いよいよ「少年少女囲碁大会」の小学生の部の団体戦の当日となった。子供たちの緊張感が伝わってきていた。これが子供たちを成長させる試練だと喜びながらも、小学校代表チームの引率の立場としては、気が気でなかった。
四男も「一緒に行きたい」、と甘えてきたので、パパと四兄弟で朝9時過ぎに家を出て、日本棋院に向かった。雨がぱらぱらと降っていたので、それぞれの体の大きさに合わせた傘を差しながら行進して、会場に向かった。五男は、そのころまだベッドの中でスヤスヤと眠っていた。
程なくして会場に着いた。一階で登録を済ませて、二階に駆け上がりくじを引いた。会場の中に入って、所定の対戦場に着くと、既に対戦相手が着席して、待機していた。最初の対戦相手は、落合第四小学校であった。引率の親同士も挨拶をして、子供たちは着席した。対戦相手は6年生と5年生が中心である。やはり、小学校1年生の参加者は、他には見当たらなかった。3年生ですら珍しい存在であった。
ここで、少年少女囲碁大会の団体戦に関して、簡単に説明しよう。この大会は、3人一組の団体戦である。東京都の大会であるとともに、全国大会の予選も兼ねている唯一の大会である。言ってみれば、野球における夏の甲子園のようなもので、子供棋士たちは皆これを目標に頑張ってきているのである。
小学校の囲碁は盛んになってきてはいるが、団体戦ともなると3人一組のチームを編成する必要がある。これが、実は簡単ではないのである。特に小学校の場合は、公立校が多く、学区制があるので、強い人が分散してしまう傾向がある。強いちびっ子棋士を3人集めることは、容易ではないのである。
事実、わが小学校(区立小学校)でも、なかなかメンバーが集まらなかった。ようやく今年になってから、待望の三男が入学して、3人一組のチームを組めたのである。
ちなみに、僕らの小学校チームの布陣は、以下である。
主将:長男-小5、
副将:次男-小3、
三将:三男-小1
つまり、堀三兄弟チームである。大会では、主将、副将、三将の3人が一斉に対局を開始して、2勝以上をしたチームが勝利を収めるのである。剣道とかでは、順番に闘うが、囲碁の場合には、一斉に対局を始めるのである。
周りを見渡してみると大きな会場には、数多くのチームが陣取っていた。女性のちびっ子棋士も数多くいた。皆、 思い思いの格好で来ていた。千代田小学校は、お揃いの緑のTシャツを着ての参戦である。
この大会は、4つのクラスに分類されていた。「選抜戦」という、都大会の優勝と全国大会出場を決めるクラスと、A,B,Cという強さに分けたクラス別とに分類されていた。「選抜戦」には、1つの小学校に1チームしか出場できないが、クラス別には何チームでも出場可能となっていた。
この大会には、全部で50チーム近く出ていた。つまり、150人近くの小学生がその会場にいたのである。「選抜戦」には10チーム出場していて、この10チームがそれぞれ4回相手と戦い、その成績で都大会の優勝と全国大会への出場権を争うのである。
開会式が始まり、プロ棋士の淡路九段より挨拶があった。「勝っても負けてもいいので全力を尽くして欲しい。そして友達をいっぱい作って、いい思い出を残して欲しい」という趣旨のスピーチであった。
そして、持ち時間30分で、オール互い戦の団体戦が始まった。親は最初の5分間だけ会場にいて写真撮影をすることができたが、その後は原則会場には立ち入り禁止であった。
その5分間の写真撮影タイムが過ぎようとしていたときに、三将の三男が早くも、勝ち名乗りをあげていた。打つのが異様に早いのである。結局一回戦は、次男、長男とも勝ち、3-0で勝利を収めることができた。
二回戦は、一回戦の勝者同士がぶつかるので、油断ができない。相手は、谷中小学校であった。先ずは、幸先よく三男が勝利を収めた。ところが、「次男が負けた」、という報告が入り、急に緊張感が走った。残るは、長男の主将決戦である。主将同士は、時間を十分に使い最後まで勝敗が決着しないことが多かった。
遠めに戦況を見ていたが、状況はわからない。どうやら戦いが終わり、整地をして勝敗が決したかのようだったが、結果はわからなかった。三兄弟チームが揃って結果を報告しに記録席に向かうときに、長男と目があった。そして、控えめの笑顔ながらも丸のサインを出してくれたので、勝利をしたことがわかった。幸い第二回戦も勝利をすることができたのである。
ランチ・タイムの休憩時間には、五男と妻が合流して7人で控え室で昼食をともにした。食後に時間があったので、五兄弟と外に出て雨上がりの駐車場の水溜りで、遊ぶことにした。子供たちなりにも緊張していたのであろうか、2歳になった五男が水溜りに入ってビショビショになるのを、遠巻きに囲みながらじゃれあって楽しんでいた。ちびっ子棋士にとっては、こういう何気ない気分転換が重要なのであろう。
2回線が終わった段階で、2連勝していたのは、2チームだけとなっていた。次に勝てば、優勝がほぼ確定するとともに、全国大会への切符が手に入る。次に負けると、4回戦の相手如何によっては、地区大会敗退が決まってしまうのである。
3回戦は、昨年全国大会で優勝した市谷小学校チームであった。昨年の最強布陣から2名卒業していたが、主将は囲碁界で名を轟かせているほどの強豪である。既にプロ棋士一歩手前のところに来ており、プロ棋士との公開対局をしているほど著名なのである。
3回戦も前例にならって、三男が早々と勝ち名乗りを上げていた。三将まで有段者を揃えるのはどのチームにとっても容易ではないようであった。長男と次男の闘いがまだ続いていた。僕は、子供達から見えるところに陣取り、祈るようにして戦況を見つめていた。暫くして、次男の戦いが終わった。戦況が気になっていた僕に向かって、次男は笑顔を投げかけてくれた。勝ったのである。僕は、思わずのけぞってガッツポーズを取った。3回戦は、結局2-1で勝利をした。この時点で都大会の優勝と全国大会出場をぼほ手にした。
4回戦も、結局3-0で勝利して、完全制覇で、都大会を優勝することができたのである。子供たちは、産経新聞社のインタビューを受け、閉会式で賞状を手にした。とても嬉しそうであった。
帰り道に、近くの公園に立ち寄り、思う存分遊ぶことにした。知らぬ間に従兄弟や近所の友達が合流してきていた。緊張感をほぐしたかったのであろうか、2時間近く、鬼ごっこやブランコで遊び続けていた。そこに囲碁のレッスンから戻ってきた四男と五男も合流した。2歳から12歳までの子供たちの集団が、思い思いに公園で遊んでいた。
都大会優勝チームに、「ご褒美は何がいいの?」と聞くと、主将が副将、三将と相談し、主将から「ドラゴンボールZ のDVDとピザがいい」という返答が返ってきた。僕は、公園の帰り道に、5兄弟とともにDVDを2本借りて帰った。帰宅後ピザを注文し、子供たちと一緒にゆったりとしながら、ドラゴンボールを楽しんだ。夕食時には、ピザを片手に、妻とシャンパンで祝杯をあげた。妻も子供たちの囲碁レッスンの送り迎えに奔走してきたのである。
二年前に子供達が囲碁を始めてから、我が家のライフスタイルは様変わりしていた。以前は、週末のたびごとに軽井沢に行っていたのだが、最近では、週末は子供たちを囲碁教室に送り迎えし、その間僕は五男と一緒に公園で遊ぶ、という過ごし方に変わって来ていたのである。平日も週2回は、子供達は放課後に囲碁サロンに通って囲碁の指導を受けている。
その甲斐もあり、都大会で優勝できたのであろう。ただ、喜んで浮かれてばかりはいられない。次は、個人戦もあるし、8月には団体戦の全国大会が控えているのである。
小学校5年生となった長男の同級生は、一年以上も前から中学受験のために連日塾通いをしていた。我が家では、8月の全国大会までは囲碁に専念し、夏休みは異文化・異言語体験のために、再度海外に行く予定である。そして秋になってから中学受験の勉強である。それからで間に合うかどうかもわからないが、これも一つの試練なのであろう、と思う。
子供たちには、囲碁の真剣勝負を極度に高いプレッシャーの中で戦う試練を与えることの方が、精神的な成長に繋がるのではと思っている。結果は、勝とうが負けようがどうであれ、こういう機会を与え続け、真正面から挑ませることが重要なのであろう。
中條高徳さんが仰る「豊かさが、日本人からハングリー精神と我慢強さを奪ってしまった」という指摘に反論してきた立場としては、そうではない事例をつくりたいと思っている。そもためにも、このように可能な限り試練を与える環境を創りたいと思っている。
僕は、子供たちには、事あるごとに、「世界で活躍するんだよ」と言い続けてきた。子供たちは、その意味がわかっているかどうかはわからないが、「うん、分かったよ」とは言ってくれていた。世界次元で戦うには、心技体がそれぞれ充実している必要がある。特に、心の部分に関しては、AQではないが、試練が無いと強くならないのである。
そのためには、小さいころから、試練を与え続けることが重要なのである。そうでないと大人になって試練から逃げたり、いやいや克服するようになったりしてしまうからである。大人になってからでは、遅いのである。小さいころから試練を「友達」として成長し続ける習慣をつけることが重要なのである。
そのためには、小さいころのすごし方が重要だと思っている。試練から逃げる習慣がついてからでは、遅いのである。常に、試練を喜びながら乗越えていくように、親が導くことが重要なのであろう。
まさに、このコラムのタイトルのとおり、試練を乗り越えて歩んで欲しいのだ。
僕は、これからも愛情を持って、子供達に多くの試練を与え続けたいと思う。それが、親として子供たちに提供できる最大のギフト(贈り物)だと信じているからだ。
2008年5月28日
ボストンのホテルにて執筆
堀義人