1999年にWall Street Journalの一面に、僕のイラスト入りの特集記事が掲載された。二頁にわたる長い記事であった。これがきっかけとなり、グロービスの事業内容が世界的に知られるに到った。
それを読んだ二人のヨーロッパの紳士が、同じ時期に別々にグロービスを訪れた。一人がフランスにあるビジネススクール、 INSEADの副学長で、もう一人がスイスのビジネススクール、IMDの副学長である。
お二人の話を別々にお伺いしたものの、共通した事実として一つビックリすることを知るに到った。「INSEADもIMDも双方とも政府の認可を受けていない無認可の教育機関として始まった」という事実である。
僕は、頭の中が混乱していた。「双方のビジネススクールとも確かに「大学院」という言葉を冠していないが、MBAを発行している。しかも、双方とも欧州のトップのビジネススクールとして認識されている。でも、無認可というのはどういうことなのだろうか」。
INSEADの副学長にその点を聞いてみた。副学長は、静かに歴史を語り始めた。
「INSEADは、1959年にHBSの卒業生が『フランスにHBSのような経営大学院を作ろう』というビジョンを持って、仲間二人とともに設立したものである。当初、お金が無かったので、パリ商工会議所の資金援助を受けて設立された。場所も無かったので、フォンテンブローのお城を借りて、クラスを開いたのである」。
僕は聞きながら、「グロービスとかなり近いビジョンだな、しかしフォンテンブローのお城とは洒落ている。グロービスの場合は、アパートの一室と貸し教室からのスタートだ」と思った(笑)。引き続き話を聞いた。
「INSEADは、 設立当初、フランス・欧州のどの政府機関・国際機関からも学位の認証を受けることができなかった。また、フランス文部省とは無関係なので、MBAという呼称も当初利用できず、「Post-Graduate Diploma」として学位を授与せざるを得なかった。講師の方も非常勤だったので業務の関係で出張が入ると代講を探すのに苦労した。
しかし9年後に大きな舵の転換をはかった。非常勤講師ばかりでなく6名の常勤講師を採用した。また個人向けの学校ばかりでなく、企業向けの研修事業を強化することとした。常勤講師が増えることによって、アカデミックな能力も拡大していった。
もう一つの転機が博士課程を設立したときだ。その中の数名をHBSやMITなどのビジネススクールに派遣することによって学力を高めることができた。 そして1975年に学位の呼称をMBAに統一した。これ以前にも卒業生が勝手に自らをMBAと呼ぶ状態が続いていた。そして、アジアで始めてシンガポールに拠点を設けた。現在1学年720名の学生がいる」。
IMDの副学長からのお話も同様に興味深い内容であった。こちらも民間のビジネススクールとしてスタートしたとのことである。
INSEADの副学長のお話を伺ってもう一つ驚いたのが、「日本でトップビジネススクールになるのは、グロービスである」、と断言していた点であった。
「文部省(当時)の傘下にある大学院は、実践的な教育を施すには向いていない。民間ビジネススクールは、市場ニーズをくみとり、良いカリキュラムをつくることができる。政府認可ではなく、グロービスは、社会認知型のMBAを発行する民間ビジネススクールになるべきだ」、と勧められ、「グロービスならそれぐらいのビジョンを持つべきだ」と背中を押された。
一方では、グロービスの受講生から、「レスター大学の通信教育ではない、ケースメソッドによるグロービス独自のMBAを発行できないか」と繰り返し要望を受けるようになってきていた。つまり、グロービスのカリキュラムを継続受講することによって、グロービス独自のMBAが授与される仕組みへの強い要請であった。
そして、僕の頭の中に「社会認知型ビジネススクール」のビジョンが浮かびあがり始めた。社会認知型とは、欧州のトップビジネススクールであるINSEADのように、国や他の大学といった外的「権威」に裏づけられるのではなく、その教育内容・実績によって、社会から実質的に「経営大学院」と認められる教育機関である。
欧州にモデルケースがある。INSEADの方法論を徹底的に調べて、日本でも実行可能かを検討しよう、と決めた。その後、2年間の月日を費やしてリサーチを行い、社会認知型「MBA」構想がスタートすることになった。
INSEADがPost-Graduate Diploma in Business Administrationならば、 グロービスは、Post-Graduateの代わりに、米国英語であるGraduate を使うことにした。 グロービスの「G」の方が響きが良い。略して「GDBA」である。将来的には、INSEADと同様に、外部の認証機関から質を認めてもらい、「MBA」と呼べるようにしたいと思っていた。
この結果、英国国立大学のレスター大学とのジョイントMBAとグロービス独自の「GDBA」を発行するビジネススクールとの共存という方法で、「大学院化」のビジョンに向かって歩み始めることになった。
新たな世紀に入り、小泉内閣が発足し「21世紀維新」を宣言していた。中でも、「国立大学を民営化する」「民間にできるものは民間に任せる」というフレーズが気に入っていた。「国立大学が民営化されるなら、そもそも民営の大学院があっても良いべきではないか。いや、民間の方がもっと効果的な教育サービスを提供できる可能性が高い」、と考えた。外的な環境は整いつつあった。
一方、以前からMBAを発行している慶応大学に続き、一ツ橋大学、早稲田大学、青山学院大学、法政大学などの主だった大学もMBAプログラムをスタートさせていた。
「機は熟した。やるなら今しかない」と判断し、大学院化に向けて思いっきり舵を切ることにした。2002年4月にこれらのことをまとめた拙書「吾人の任務」を上梓した。先行開講科目を開き、カリキュラムを拡充して、受講生を募集した。
GDBA初年度には、23名の優秀な受講生が合格した。中には、早稲田大学のビジネススクールに受かりながらも、グロービスのGDBAを選んでくれた方がいた。また、MITで修士課程を2つも修得し、東大で博士を取得した方も、グロービスのGDBAに応募してくれた。
皆、「最終学歴」として、グロービスのGDBAを選んでくれたのである。ありがたいことである。
こうして、GDBAの東京一期生が集まり、4月に入学式を行った。家族同伴の型破りなものであった。翌年には、大阪でも第一期生が集った。皆、「創造と変革の志士」に相応しい、やる気にあふれた優秀な受講生であった。
その後の流れは、以下のとおり、コラム「起業家の風景」に書き記してある。
2002年12月19日「創造と変革の志士に向けて」
2004年4月23日「グロービスMBAの入学式」
2004年7月13日「グロービス堂々の3位!」
2005年5月27日「アジアNo.1のビジネススクール(MBA)を目指して」
2005年6月15日「創造と変革の志士」の旅立ち〜卒業式にて
このプロセスの途中、グロービスの社内では、一つの議論を一年半かけて行っていた。
その議論とは、「グロービスは上場して規模を拡大するのか、上場しないで『アジアNo.1のビジネススクール』を目指すべきか」であった。上場すると質の追及よりも株主価値の最大化が最優先されることになる。どちらかを選ぶしかない。
「会社の存在する意義は?vol1」
「会社の存在する意義は?vol2」
社員は皆株主なので、上場すれば当然多大なキャピタルゲインが得られることを知っていた。長い議論の末、全会一致で、利益よりも質を追求して、「アジアNo.1のビジネススクール」を目指すことにした。
こうして、レスター大学のMBAに続き、グロービスのオリジナルのMBAプログラムである「GDBA」がスタートした。2003年4月のことであった。
2005年12月13日
自宅にて
堀義人