プロジェクト3日目の朝を迎えた。いつものように朝6時にモーニング・コールが鳴った。筋肉痛と旅の疲れからか、まだ体がダルかった。朝6時半から朝食をとり、朝7時半に集合した。本日は、僕が四男と五男、妻が長男から三男とチームを組んだ。僕らは、トイレ担当となり、妻達は、孤児チームに所属することとなった。
「孤児チーム」とは、250人いる孤児達のうち、高学年の生徒100名程度を対象としたプロジェクトだ。彼らは、家庭内暴力の対象となったり、両親の資産を失ったり、ときには性的嫌がらせを親族から受けたりすることがあるという。従い、自分達がおかれた境遇に敏感になっているので、このプロジェクトでは、「孤児(Orphans)」という言葉を使わずに、「傷つきやすい子供(Vulnerable Children)」という表現を使っていた(但し、このコラムでは「孤児」という言葉を引き続き使わせてもらうことにする)。
今回の孤児チームの使命は、休みの間に登校してきた孤児達とともに、「思い出本(Memory Book)」を作ることだ。孤児たちは、精神的障害などから自分の記憶を失う場合があったり、大人になるにつれ、アイデンティティを失ったりすることがあると言う。その彼らから、現時点で知りうるかぎりの自分の生い立ちや家族構成などを思い出してもらい、自らの生きてきた証(あかし)として記録を残すプロジェクトだ。
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他の単純な肉体労働とは異なり、心と心の交流が必要な役割であった。
一方、僕らが担当するトイレチームの役割は、トイレの中を掃除し、壁にペンキを塗り、美しくする役割である。トイレの狭い空間に於ける単純労働だ。正直言ってあまり気乗りしない。アフリカまで遠く日本から遥々やってきて、与えられた役割がトイレの掃除とトイレ内壁のペンキ塗りである。ま、そうは言っても「アフリカの子供達に良い教育機会を提供したい」という一心で、労働に勤しむことにした。
7歳の四男と4歳の五男に、トイレの内壁の下側を塗ってもらい、僕は、彼らが手の届かない上の壁を担当した。慣れないから、ペンキが顔やTシャツに落ちてくる。内壁が終わると、今度は各トイレの木製のドアと、各トイレの両側の壁だ。そして、休憩を挟んで、最後は、トイレの窓枠のペンキ塗りだ。高い位置にあるから、梯子が必要だ。南側に面しているので、日差しがジリジリと首元に照りつけてくる。
この作業をしながら、この「労働奉仕」という意味を考え始めた。そもそも工事現場で働く現地人の賃金は大体1時間1ドル程度だと言う(ちなみにジンバブエでは、インフレのため、現地通貨よりも米ドルが一般的に、使われている)。仮に僕が頑張って、彼らと同じ生産性で働けるとすると、僕の労働の経済的価値は、1時間1ドルだ。従い、僕が行っている4時間の労働の経済的な効果は、4ドルとなる。もしも僕が働かずに、現地の労働者を雇えば、4ドルあれば、同じ仕事ができる計算となる。一方、僕の日本における学長やベンチャーキャピタルの代表としての経済的価値は、1時間1万円以上となる。
ということは、僕がアフリカで行っている労働奉仕の経済的価値は、日本での労働の1/100以下となる。アフリカでの労働奉仕を行うことよりも、日本で仕事をしている方が社会全体に対して経済的価値を生み出している計算となる。
「この労働奉仕に意味があるのだろうか?」。「これはあくまでも自己満足ではないか?」、「僕が、この作業を行わずに同額を寄付して、現地の労働者を雇った方が、失業にあえぐ現地に雇用が生まれて良いのではないか?」、「僕らは、もしかしたら彼らの雇用機会を奪っているのでは?」と色々と考え始めてしまった。
そうなると、「そもそもこの労働奉仕というのは、あくまでも自己満足のために行っており、経済的意味合いは、殆ど無いのでは?」とまで、ペンキを塗りながら考えてしまうのだ。「午前中4時間の労働の価値は、たった4ドルなのか」、と考えると、急にやる気が失せてしまう。
ネガティブに考えても仕方が無いので、建設的に考えることにした。「僕にしかできない経済的価値が高い貢献とは何か? 事実、このIsikoloプロジェクトには、画家も参加している。彼は、絵を描いて、その絵をオークションにかけて、その収入を寄付するのである。資産家は、お金を寄付することによって貢献できるのでは。ネットワークを持っている人は、このようなプロジェクトを企画・運営することによって貢献しているのでは。ジャーナリストは、その現状を多くの人に知らしめることによって貢献するのでは」、と考える。単純作業をしていると不思議と頭が良く回る。
「僕の労働奉仕の経済的価値を高めるには、奉仕のシンボリックな度合いを高めて、社会全体への認知を向上することにあるのではないか。多くの日本人及び世界の人々に、このアフリカの現状を知らしめることにより、社会の関心が高まり、ボランティアが増え、寄付金も多く集まるようになるのではないか」、などと考えていた。
マザー・テレサも言っていたが、「愛情の反意語は、憎悪でなく無関心」である。「アフリカの現状に背を向けることなく、日本・世界での関心を高めさせ、意識とお金が流れるようにすることが僕の役割の一つではないか。孤児の場合も同様だ。関心を寄せ、愛情を施すことが重要なのだ」。
(筆者注)そこで、僕はコラムを書き、多くの人々にアフリカへの関心を高めることにした。だからこそ、今猛スピードでこのコラムを書いているのだ。これが、僕が行える経済的価値が高い貢献なのだ。1時間1ドルの価値を無限大に広げることができるのである。
「一方では、教育効果もあるのであろう。子供達が、アフリカの現状を知り、自分達がどれだけ恵まれているかを認識し、労働奉仕をすることの意味合いを考える。その機会を子供の時に与えること、その事自体に、無限大の価値があるのではないか」、と。これは、労働奉仕を通して与えているのではなくて、逆に価値をもらっているのだという考え方である。
ペンキを塗りながら思索を重ねていたが、ふと妻達が気になり、トイレの労働の合間を縫って、孤児チームを覗きに行った。長男、次男、三男が現地の人々と机を並べて、一生懸命に交流を図っている。一緒になって、「自分が小さいころはどうだったか」という課題に取り組んでいた。他の生徒は、英語で書いている中、次男は日本語で書いていた。もしかしたら、僕らの子供達の方が、その奉仕から得ているものが多いのではないか、と思えてきた。
僕も隣に座ってみた。皆、目が輝き、性格もまっすぐないい子ばっかりだ。休憩時間には、現地の子供達や僕らオレンジ色の労働者が入り乱れて、サッカーを楽しんだ。サッカーは、現地の人は皆うまい。言葉が通じなくても、スポーツや歌、身振り手振りで交流することができるのだ。言葉も大事だが、それ以上に交流しようという意識が大事なのだ。
休憩時間が終わり、トイレの持ち場に戻った。僕は、ひたすらトイレのペンキを塗り続けた。手がペンキ色に染め上がっていく。普通の石鹸では落ちないので、シンナーのような液体を使って色を落とす。手がシンナー臭くなるのだ。そしてまた続けた。
正午にサイレンが鳴り、その日の労働奉仕を終えて、ホテルに戻った。4時間で4ドルの経済的価値を労働奉仕から生み出しながらも、一方ではそれ以上のものを学び、受け取ることができたと言えよう。
2010年8月9日
ジンバブエのホテルにて執筆