3月決算の企業が株主総会を実施する6月。株主向けに事業の概況を説明する資料が公開される。そこには、その企業が何を目指し、どのようなKPI(重要業績評価指標)を設定し、企業価値の向上に取り組もうとしているかが載っている。企業価値そのものや事業活動との関係性を正しく理解していないと、企業価値向上のためのKPIを設定することはできない。最終目的と連動したKPIを設定するのは必ずしも簡単ではなく、自らの業務で設定する際にいつも悩む部分である。そういった観点で各社の資料を見てみると面白い。
企業価値といえば、かつては企業の経済的価値と同義であったが、CSV(共有価値創造)が提唱された頃から、社会的価値と経済的価値の両方を含めて語られるようになってきた。事業活動を通じて、社会的価値を生み出し、それを経済的価値に変え、さらに事業活動に再投資する。そのような循環を繰り返しながら企業価値を高めていくというストーリーを多くの企業が描いている。
歴史の浅い社会的価値の議論に対し、すでに多くの議論がなされている経済的価値においてもプラットフォーム型企業やシェアリングエコノミーなど次々に新しいビジネスモデルが生まれ、検討を要するテーマは尽きない。多くの企業が情報技術を中心とする事業への取り組みを始めており、情報技術による競争優位の獲得を目指している。そのような中、企業価値向上のためのKPIはこれまでと同じような考え方で設定して良いものなのだろうか。その疑問を検討する際に助けになるのが本書である。
原著は1999年に出版され、同年に翻訳版も出版されたが絶版となっていた。新訳として今年になって出版されたのが本書である。20年近く前の内容なので事例は古く、必ずしも最新の内容ではない。しかし、著者が言うように、技術が変わり、ビジネスが変わるが、経済原理は変わらない。情報技術を軸に経済学の知見をまとめた類書はなかなか見つからず、現在においても情報技術を活動の中心に据える企業の経済原理を理解するうえで最上のテキストだろう。
本書は、経済原理の概念を解説し、様々な事例に当てはめて分析しているので非常にわかりやすい。例えば、情報財は、生産には多額の費用がかかる(固定費用は高い)が再生産のコストはかからない(限界費用は安い)という特徴がある。そのため、費用をもとに販売価格を決めるのは難しく、顧客が判断する価値に応じて価格を決める必要があり、価格戦略が重要になる。また、低コストで再生産できるため、権利の保護が大きな問題になる。そのような経済原理を理解することで、フリーミアムやサブスクリプションといった手法への理解が深まる。
他には、スイッチングコストやロックイン、規格化・標準化などが取り上げられている。そして、特にページを割いているのが、筆者たちが情報経済の原動力だと考えているネットワークの正のフィードバック(ネットワーク外部性)である。プラットフォーム型企業の飛躍的な成長の要因を理解するうえで欠かすことのできない概念であり、しっかりと理解しておきたい。
これまでの企業の多くは、希少資源の効果的かつ効率的な活用や生産コストの低減・効率化を競争優位の源泉とし、それを前提に企業価値が議論されてきた。しかし、プラットフォーム型企業のような情報技術を事業活動の中心に据える企業では、これまでとは異なる情報財やネットワークといった情報技術の経済原理に基づいて事業活動を行っている。このような企業の企業価値を考える際には、価値のベースとなるこれらの経済原理をしっかり理解し、KPIもその特徴にあったものを検討していかなければならない。
あらゆる企業の活動において情報技術の及ぼす影響を無視して語ることは難しい。企業価値が何により向上するのかを理解し、適切なKPIを設定するためには、情報技術の特徴を理解しておく必要があるだろう。本書は600ページを超える大著であるため、読み始めることを躊躇するかもしれない。しかし、本書で解説されている経済原理を理解すれば、その応用範囲は広く、ページ数以上に多くの示唆を得られるだろう。
『情報経済の鉄則 ネットワーク型経済を生き抜くための戦略ガイド』
カール・シャピロ/ハル・ヴァリアン (著)、日経BP社
3,240円