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信長と囲碁〜なぜ織田信長は囲碁を打っていたのか?

投稿日:2005/06/09更新日:2019/08/21

「なぜ織田信長は囲碁を打っていたのであろうか?」と、囲碁を始めるに当たって、僕はずっと考えていたのである。

僕は、「なぜ信長は茶道をやっていたのか?」という疑問を持ち、茶道に触れてみた。こちらに関しては、ある程度納得ができる結論を導きだせていた。その仮説に関しては、今週末に裏千家の千宗室家元とお会いする機会があるので、聞いてみようと思っている。

さて、「なぜ信長が囲碁を打ったのか?」である。織田信長ほど、合目的的 に 生きた人間はいないと思っている。信長は、「天下布武」という掛け声のもと、日本を統一するため常識を疑い、合理的に物事を考えて実行した。また、「人生50年」と認識していたので、一刻の時間も無駄にはしなかった。その信長が、趣味で囲碁を打つなどとは考えにくい。

では、「なぜ囲碁を打っていたのか?」僕は、それをどうしても理解したかった。僕は、囲碁を始めて、既に3年以上たっている。その疑問に対して、やっとのことで、僕なりの結論を導き出すことができたのである。その結論とは、以下3点である。

1)囲碁で負けることにより、戦いの厳しさを学び、精神力を鍛錬していた。
囲碁を打っていると、負けていくことの惨めさや悲哀を感じさせられる。一手の失着で、自らの石(兵隊)が死んでいくのを目の当たりにする。その都度、自らのリーダーとしての浅はかさ、能力の低さを嘆かざるを得ない。そして、「負ける戦いはすべきではない」と痛感し、「間違っても経営の現場では失敗したくない。日々研鑚に務めるべきだ」、と強く心に誓うのである。

信長にとっても同様だったのではないかと思う。戦場では一手の失着で全てを失う。戦(いくさ)に負けると一家郎党もろともに打ち首である。だからこそ、慎重に情報を集めて、戦況を確認して、一手一手重要な手を打っていくのである。

大河ドラマなどで、戦場での戦国武将の様子が出てくる。武士がひざまづき、「報告します」と前置きをして、戦況を報告する。各方面からの情報を集める間、武将は黙って聞いている。この間、頭の中に戦況をインプットしているのだと思う。そして、じっと黙ってチャンスを待つ。資源が限られているので、打てる手にも限界がある。多くの指示を出しても、戦場は混乱するばかりなので黙ってチャンスを待つ。そして、機会が来たかと思うと、おもむろに立ち上がり、「突撃」と指示を出す。その戦で勝てれば、領土を拡大し、戦略的に優位なポジションにつける。もしも負ければ、最悪の場合には、打ち首となる。

一つ一つの指示(手)が、死活問題となるのである。

戦(いくさ)をやっている人間にとって、囲碁は疑似体験の場であって、戦いの場ではない。従い、囲碁では負けてもいいけど、戦では決して負けられないのである(プロ棋士の場合は別だが、戦国武将にとっては戦にさえ負けなければいいのである)。囲碁は、頭脳の戦いでありながらも、精神の戦いでもある。心を平静に保ち、気合が重要となる。決して勝てると思って興奮したり、負けそうだと思って苛立ったりしてはいけないのである。興奮したり、苛立ったりすると必ず負けるものなのである。また、気合が無いと、気合負けするものである。

戦も同様のことではないかと思う。気持ちが重要である。決して奢らず、平常心で、冷静に判断することが要求される。 そして、勝っても奢らずに反省することが重要になるのである。

信長などの戦国武将は、囲碁を打ち、負けることによって自分の足りなさを痛感でき、自らの頭脳と精神力の鍛錬できるのである。また、囲碁を打つと、トップの判断の重要さを理解できるし、勝つ方法論もわからずに戦うことの無謀さも痛感する。

つまり、囲碁という戦場の疑似体験をすることにより、戦いの厳しさを認識し、自らの頭脳と精神力を鍛錬するために、信長は囲碁を打っていたのではないかと思えてくる。

2)囲碁を通して大局観・判断力を養っている。

囲碁と経営は、限りなく近いと思う。その二者の関係は、簡単に言ってしまえば、僕の持論だが、以下で言い表されると思う。
「複雑性が高い経営の世界から、無駄なものを省いて単純化したあとには、囲碁盤の黒石と白石の世界が残った」。

つまり、複雑なものを複雑なまま捉えても、何ら意思決定できない。複雑なものをある程度構造化して、単純化しないと意思決定はできないのである。「無駄なことを省いて単純化」する。つまり、実際の経営から、以下3つの要素を除外すると経営は囲碁とほぼ同じになるという事だ。

・経営の世界では、経済、金融などの外部環境が移り変わる
  (囲碁では、対局者の打ち手によって生まれること以外の環境変化は無い)
・経営の世界では、必ずしも競合他社は、1社じゃないし、同じ資源を持ってはいない
  (囲碁はあくまでも、相手は一人である)
・経営では組織・人の要素がある
  (囲碁の場合には、全ての石は同じ能力を持っていて、必ず棋士の言う通りに動いてくれる。でも現実の経営では、そうはいかない)。

上記要素に加えて、会社の現況を分析するには、多面的に統合して考えることが要求される。例えば、市場から見るマーケティング的な視点であったり、財務から見るファイナンスの視点であったり、人という側面から見る人的資源管理であったり、更に、競合他社という側面で見る経営戦略的視点であったり、である。そのように多面的に見たものを、様々な因子の相関関係を理解したうえで、重要性・緊急性を理解して、優先順位付けすることによって、始めて経営の意思決定ができるのである。

複雑なままでは判断ができないが、ある程度単純化して、先に述べたとおり、相関関係を持たせて、優先順位をつけることによって始めて意思決定ができるようになるのである。良い経営者は、その大局観やセンスを持ちながら、様々な状況の変化に応じて適切な指示を出していくのである。

その相関関係をもった最も高度なゲームである経営は(僕は経営をゲームと言い切っているが)、囲碁と限りなく似ているのである。戦も同じものではないかと仮説を立てられる。陣地を取るための戦いをして、局所で様々な戦いがある。その中で、捨石を使ったり、負けそうな場合にはサバいたりする。そして、重要な要所に兵隊を集中させて、一気呵成に攻め込むのである。その際には、対局的に見る力と、複雑なものを構造化・単純化してみる力とが必要なのではないかと思う。

信長は、囲碁を打ちながら、大局観を磨き、複雑な戦況においての判断能力を養っていたのではないかと思われる。

3)負けることによって、戦略の重要性を学ぶ。
「負けることによって初めて、戦略の重要性を痛感する。負けない限りは、戦略の意味を理解できない」、と僕は、囲碁を通して、考え始めている。

僕は、米国ハーバード経営大学院で、マイケル・ポーター式の戦略論も学んだ。ところが囲碁を打ってみて、初めて戦略の本質が理解できるようになったと思っている。僕は、ある程度経営戦略を理解していたと思っていたが、それは勘違いで、実は全く理解していないことを痛感した。なぜならば、人間負けなければ、戦略の本当の重要性を認識しないからである。それまでは、しょせんは戦略ごっこみたいに、頭の中で構想を練っていた程度である。

囲碁を通して学ぶことの一つが、「捨てることや選ぶこと」の重要性である。

経営でもMBA的な定石があるように(マーケティング、ファインナンスetc)、囲碁の世界にも、手筋、寄せ(ヨセ)、詰碁などのパターン化された定石がある。経営でMBA的な知識を知っていて当たり前のように、囲碁でも定石を知っていてあたりまえである。知識や定石では勝てないのである。重要なのはいかに戦略をたてて、構想を練って、一つ一つの打ち手を出すがである。つまり、知識・定石を使って考える力が重要なのだ。

僕は、現在囲碁を打っている感覚で、経営をしている。先ず、戦況判断をして、彼我の能力・ポジショングの差を認識する。相手の弱点を考える。絶好点を見極めて、戦略的に優位なポジションを確立すべく努力をする。

戦も同じではないかと思えている。戦略の重要性は負けなければ、認識しない。でも、戦では、負けたら終わりなのである。徳川家康は、三方ヶ原で武田信玄に敗北したあと、その時の自画像をずっとかけ続けていたという。そして、常に負けることの辛さを、自らに思い起こさせ、戒めていたという。家康は、幸いにも負けても生き残れたから良かった。通常、戦では、負けることは、死を意味する。一方、囲碁では負けてもいいのである。そして、負けることにより、勝つための願望が生まれてきて、負けないため、つまり勝つための戦略を真剣に学ぶのである。

信長は、囲碁で負けることを通して、戦略の重要性を認識していたのではないかと思えている。

僕は、グロービスを立ち上げて、ベンチャー経営者の立場でありながらも、今ベンチャーキャピタルもやっている。経営書を読み、経営を実践し、投資も行いながらも経営に関する研究もしてきた。ただ、経営面に関して、経営そのものから学べることには、自ずと限度があるのではないかと認識し始めている。音楽、芸術、スポーツ、遊びなどを通して、人間の幅を広げていく努力をする。そして、歴史、心理学、進化論、哲学などさまざまな分野の読書をする。

そして、その中でも囲碁は、経営から学べない新たな世界を広げてくれたのである。信長が囲碁を打ってた理由は、結局のところ良くわからないのである。本当は、趣味でやっていたのかもしれない。ただ、僕は、あの忙しいはずの信長が囲碁を打っていたということで、囲碁を打つことの安心感を覚えるのである。

と、偉そうなことを書いてきたが、碁盤の前で勝負をするといつもボロボロになって負かされていくのである。そのたびに泣きたくなるほど情けない気持ちになる。でも、それでも、打ち続けているのである。囲碁には、そのような魅力があるのである。

そして、明日の夜もまた囲碁を打ちに、ダイヤモンド囲碁サロン(DIS)に向かうこととなる。

2005年6月8日
自宅にて
堀義人

 

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