人にはそれぞれさまざまな好みや傾向がある。好きな食べ物、ブランド、アーティストといった身近なものから、こんな仕事がしたい、こんなタイプの人と共に暮らしたいといった人生に関わる遠大なものまで。さて、そうした「好み」は、どうしてそう決まったのだろうか。
『アイデアのちから』などで知られる著者のチップ・ハース、ダン・ハース兄弟は、そこにはごく短期間で劇的な「決定的瞬間」が作用しているという。こう書くと、マーケティングを学ばれた方は、『真実の瞬間』を連想されることだろう。スカンジナビア航空のCEO(当時)ヤン・カールソンが1989年に著した、ベストセラー経営書に出てくるコンセプトである。顧客の購買意思決定や商品・サービスへの満足度は、ごく短い瞬間の心象によって決まってしまうというものだ。
本書の特徴は、この決定的瞬間とはどのような特性を有しているのかを明らかにし、その知識を利用して意図的に決定的瞬間を作り出す方法を整理しているところである。明らかになった特性とは、1.高揚(日常を大きく逸脱して気持ちが盛り上がること)、2. 気づき(ショックを受けるような意外な発見や再認識)、3. 誇り(努力や成果が認められる嬉しさ)、4. 結びつき(深いところでの他者との共感、一体感)の4要素だ。さらに、著者はこれら4要素を意図的に「作り出す」には何を意識したらよいかを提示していく。
たとえば、「高揚する瞬間」を増やすには3つの方法があるとする。まずは、感覚に訴えること。何らかのセレモニーをするとしたら、飾り付けを増やし、音楽やクラッカーなどを鳴らし、美味しい料理をつけ、さらには踊りも入れるとよい。とにかく、五感にインプットする情報量を増やすというわけだ。そして、期待を膨らませること。これは単に良いことが起こりそうだとアピールするばかりではなく、締め切りやノルマなどのプレッシャーを加えることも含まれる。いずれにせよ日常の延長線には無い特別なことだと思わせるのがポイントだ。最後に、台本を逸脱すること。これは単なる「サプライズ」では不十分で、本来の台本をよく理解した上で、本質的な部分で意外性、目新しさを作る必要がある。
このようなメッセージの一つひとつについて、リッツ・カールトンやサウスウエスト航空といった先進性で有名な企業のサービスから、ある高校のユニークなイベント、ある企業の研修プログラムなど、バラエティ豊かな実例とともに紹介されている。いかにもアメリカ風で文化の違いを感じさせるものも中にはあるが、日本ではどんな例が当てはまるだろうと考えてみるのも面白いだろう。
正直に言えば、私自身はここに挙がっているような「瞬間のちから」が比較的響かないタイプの人間だと思っている。過去の記憶をたどってみても、学生生活、会社生活とさまざまなエピソードは憶えていても、特にこれがきっかけで人生に関わるような意思決定に至った瞬間といわれると、挙げるのに迷ってしまう。書籍やテレビ等で、有名無名を問わず誰かの自伝やインタビューの、「◯◯のとき、△△さんに言われた『~~』という言葉が私を変えました」的な話に触れるたび、「そんなに鮮明で劇的なエピソードが、人生の岐路とも言える場面でよくあったものだ」と思ってきたものだ。しかし、そんなタイプの私だからこそかえって、本書の内容は「ああ、こういうことだったのか!」と説得力を持って迫ってきた。
大勢の人々をマネージしていく立場の人、広く顧客と接する機会のある人には、特におすすめの1冊だ。
『瞬間のちから』
チップ・ハース、ダン・ハース(著)、武田玲子(訳)
ダイレクト出版、1880円(マーケットプライス)