とても慌ただしい日々であった。日曜日に大連から戻り、月曜日にグロービスの東京オフィスで終日会議に参加し、翌火曜日にはシンガポールに向けて出発していた。
8月の上旬に豪州のパースに出発してから、9月の中旬までに日本に滞在したのはわずか二日間だけである。
東京−パースーシンガポール−東京-大連-東京−シンガポールと歴訪し、シンガポールに一泊したのちに、家族が待つパースに向かう。そしてパースで3泊した後、家族を東京まで連れて帰る予定になっていた。こうなったら最後は体力勝負である。やれるところまでやるしかない。(^^)
飛行機は、シンガポールのチャンギ国際空港に降り立った。飛行機を降りたゲートのところに、僕の迎えが来ていた。今回は、米国フォーブス誌主催のCEOコンファレンスのメイン・スピーカーの一人として来訪しているので、何から何までVIP待遇であった。
黒塗りの車は、マレーシア国のバダウィ首相を招いての晩餐会の会場であるセントーサ島に直行した。このコンファレンスの会期は3日間である。前日開会していたので、僕は2日目の夕刻からの途中参加ということであった。
カクテル・パーティの後、緑の中に位置する大きめの多目的会場のようなところに誘導された。テーブルと机が配置されている会場で夕食を楽しみ、マレーシア国の首相のスピーチを拝聴した。カリスマのマハティール首相の後を継いだバダウィ首相は、地味な調整型指導者の面持ちであり、スピーチも淡々としたものであった。
翌朝、プールで一泳ぎをして気分転換をしてから、会場に向かった。このカンファレンスは、朝のスタートが早い。何と僕の出番は朝8時からなのである。
今回与えられたテーマは、「教育:ゆりかごからボードルームまで」というものである。昨年、このコンファレンスに参加した際のテーマは、「投資」であり、「投資:アジアの、どの地域の、どの商品に投資すべきか」という内容での登壇であった。
そして今回は、「教育」である。僕は、「投資」と「教育」に加えて、「ベンチャー」、「経営・組織」までの幅広い分野での登壇が可能になりつつあった。
僕は、日本語や英語など、言語に関係なく、様々な分野で示唆に富んだオリジナルな視点を提供できるようになりたい、と常日頃から思っていた。まだまだ足りない点は多いが、ゆくゆくは、「アジアNo.1のビジネススクール」の学長にふさわしい見識と人格を持てるようになりたいと思っている。そのために場数を踏むよう、努力をしているのだ。誰も最初から完璧な人間なんかいないのだ。場数を踏んで、失敗しながら、少しずつ進化していくしかないのだ。そう言い聞かせて、自らをプッシュし、さまざまな場を経験するようにしている。
壇上で同席したパネラーは、錚々たる顔ぶれであった。ジョン・ホプキンズ大学の学長、ノース・イースタン大学の学長、サンダーバード大学の学長と、シンガポール国の教育大臣、そしてグロービス経営大学院の学長である僕、であった。
その順番で、各自が簡単な自己紹介をし、「教育」に関しての私見を述べていく段取りとなっていた。
僕には、最後に順番が回ってきた。他のパネラーの意見は、オーソドックスな内容が多いように見受けられた。僕は、こういう場合は、最後に話す方が好きなのである。今までの話の流れを感じとって、まったく違う方向に話しの流れを持っていくことができるからだ。
「3学長そして大臣が教育に関して大いに語られたので、僕はゼロから大学を創設した起業家の立場で自分の意見を述べることにしたい」と前置きし、先ずはグロービスのことを紹介した。幸い、昨年フォーブス誌の表紙を飾り、しかも今回スピーカーとして来ていた事もあって、会場のスクリーンには僕の表紙のフォーブスの写真が頻繁に映し出されていた。
僕は、グロービスが行っていることを簡単に説明した。
「グロービスは、経営大学院を通して、次の時代を引っ張っていくリーダーを育成している。さらに、ベンチャー・キャピタルを通して、次の時代を創造する産業を生み出しているのである」。
「喩えて言えば、シリコン・バレーで、スタンフォード経営大学院とセコイア・キャピタルが果たしている役割を、グロービスが日本で果たしているのである。つまり、新たな創造と変革の生態系を、僕らが今、日本で創っているのである」。
海外に来ると喩話のスケールが大きくなるものである。そう認識しながらも、次を続けた。
「僕は、教育に関しては、心技体が重要だと思う」と、わざわざ日本語のまま「Shin、Gi、Tai」と発音した。その上で、英語の意味を説明した。僕のメッセージは、クリアであった。
「教育とは全人格的なプロセスである。大学では、「技」の部分が中心になりがちであるが、実は「心」の部分を鍛えるのがそれ以上に重要だと思う。リーダーを育てるには、「技」の能力や知識の向上だけではなくて、「心」の志、人格、意欲、価値観などの醸成が重要となる」。
「知識は、E-Learningや教科書・本を通しても習得できる。知恵や能力を鍛えるには、ケース・メソッドを通して、知恵がある講師と共に議論を行い、さまざまな違った視点をぶつけ合うことが重要である」。
「ただ、「心」つまり「志」は、教えることができない。これは、志を強くもった人々に触れて、鼓舞・触発されたり、影響を受けたりすることによって、醸成が可能となる。さらに哲学や信仰を通して、自らの中に善悪の基準を明確に持つことが求められる。その結果、最終的には自らの生きる使命を捜し求めることが重要となる」。
「これからのリーダーを育てるには、そのような志、価値観、使命感などの全人格的な教育が重要になっていくと思われる」と、先ずは最初の5−6分程度で、教育に対する私見の骨子を披露することした。
その後、質疑応答があったが、その内容については、ここでは割愛する。僕なりには、上々の出来であったと思う。終わったあとの反応で大体出来映えはわかるものだ。
午後に、ホテルの外でタクシーを待っているときに、60歳前後の恰幅の良いアジア人の紳士が僕にわざわざ声をかけてくれた。
「スピーチ良かったよ。ところで、どこまで行くんだい。良かったら送っていってあげるよ」、と。
ありがたい話である。こういう場合、僕は、必ずお言葉に甘えて便乗させてもらう事にしている。そもそも列が長すぎて投資家とのアポにも遅れそうだった、というのも乗せてもらう理由の一つであった。
僕は、黒塗りのジャガーの革張りの後部座席の最上位席を勧められた。紳士の友人が僕の隣に座り、アジア人の紳士は助手席に座った。
アジア人の紳士は、助手席に座るなり、「いや〜、スピーチ良かったよ。まったく同感だね」、と言って名刺交換をした。
その紳士が言うには、「実業界で成功して政治家にもなったが、まだ大学は作っていない。やはり、教育が一番大事だよね」、と。
隣の友人がこそっと教えてくれたのだが、その紳士は、インドネシアで5本の指に入る資産家なのだという。ちなみに、隣に座っていたその友人は、フォーブスの資産家リストでは、インドネシアで14位に入るそうだ。
いや〜、びっくりである。そういう方々に送られて投資家訪問である。
「どこに行くんだね」、と聞かれたので、「政府系の投資会社です」と答えたら、「あ〜、あの会社のトップを良く知っているよ。電話してあげようか」、と携帯電話を取り出されたので、慌ててお断りした。僕が今から会うのは、担当レベルなので、電話されたらその方に迷惑をかけるだけだからだ。
いずれにせよ、このカンファレンスには、いかに多くのアジアのリーダーや資産家の方が集まっていたかを実感することができた。
こうした方々に、「グロービス経営大学院」が良い教育をしていることを理解していただけることが、「アジアNo.1のビジネススクール」に向けての着実な一歩となっていることだと確信できた。
投資家のオフィスがあるタワーのようなビルの前で、黒塗りのジャガーは止まった。丁重にお礼を申し上げて、再会を誓い、車寄せでお車を見送りしてから、僕は投資家がいるタワーに向けて、歩き始めた。
その日は、政府系以外に、もう一件投資家を訪問した。僕らのファンドの状況をご説明するためである。いずれの投資家も歓待してくれた。欧米亜に投資家は数多くいるが、その地を訪問するたびに、投資家にファンドの状況をご説明することを、ここ数年続けてきた。
経営大学院の「学長」からベンチャー・キャピタルの「代表パートナー」に“変身”する瞬間でもある。世界的にみても、「学長」兼「代表パートナー」という肩書きを持つ人は稀だと思う。しかも双方ともゼロからの創業である。それだけユニークな事をしてきているのだ。そして、双方を組み合わせることによって、新たなリーダーと産業の創出を図ろうというのである。
その考えを理解してくれている方々が投資家として、グロービスのファンドに数億円から数十億円と投資をしてくれているのである。ありがたい話である。
ちなみに、英語では投資家のことは、投資家とは呼ばずに、リミティッド・パートナーと呼ぶ。訳すると、「有限責任パートナー」なのである。そして、僕らベンチャー・キャピタルは、ゼネラル・パートナー、訳すると「無限責任パートナー」なのである。
つまり、投資家はお金を拠出するパートナーで、僕らベンチャー・キャピタリストは、知恵と労力を拠出するパートナーである。そして僕らは、双方がパートナーとして共通の目標を有しているのである。それは、「新たな産業を創出し、社会価値と富を生み出すこと」である。
僕らは、日本のために第二のソニー、ホンダを創り、投資家のためにリターンを生み出すことが役割なのだ。そのパートナーである投資家には、誠心誠意、良い点も悪い点も報告することにしている。
投資家を2件訪問した後に、ホテルに戻った。そして夕方18時に今度は、フィリピンでオンライン教育を行っている経営者と面談して、現状に関して意見交換した。その後、その方とYPOという経営者ネットワークの社長との合計4名で、「ワインを楽しむ夕べ」を執り行うことになった。フィリピン人、シンガポール人、シンガポール在のスイス人、そして日本人の僕という、組み合わせであった。
ワインをかなり飲んだころから、今朝早くからフル回転してきたせいか、フィリピン訛り、スイス訛り、そしてシンガポール訛りの英語の会話に耐え切れなくなってきた。そこで、先にその場を退席させてもらうことにし、丁重にお礼を言って、その場を後にした。
まだフライトまで時間があった。タクシーにお願いして、生バンドが入っているクラブに連れて行ってもらうことにした。事前に仕入れた情報では、そこが一番流行っているという事だった。
僕は、一人でクラブ行くことに慣れていた。学生時代から一人でふらっとディスコやクラブに行っていた。それから20年近く、未だに、たまにフラッと出かける。特に海外でクラブに行くと、その国のファッションや文化がわかり、とても興味深い。そして、なるべく現地の人と交流して、意見交換するのである。ちょっとしたマーケット・リサーチだ。
そのクラブは、オープン形式なので音が外までガンガンに響いていた。水曜日の夜だというのに、テラス席も、店内も超満員であった。僕は、バー・カウンターで、ジントニックを注文し、グラス片手に場内を練り歩いた。みなポロシャツ、Tシャツというラフな格好だ。 男女比は半々ぐらいで、比較的年齢層は若く、グループで来ている人も多かった。ふと日本人風のおしゃれで可愛らしい女性がいたので、立ち止まった。
多少ほろ酔い気分だったので、あまり深く考えないうちに、声をかけている自分に気がついた。こういうときは、紳士的にアプローチをして、駄目であっても紳士的に引くことにしていた。断られても気にしないのがコツである。幸い感じの良い答えが返ってきたので、自己紹介して話し込んだ。
会話をしてわかったことは、その方は、日本人と米国人とのハーフの女性で、日本の大学を出た後、外資系に勤めて、シンガポールに駐在することになったのだという。年齢は27歳であった。
「シンガポールのクラブは、どう。楽しい?」、と聞いたときの答えが印象的であった。
「日本では、さまざまなサブカルチャーが生まれてて、それぞれのクラブが違っていて楽しいけど、シンガポールは、どこに行っても雰囲気や客層はあまり変わらない。シンガポールでは新しいものは中から生まれて来ない。外から入ってきたものがそのまま外に出て行くようだ」。
そういわれて周りを見渡すと、確かに昼間にオーチャードで見る人々のファッションと夜にクラブで会う人のとでは、それほど変わっていないことに気がつく。ましてや、ここには四季が無いから、恐らく一年中、どこに行っても、昼も夜もあまり変わらないのであろう。やはり、会話の中で必ず何か新しい発見があるものである。
そうこうするうちに、フライトの時間が近づいてきたので、楽しいひと時を過ごさせてもらったことにお礼を言い、その場を後にした。
ホテルに戻り、コンファレンスの運営者が用意してくれた黒塗りの車で、チャンギ空港に向かった。一泊三日の慌ただしいシンガポール滞在であったが、かなり充実していた。このコラムの副題のとおり、「スピーチ、投資家訪問、そしてワイン&クラブ」、である。
夜中の午前1時発のフライトで豪州のパースに向かった。朝6時半にパース空港に着き、タクシーで子供5人と妻が待つパースのアパートに向かった。
窓の外には、緑豊かなパースの街の早朝の風景が続いていた。赤いレンガの家と緑豊かな公園、そして青い水を湛えるスワン川である。
もうそろそろ二週間ぶりの家族との再会である。眠気とワインの香りが残る中、タクシーの中で、僕は心躍る気持ちを抑えていた。アパートに着き、チャイムを鳴らすことにした。
もう既に子供たちは起きて、学校に行く用意をしているようだった。
2007年10月19日
自宅にて執筆
堀義人