パース滞在予定の3週間が過ぎた。僕は家族をパースに残し、パース空港から一人飛行機に飛び乗った。
家族は、あと二週間程パースに滞在する予定であった。不安は残るが、仕事があるので仕方がない。僕が不在の間は、義理の両親などが子供達の面倒を見てくれる予定になっていた。子供達の英語は、まだまだのようであったが、皆が前向きに学校に通う気になっているのが、とてもうれしく感じていた。
僕は、シンガポール経由で東京に戻った。久しぶりの東京は、まだ残暑が続き、湿気も敏感に感じることができた。月曜日に、久しぶりにグロービスに出勤し、社内の会議や起業家のプレゼンなどに参加し、一日中精力的に働いた。
翌日の火曜日には、すぐに成田空港に戻り、中国の大連に向かった。大連では、世界経済フォーラム主催のダボス会議が開催される予定であった。 「夏のダボス会議」と呼ばれるもので、2000名近い参加者が、世界各地から大連に集結する予定であった。
僕は、一日余裕を持って大連に入ることにした。到着したその日は、プールで泳ぎ、海鮮料理を食べ、マッサージを受けるなどして、のんびりと過ごすことにした。
翌日、大連、旅順を観光することにした。欲張りの本音を言うと、瀋陽(奉天)と長春(新京)にも訪問し、満州国経営の風景をみてきたかったのだが、残念ながら時間がない。今回は、満州国建国の足がかりとなった大連と日露戦争の激戦区の旅順に行く事にした。僕は、司馬遼太郎著の「坂の上の雲」の大ファンなので、特に、二〇三高地と旅順口をこの目で見たい、という強い願望を持っていた。
運転手とガイドさんとホテルのロビーで待ち合わせした。ホテルは、ダボス会議のため、既に厳戒態勢となっていた。
ガイドさんは、大阪に数年滞在した事のある、20代後半の瀋陽出身の中国人女性だった。旅順に向かう車の中で、大連のことや日本の植民地政策や戦争のこと、更には日本での生活などに関して、質問させてもらった。
僕は、日本に来た留学生に、「日本は楽しかった?」、と必ず質問することにしている。というのは、かなり前に、「日本に来た学生は、反日感情を持って帰国する」、という記事を何かで読んだ記憶があったので、気になっていたのである。だが、僕の体験としては、今まで「日本に留学して日本を嫌いになった」と言う留学生には、あまり会っていない。時代が変わったのかもしれない。また日本で生活した事のあるビジネスパーソンにも同様の質問を良くするが、皆一様に、「日本は最高だった」、という声が聞こえてくる。確 実に日本ファンが増えている感じがしている。
そして、このガイドさんも例外ではなかった。彼女は、「日本は楽しかった。また戻りたい」、と言って、次の通り本音を語ってくれた。「本当は日本に残りたかったけど、一人っ子のため、親がどうしても帰ってきて欲しいと言うので、仕方が無く帰ってきた」、と。彼女は、一人っ子政策の最初の世代であるという。
車は、大連の街を西に走り、旅順に向かっていた。途中、ソフトウェアパークなどの科学技術の開発区が拓けていた。比較的山が多く、まだらに木が生い茂っていた。
ガイドさんが教えてくれた。「大連には、4つのものが少ない」、と。
『自転車』:山がある地形で坂が多いからだという。
『ゴミ』:当番制で掃除をしているから。確かにきれいだ。
『雨』:山肌が露出していたので雨が少ないことがすぐに理解できた。
『信号機』:どうやら車優先の社会らしい。
そうこうするうちに、山のふもとに辿り着き、「東鶏冠山北(とうけいかんざんほく)保塁」についた。ここは、ロシア側防御要塞跡である。1904年の日露戦争の時に、日本軍が二回にわたり進撃したが、1回目は日本の攻撃隊が全滅し、2回目は地下からトンネルを掘って攻めることにより、ロシア軍を全滅させた場所だ。大砲の着弾跡や鉄砲の弾痕の跡が壁に残されていて、戦闘の激しさが垣間見えた。これらの高台を支配したことによって、日本軍は大砲を使い二〇三高地を攻撃できたのである。
その次に、「水師営(すいしえい)会見所」に着いた。ここは、1904年1月2日に旅順のロシア軍が降伏したのちに、乃木将軍とステッセル中将が会見した場所である。この場所は、元々農家であったものを日本軍が野戦病院として活用したものである。会見した机は、手術台に使われていた机で、その台の上には日本語で大きく会見の様子が書かれていた。感慨深いものである。
そして、いよいよ二〇三高地である。山の中腹まで車で近づき、あとは徒歩である。15分ほど緩やかな坂道を登ると山頂に着いた。山頂には、慰霊塔が聳え立っていた。乃木将軍が砲弾や弾丸などを拾い集めて、地元の山口で鋳造したというものである。
ふと右のほうに目をやると、そこには旅順口が広がっていた。1904年12月5日に日本軍がこの二〇三高地を占領したのち、この地に射程8キロの砲台を立て、7,8キロ先にある旅順口に停泊していたロシア戦艦に向かって、砲弾を浴びせたという。
それより前に、広瀬中尉率いる日本海軍は、旅順口の入り口に船を沈ませることにより、ロシア艦隊を港より出れないようにして封鎖していたこともあり、ロシア艦隊はなすすべもなく一隻残らず沈没していったという。
そして、その結果、極東のロシア軍は降伏し、水師営による会見となる。そして、その後、インド洋を経て到着するバルチック艦隊と日本海における海戦へと続くのである。まさに、「坂の上の雲」そのものの歴史を体感しているのだ。
二〇三高地から見える旅順口は、壮観であった。乃木将軍はどのような心境でこの光景をみたのであろうか、と思いを馳せながら、その場でしばし佇んでいた。
ガイドさんに促されたので、慰霊塔に手を合わせたのちに、しぶしぶその山頂を後にする。途中、乃木将軍次男が戦死した場所があった。その山は、木々に覆われているので、昔は戦場であったことを感じさせない。どこにでもある、普通の山の風情であった。
山を降りた後、旅順博物館を訪問した。この博物館は、1917年に旧日本関東庁博物館として創建されたものである。建物は立派だし、収蔵品の質・量共に、とても充実している。収蔵品の数は、8万点以上もあるという。敦煌や中央アジア各地から集めた仏像や仏頭、貨幣、漆器、銅鏡などのコレクションが豊富である。
なかでも、西本願寺の住職であった大谷光端氏の集めたコレクションが見ものである。展示をしているケースの上には、日本の紋章が残されていた。その当時から使っていたケースを使い、今でもそのまま展示しているのだ。歴史が感じられる場所である。博物館の人が流暢な日本語で説明をしてくれたのが、とてもありがたかった。
大連に戻り、昼食をとる。当然、餃子である。中国の食事はとても安い。餃子、一皿100円強である。腹ごしらえをした後は、大連をの観光である。
先ず訪問したのが、南満州鉄道(略:満鉄)の本社である。満鉄は、日露戦争後の1906年に創設され、台湾の行政長官だった後藤新平が初代総裁となって、植民地経営を行った中心的組織である。その本社が大連にあるのだ。道路の上には、満鉄の社章が刻まれているマンホールがあった。この建物は、元々ロシアの商業学校として建てられた物件を改装して使ったのだという。
大連の歴史は、ロシアがグランドデザインを作り、日本がインフラを作って発展させ、中国人の手で近代化されていったのである。とてもエキゾティックな雰囲気がある。
中山(ちゅうざん)広場にある旧ヤマトホテルに向かった。この中山広場は、満州国時代の大連の中心地に位置する場所である。広場と言っても直径100Mぐらいの円形のもので、全部で10本の道路がこの広場に向かい、円を描いて放射状に出て行くのである。
10本の道路の間に建つ建物は、満州国統治時代に日本人が建てたもので、豪華且つ頑丈である。今もそのまま建物が残っており、それぞれが中国資本によって運営されていた。旧横浜正金銀行は中国銀行になっており、満鉄が建てた、ヤマトホテルは大連賓館、そして大連警察署は遼寧省の建物という具合にである。
ヤマトホテルの中は、豪華絢爛な大理石やシャンデリアだ。日本の威信を示すかのような明治時代の洋館風の内装である。
中山広場の後、旧日本人街を訪問した。緩斜面に豪邸が立ち並ぶ閑静な住宅街であった。ここに数多くの軍の幹部、官僚、そして資本家が住んでいたのであろう。どのような思いを持って、日本から移り住んだのであろうか。100年前にタイムトリップしたかのような感慨に浸ることができた。今もその住宅街は、とても静かであった。
僕は、韓国や台湾などの日本の旧植民地を訪問しても、植民地時代の様子や日本の経営を感じることはあまり無かった。ソウルでも、朝鮮総統府が取り壊された後に出来た、駅舎・市庁舎・大学には日本の名残が感じるが、日本をここまで感じることはできなかった。台湾も同様である。
だが、この大連や旅順では、日本を感じられた。なぜだか考えてみた。韓国・台湾で日本は戦争を行っていないが、この地では実際の戦争が行われていたからだろうか。満州には、実際に数多くの日本人が殖民してきたからだろうか。満州以外では、その痕跡を壊してしまったからだろうか。
理由は、よく分からないが、この地には日本の明治時代の気概を感じる事ができた。日本が作った洋館・建物の威信、日本人の邸宅の大きさ、そして戦地に建てられた碑や文章からそれを読み取ることができた。
司馬遼太郎は、日露戦争までは、歴史小説として書き記すことはしたが、それ以降の昭和史は、書く気になれなかったのだという。ここには秋山兄弟をはじめとして数多くの人々が、ロシアの南下から日本を守るために戦った軌跡と、新しい国づくりをしようとした気概が残っているように感じとれた。
あるいは、その感覚は、「坂の上の雲」を読んだがために発生した、単なる思い込みによる勘違いなのかもしれない。いずれにせよ、僕はこの街に日本を感じ、良い「気」に触れたかのような気持ち良さを感じることとなった。
夕方となり、ホテルに戻った。ボランティアの学生がダボス会議の準備を一所懸命にしていた。ホテルでは、ダボス会議の最初の晩餐会が開かれる予定だった。ダボス会議を運営している世界経済フォーラム(WEF)の創業者のクラウス・シュワブ代表がホストとして開催する、プライベートなディナーであった。
僕は、チノパン、ポロシャツからスーツに着替え、足早に会場に向かった。「坂の上の雲」の風景に触れた清清しさを伴い、第1回目の「夏のダボス会議」の最初の会場のドアを開けることとした。
2007年9月11日
シンガポールに向かう飛行機で執筆
堀義人