朝7時に自宅を出て、羽田空港に向かう。朝9時前の台北行きフライトに乗り、台湾へ。これから2泊3日の台湾出張だ。YPO(Young President Organization)という若手の経営者団体の同期の仲間が、50歳になるのに合わせ、卒業旅行をすることになった。
昼前に台北に着いた。気温は30度近くて、まだ暑い。仲間とともに車を相乗りし、ホテルでチェックイン後にお茶をしながら談笑した。目的が親睦だ。だから、まったりとした雰囲気の中で、中国茶を飲みながら、ただ語り合うことが重要なのだ。サンヨー食品の井田さん、とんかつの「和幸」の経営者と先ずは3人とで親睦。ちなみに、今回は総勢11名だ。
午後1時に、 ロビーで市内観光のガイドさんと待ち合わせた。後発組の仲間もホテルに到着していた。他の仲間は皆B級グルメツアーに行く計画だが、僕は観光することにした。なぜならば、尖閣諸島の問題で、台湾と日本との関係が微妙になりつつあった。そこで、「台湾と日本」というテーマで台湾を回りたくなったのだ。
車の中から、旧帝大の台湾大学医学部、旧総統府の公邸(現迎賓館)を眺める。すると目の前に威厳ある、どでかい建物が目に入った。旧総統府である。今も、台湾総統が執務しているらしい。赤い煉瓦で壁面が装飾されていた。その旧総統府の横には、日銀に似た台湾銀行の建物だ。全て日本統治時代からのものだ。
10月10日の国慶節(中国の建国記念日。今年で101回目)を直前に控え、総統府の目の前で、何やら式典の準備をしていた。その近くにある、国立台湾博物館前で下車し、中に入った。この博物館は、1908年に台湾南北縦貫鉄道開通を記念して、台湾総統府博物館として創立されたものだ。明治人の気概を感じる。
ガイドさんによると、故宮博物院に行く人はいても、この国立博物館に行く日本人はいない、と。だが、この博物館こそ、台湾における日本を実感できる場所なのだ。3階に、二人の偉大な日本人の銅像が展示されているのを発見し、感動した。その二人の日本人とは、児玉源太郎と後藤新平だ。
児玉源太郎は、あの203高地奪還の戦略を練り、遂行した指揮官だ。後藤新平は、関東大震災後の東京のグランドデザインを創った人だ。この博物館は「児玉総督後藤民政長官記念館」と呼ばれていた。なぜか? 1906年に、第四代台湾総督だった児玉氏が7月に急逝し、9月に後藤氏も日本へ転任となったからだ。2人とも台湾の発展に貢献されたのだ。
台湾に残された人々が一念発起し、お二人を記念するものをつくるために寄付を募り、完成させたのが現在地のこの建物だ。1915年のことだ。1908年に創建された博物館の展示品はこちらに移設された。当時より、お二人のほぼ等身大の銅像がロビーの両脇に設置されていたのだが、中華民国が戦後接収した際に、二人の銅像は撤去され収蔵品になっていた。
2008年の博物館建築100周年の際に、その二人の銅像を展示することにし、今に至っているのだという。3階の片隅とは言え、歴史をそのまま残し、今も綺麗に展示してくれていることに対し、台湾の皆様に感謝したい。僕は、児玉源太郎、後藤新平、双方を尊敬しているから尚更そう思えてくる。
観光ルートにないところばかりを要求されて、戸惑うガイドさんを尻目に、日本統治時代の台湾探索の旅は続く。台北当代芸術館(旧建成小学校)の建物を見物し、中山堂(旧台北公会堂)に到着。1936年に建てられものが今も使われている。ガイドさんによると、「中山」とは孫文を意味し、「中正」とは蒋介石を指すらしい。どの都市に行っても中山、中正を付けた通りを目にするのは、そのためだ。
ここ中山堂で、戦後日本から中華民国への引き渡し式典のようなものが行われたようだ。外に掲げられた「日本投降式典」と記載された写真には、日本人や連合国らしき人々が会議をしており、二階席からは米国と英国の国旗がかかっていた。ホールの中に入り、静けさの中でもの思いにふける。この公会堂で、戦前数多くの公演等が開かれたのであろう。三階のレクチャールームは、畳の上に机が設置されていた。所々で日本を感じることができた。
二二八和平公園にある台北二二八記念館を訪問した。1947年にタバコ販売をしていた中年女性が射殺され、それを見た民衆が役人と衝突した。民衆が、ラジオ局を使ってその模様を全土に伝えたところ、全台湾で民衆(戦前から台湾に住んでいた本省人)が蜂起した事件だ。台湾全土で2万8千人が虐殺された。この二二八記念館は、台北放送局の建物を改築したものだ。
二二八記念館には、虐殺された人々の名前と顔写真そして証言が記録されていた。イスラエルのホロコースト博物館を思い出した。二二八事件に関しては、台湾内でも以前は語ることが禁じられたのだが、50年経ってやっとオープンにできるようになったのだと言う。
記念館の中を一通り観て回った後に、日本語のパンフレットを手に取った。すると、老人がニコニコしながら、僕に日本語で語りかけてきた。ボランティアガイドの陳信深さんだ。陳さんからその当時の状況を、日本語で直に聞くことができた。陳さんの叔父さんは、嘉義市の警察のトップであった。だが、二二八事件を取り締まらなかったという疑いをかけられ、事件後に捕まり、駅前で銃殺されたのだという。
実際の蜂起による銃撃死者以外に、陳さんの叔父さんのように、事件後に捕まり銃殺、或いは暗殺された知識人が多くいた様だ。「日本が育てた知識人が、数多く殺されてしまった」と陳さんは、嘆いていた。
「日本は、台湾に5つの重大な貢献をしてくれた」と陳さんは、教えてくれた。
1)衛生:それまでは、不衛生で伝染病が多かったが、乃木希典総督時代に東京大学医学部を台北に持ってきてくれて飛躍的に台湾の衛生が向上した。
2)教育:日本統治時代以前では教育を受けていたのはたったの3%だったが、終戦時には97%に跳ね上がった。
3)交通:日本統治時代に台北から台南そして、さらに北上してほぼ山の手線の様に台湾を循環できる交通網を整備してくれた。
4)経済:ダムを建設するなどして、電力を確保し、製糖工場、石油化学工場、セメント工場を建設するなど経済の基盤を作ってくれた。
5)農業:八田ダムの建設を筆頭に灌漑用水を整備し、今残る灌漑の2/5は、日本が整備したものである。
「本省人は、皆日本の貢献に感謝している」。陳さんは続けた。「台湾をその前に統治したオランダは、400年前に台湾に来たが、何もしてくれなかった。オランダがしたのは、税金をとり、貿易をしただけだ。その違いは歴然としている。だから、台湾は親日的で、東日本大震災の時には、皆で寄付をした」。僕は、そのお言葉に対して、「日本国民は皆台湾人に感謝をしています」とお伝えした。
陳さんは続けた。「尖閣諸島の問題で、15%の外省人が台湾人を代表しているかのように振る舞い、騒ぎだし、日台関係を壊しているのが、悔しくて仕方が無い。だからこそ、ボランティアとして、歴史の証人として語りべの役を引き受けているのだ」と。昭和6年生まれの陳さんのお言葉に、帽子をとり深々と一礼し感謝申し上げた。非常に心温まる話だ。
次に向かったのが、康楽公園だ。ここは、戦前は日本人墓地だった。乃木希典3代目総督のお母様や明石元二郎7代目総督の墓所があった場所だ。明石7代目総督は、故郷の福岡で死去するものの、本人の生前からの希望でこの地にお墓をつくり、永眠したのだ。1945年に主権が中華民国に移行した後にお墓は撤去され、住居が立ち並んでいたものを、陳水扁氏が市長の時に整備したものだ。
広い公園の前に大小の鳥居が立っていた。日本以外で鳥居を見るのは、珍しい。鳥居の前で、一人ベンチに座り、佇んだ。台北は、夕暮れ時だ。空は厚い雲で覆われ、あたりから光を奪いつつあった。道端には街灯がともり始め、行き交う車のヘッドライトが点灯していた。子供達が、墓地だった公園でサッカーを楽しみ、犬と戯れていた。
公園で遊ぶ台湾人の子供達が、鳥居の柱の間をゴールにしてサッカーを楽しんでいた。不思議な光景だ。小さな鳥居の上部の両端は時を経て折れてしまい、鳥居の形が漢字の「円」の字になっていた。その横に大きな鳥居が立ち、その間に明石総督に関する碑が無造作におかれていた。子供達は楽しそうだった。
歩いてホテルに戻り、部屋でシャワーを浴び、外出の準備をした。夕食時に、フカヒレを食べながら、11人の仲間たちと思いっきり談笑した。そして、二次会は、現地のクラブで地元の人々との「交流」を楽しんだ。
2012年10月10日
自宅にて執筆
堀義人