけていると感じ、ある程度結びつきを強めたら、一歩下がる必要があると考えたのだろう。
▼まとめ
今日に至るまで、日本はその社会を閉ざしたり、開放したりを幾度となく繰り返してきた。現在、このサイクルは昔ほど極端ではなくなってきている。典型的な閉鎖は、もちろん徳川幕府による鎖国である。明治維新後の閉鎖は、江戸時代の鎖国と比べればだいぶ緩やかではあったが、歴史的な軍部の暴走へと発展したように、いろいろな意味で劇的なものだった。今日の再生サイクルでは、極端なケースはほとんど見られず、我々の知る限りでは、外国人が追放された話を聞かない(もちろん、日本人の外国人嫌いは相変わらずだ)。
日本史における協調と孤立の時代は、日本社会の再生サイクルと合致する。協調を目標に再生サイクルが進んでいるときには、人々は「準備」と「計画」の段階で外の世界にうまく溶け込めるように外部環境に注意を払っている。その後、「実行」と「定着」の段階になるにつれ、内向的な国民性が頭をもたげて、自然と孤立の時期へと向かう。長い時を経て、日本の再生サイクルの極端な部分は減少し、孤立よりも協調の割合が高くなってきている。第3章と第4章では、日本独自の哲学がどのように発展してきたか、我々がそれから何を学ぶことができるかについて考えてみたい。
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