朝5時過ぎに起床し、朝6時12分の始発の東北新幹線で、仙台に向かう。天気は晴れ。皇居の周りをランナーが走っている。「今日は暑くなりますよ」というタクシーの運転手の言葉に、「電力は大丈夫かな~」とふと気になる。
仙台駅に到着。車内で溜まりに溜まった雑誌、社内資料を読破したので、荷物が軽くなった。今からヘリポートに向かう。天気は晴れ。日射しが強い。緑豊かな仙台の高台にあるヘリポートからボランティア操縦士とともに飛び立つ。
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牡鹿半島から陸前高田まで、ヘリで向かう予定。ヘッドフォンをして、プロペラが回り、宙に浮く。
眼下に仙台サッカースタジアム、遠方に松島がのぞめる。松の島が、穏やかな海に点在しているのが見える。自衛隊松島基地より自衛隊機が飛び立っていくのが見える。石巻の日本製紙の工場を越え、石ノ森萬画館を見下し、工業港、漁港を越え、牡鹿半島へ。先のKIBOW仙台の訪問の際に物資を届けた蛤浜を上空から訪問。クジラの漁港で著名な鮎川浜を越え、女川原発上空へ。
大岡小学校を上空から望む。8割の小学生が犠牲になった小学校だが、すぐ裏手に山がある。そこに逃げ込んでいたら全員生き延びることができたであろう。この地域の打撃は凄まじい。畑には未だに水の海となっているし、一部の住宅地は未だに冠水したままで海と一体化していた。
南三陸町へと向かう。一部の鉄筋以外はなにも無い真っ平な土地が見える。自らが何をできるかをヘリの中で考える。気仙沼本吉地区から大島上空を越え、そして気仙沼市街へ。先月まわった地域だが、陸路の視察と地上からの視察とでは視点が自ずと変わる。未だに大きな船数隻が陸地に乗り上げ、無造作に転がったままだった。
陸前高田上空へ。球場が海に沈んだままだ。言葉が出ない。海岸から西に舵を切り、山を越える。2月にスイスのダボスからチューリッヒまで搭乗したヘリから見えた山とは、趣が違う。緑が豊かだ。北上山地を越えて、金ヶ崎のヘリポートに到着。今回は地元のNPOの強い推奨により、無償(燃料費のみ)でヘリ搭乗が実現した。「堀さんには、是非ともヘリから観てほしい」と言われ、ヘリに乗ることになった。この経験を何かに生かしたい。
ヘリを降り、一ノ関駅に車で向かう。駅で、グロービスの高橋直子やハーバードの大学生、女性歌手、映像カメラマン、現地のジャーナリスト他ボランティアの皆さん8名と合流する。駅前の和食レストランで、ソースかつ丼を食し、遅れて来たグロービスのIMBA生のチェコ人と合流。「奇妙な」集団がバスに乗り込み、陸前高田に陸路向かう。
一時間ほどバスに揺られ、陸前高田へ到着。高台にある仮設の市役所に出向き、企画部長の菊池氏にバスに搭乗頂き案内してもらう。(旧)市役所を訪問し、菊池部長からその日のことを伺う。「3階まで水が来て、屋上に逃げ上がった。それでも水が来たので、更に壁をよじ登りやっとのことで生き残った」。
海岸沿いの松林があった場所を訪問する。「奇跡の一本松」と呼ばれる松が瀕死の状態になっているのを確認する。そこには、無数の松林があったのだが、松は流され、地盤沈下により辺りは水没していた。
陸前高田は、今まで見たどの被災地よりも、被害が甚大な印象を受けた。比較的平地が広いので、それが災いし、壊滅的な打撃を受けていた。「元に戻す復旧ではだめだ。だが、まだ国の方針が出てこないから、復興計画を描けない。動きが遅すぎる」と菊池部長。確かに大方針が出ないと、僕ら民間も動きにくい。
遠野のボランティア支援センターに到着。ここは、岩手沿岸部のボランティアの中継基地になっているところだ。そこには、米国から本日着いたというボランティアも来ていた。そこで、遠野まごころネットの多田副代表といわて連携復興センターの代表理事に御挨拶した。
たまたま、「いわて連携復興会議」が開催されていて、NPOの代表らしき人が20名近くで熱心に議論されていた。皆、小さいながらも自らの判断で動いている方々なので、何かが生まれそうな雰囲気はあった。「支援にあたっては、皆の垣根を取り払い、協力してやっていきましょう」という挨拶が印象的だった。
そのセンターには、数多くのボランティアが出入りしており、寝袋で寝泊まりできるスペースもあった。僕は、「まけないぞ!岩手」と大きく書かれたTシャツと、陸前高田の神田葡萄園製造のマスカットサイダーを買った。KIBOW盛岡の時間が気になるので、皆を促しバスに乗り込んだ。
バスは、緑の山中を右へ左へと揺れて行く。陽は傾きかけ、横から日射しが照りつける。バスの中には、チェコ人、ハーバードの学生、映像のプロ、歌手、ジャーナリスト(盛岡経済新聞)、NPOの代表、女性スタッフ等ダイバシティーに富む人々だ。僕は、殆どの人とは初対面だ。そして、KIBOW盛岡会場へと向かう。
盛岡インター出口で、渋滞だ。運転手や地元の人曰く、「被災証明が出て、無料になったからでしょう」と。被災証明が出ている発行基準は、停電になって断水したかだ。そうなるとほぼ全世帯が対象になってしまう。事務処理を増やし、渋滞を招く政策はチグハグだと思う。7時に間に合うか。
何とか間に合った。KIBOWのバナーを立ち上げ、夜7時に時間通りにKIBOW盛岡が始まった。冒頭は、僕の挨拶。乾杯の音頭は、400mハードルでの世界大会のメダリスト、為末大選手。そして、テーブルごとのグループディスカッションへ。第一部は、何をしてきたか。第二部は、現状認識と今後の行動。グループの討議内容を全体で共有する。
大鎚町の吉里吉里の芳賀さんから、何をしてきたかの共有あり。「犠牲になった方々や行方不明になった方々に恥じぬ生き方をしたい。沿岸部の被災地の人々は下を向いてると思うであろうが、吉里吉里は違う。皆、犠牲になった方々に恥じない生き方をしようと前向きに生きている」。場内の空気が変わった瞬間だ
山田町の女性の方が発表した。「幸い家族は皆無事だが、家は全壊。友達には、家族を無くした方も多い。前向きに生きるしかない。今回参加した目的は、グロービスだからビジネスだ。産業育成し、雇用を生み出すことが必要だ。復興には10年かかる。だからこそリーダー教育をしっかりする必要ある。漁業、農業、観光で産業復興だ。陸前高田、大船渡、釜石、大鎚町、宮古等全ての沿岸地域が、個性あるものをつくらなければならない。気仙沼のフカヒレの様に世界に売り出せるものにしなければならない」。
横路さん(NPOグリーンフォーレストジャパン代表)より「NPOの力を結集すべきだ。NPOには、それぞれの分野のプロがいる。先ず東京にいる人がやるべきことは、現地(被災地)に行くことだ。メディアで見て納得していてはいけない。現地に行きニーズを見極め、どうやって貢献すべきかを考えるべきだ」。
遠野まごころネットの多田副代表より。「自分の限界を知るべきだ。自らの力は小さい。だからこそ協力すべきだ。組織がいっぱい集まっている。横に連携してもらったたり、くっつけたりしている。競争、自己満足はいらない。皆で協力しよう。今、緊急支援から復興支援に移っている。新しい復興の形を模索したい」。
「ボランティアは、競争、自己満足ではいけないと言いながら、矛盾しているようだが一方では競争、自己満足して欲しいとも思う。是非多くの起業家には、有効な支援をお願いしたい。今準備しっかりしないと、厳しい冬が来る。それまでにしっかりと準備したい」。
小比類巻氏(K-1 WORLD MAXにて3度チャンピオン獲得)のお話。「格闘家なのに、いざ震災になったらテレビを見ることしかできなかった。そこで、被災地に出向き、ボランティア活動を始めた。テルさんは歌を書き披露した。アスリートとしては、人に感動を与えたい。心を動かすためには、奇跡を起こす必要がある」。
「奇跡を起こすためには、普段の心構えが必要だ。自然を大事にして、練習での純粋な気持ちが必要になってくる。強くなるには、世の中を考え、日本のことを考え、感謝の気持ちを大切にする必要がある。この地球は、人間以外のものでもある。社会貢献を越えた地球貢献が必要ではないか。いずれ被災地で試合を見せたい」。
これから田野崎文さんによるピアノの弾き語り。「3月11日に震災があってから、何もしないままに知らぬ間に傍観者になっていた。周りに頑張っている人がいて刺激を受けた。そこで、KIBOW盛岡に来た。実際に被災地で真っすぐに生きている人に触れた。今は自分にできること=歌を披露したい」。
同じテーブルの石川さんより、「補助金、陳情という考え方は、県民を弱くしていく。そうではなく、自立して民間の力で立ち直るしかない」。全く同感だ。様々なご意見を頂いた。僕が最後に謝意を述べて、KIBOW盛岡は終了した。そして、場は、二次会へ。
翌朝4時30分に起床。朝5時に待ち合わせをして、宮古市、山田町、大鎚町、釜石市、大船渡市と岩手県の沿岸部を周り、現地のNPOの方々と交流・意見交換し、適宜資金面での応援する予定となっていた。盛岡から宮古まで2時間かかるので、早目に起きて活動開始することになった。昨晩同様「まけないぞ!岩手」のTシャツを着て活動開始だ。
雨の中、盛岡でガソリンを満タンにして、宮古に向かう。内陸から沿岸部まで約100キロ。時間にして2時間以上。その間に北上山地がよこたわる。山を登り、峠を越え、山を降りる。大雨警報の中、車は走る。
道の駅「閉伊(へい)の里」で休んでいる時に地震発生。震源地岩手県沖。震度5弱。津波注意報が出ている。ラジオで状況確認しながら、海へと向かう。山にかかる朝もやが、幻想的だ。車は、松茸の産地を抜けていく。
宮古に到着。破壊された家と乗り上げた船が、散見される。ガードレールが壊れた海岸沿いを走る。リアス式の海は穏やかで、水が綺麗だ。少し入ると、もう山道だ。姉吉地区にあるという石碑を目指して進む。
自称「晴れ男」の本領発揮だ。大雨警報の筈が、雨が止み、晴れ間が見えてきた。
「宮古市は、必ずや復興します。市長の山本です」というアナウンスが、小さな集落を通り抜ける時に、防災放送のスピーカーから聞こえてくる。
姉吉地区に到着。この地点で津波の高さが40.5mだったという。日本最大級の津波だ。キャンプ場の木々も山の中腹まで根こそぎ持って行かれていた。海辺に破壊された堤防が、無造作に転がっていた。
集落に戻り、石碑を探す。街道沿いに見つける。「此処より下に家を建てるな。津波は此処まで来て部落全滅。幾年へるとも用心なせ」。この石碑のおかけで、集落は無事だった。この石碑は、標高30m以上の場所にあり、ここから海は見えない。
地元の人によると、各地から集まった義援金を使い、余ったお金で石碑を建てたのだと言う。その碑の教えを守り、集落はそれより山側に建てられ、何ら損害を受けていない。記録を残すことの重要性を物語っている。
この地区では犠牲者がゼロだが、隣町の小学校で3人。そして母親1人、合計4人が犠牲になったという。
リアス式海岸は社会科で学んだ通り、山が陥没してできている。海岸沿いなのに山道だ。絶壁から海を見下ろす感じだ。平地に降り入江に差し掛かるとガレキの山を目の当たりにする。宮城の海岸に比べ、山が険しい感じがする。
山田町の大沢地区は陸中国立公園に位置するので美しい。。牡蛎(カキ)の集積場だ。堤防が無惨にも破壊尽くされ、辺りに残骸が散らばっているが、牡蛎の養殖棚が張り出されていた。頼もしい!
山田町は壊滅的なダメージを受けていた。地元のスーパーが再建工事中。やる気を感じる。辺りに人が住んでいる気配が感じられないが、誰かが前向きに始める必要がある。その気概の発露から山田町の再建が始まるのであろう。
大槌町に入った。ひょっこりひょうたん島の物語が産まれた場所だ。吉里吉里地区の避難所に向かう。避難所で薪を切っている芳賀さんに会う。
芳賀さんのお話は、刺激的だ。「犠牲になったのは、皆津波を甘く観ていた人ばかりだ。昭和6年の3月3日に津波が来た。毎年3月3日に津波避難訓練をしていたが、参加するのは50人程度だった。娘が働いている保育園は、年に2回訓練を真剣にしていたから、犠牲者はゼロだ。しかも、重要書類も全て無事だった」。
「避難しているときに、窓の中から手を振っている人もいた。まさかあそこまで来ないだろうと思っていた様だ。地震があってから津波まで一時間近くの余裕があった。家は破壊されるが、命は守れるのだ。皆逃げられた筈なのだ」。
「避難所生活が始まったが、大阪等西日本の林業と連携して、薪をつくる仕事を始めた。ガレキの中から木材を取りだし、釘を抜き、同じ長さに切り、袋に入れて一袋500円で売り出すのだ」。
僕も、在庫を見に行ったが、袋はお米を入れるものを流用していた。その袋の上に「復活の薪」と銘打ったオレンジ色の紙が貼られていた。まさに、「復活の薪」なのだ。
「偉そうにしている人は皆、自分のことばかり考えている。一番重要なことは社会をどう良くするかを考え、吉里吉里にとって良いことを行い、周りの人を幸せにすることだ。そうなって初めて自分のことを考えようと思っている。皆がそう考え行動したら、社会は必ず良くなる」。
芳賀さんのお話を伺った後に、避難所の中を見せてもらった。「困っていることは何か?」と質問したら、「雇用だ」と返って来た。やはり、仕事が一番大切なのだ。ところが、雇用はかなり失われている。
芳賀さんの「復活の薪」青空工場は、避難所の目の前にあった。在庫はテントの中だ。その横に、テントづくりのお風呂があった。国連から支給されたお風呂があったようだが、誰も使わずに撤収されたようだ。「どうして?」と聞くと、「気持ちが入っていないと、受け入れられないのだ」と言う。モノを与えるだけでは、解決しない。共感し、気持ちを届け、一緒になって活動することが重要なのだ。
吉里吉里の白浜を観に行く。壊れた堤防の隙間からビーチを覗く。三陸海岸には珍しい美しい白浜の幅が半減したと言う。堤防とビーチの間に淀んだ水たまりがあり、白浜にガレキが散見された。吉里吉里(キリキリ)と言う名前は、ビーチを歩くと、「キュリキュリ」という音がしたことに由来すると言う。
隣町に行き、ひょうたん島を港から拝む。御遺体が見つかったのか、警察車両が来ていてものものしい雰囲気があった。小雨が降ってきた。ひょうたん島は、本当にひょうたんの形をしていた。「ひょっこりひょうたんじ~~ま」と思わず歌を口ずさむ。正式な名前は、蓬莱(ほうらい)島と言う。
大槌町の町役場に着く。その場で、立ち尽くしてしまった。町役場の窓には、未だにガレキがこびりついていた。町中は、津波の後に火事が襲ったので焼け残って焦げついたガレキ以外は何も残っていなかった。辺りは異様に静かだった。その静かさが、また寂しさを増長していた。僕らは、皆無言だった。皆を促し、その場を離れる。
釜石の街中に入った。YouTubeで何度も観た釜石の街並みだ。商店街は、津浪の傷跡が無惨にも残っていた。商店街が早く復活することを祈念する。人影が無く、津波に壊滅的な打撃を受けた街中を抜けて、新日鉄釜石の工場前を右折して、「ラーメン一番」に入ることにした。もう既に昼の一時前だ。釜石は、ラーメンでも著名だ。
リアス式海岸を更に南下して、大船渡に入った。今回の岩手沿岸部視察の最後の地だ。太平洋セメントの工場を過ぎ、工業港へ。「かもめの玉子」の本社前を通過。高台から街を見下ろす。ガレキの合間にポツポツと建物が残っている。魚の匂いが鼻に残る。
大きな船が泊まる港の後ろに、モヤがかかった緑の山が聳える。天然の良港が、津波の時には、津波のパワーを集中させるのであだとなる。だが、津波の災害以外は自然環境が美しい住みやすい港町であろう。早期の復興を祈念してやまない。
そして、帰路につく。リアス式海岸を抜けて、北上山地を横切る。暫くして、北上駅に到着。NPO代表の佐々木さんにお礼をして、新幹線はやてに乗車した。車窓から見える岩手の田園風景を楽しむ。田植えしたばかりの緑の苗が整然と並び、黒い農家のアクセント、緑の山の借景、そして雨上がりの水色の空が映えている。この大自然に触れると、岩手に宮沢賢治や石川啄木等の詩人が育まれたことも納得できる。
3月25日に水戸から始まったKIBOWは、4月12日にいわき、5月11日に仙台、そして6月22日に盛岡で実施した。そして、いよいよ7月22日にKIBOW八戸を開催する。これにて被災5県の主要都市全てを訪問したことになる。
東京駅に近づいてきた。窓の外には夜のビル群。僕の胸には「まけないぞ!岩手」のロゴ。頑張ろう岩手、頑張ろう東北・茨城。そして頑張ろうニッポン!
2011年6月26日
名古屋にて執筆
堀義人